いただきます

「……つかれた」


 ぽつりと呟いてから苦笑いする。声が漏れるほど疲れているが、悪い気分ではなかった。


 元々精力的に仕事に打ち込む性質ではなかった。熱心に取り組むのは夜通し新しい回路を組み立てている時くらいで、普段の講義などは例年同じ内容なのだからと資料や講義内容は使い回し。


 もちろん生徒たちの様子を見て進行度を調整したり、遅れている子のフォローをしたりはするが、初等科の講義内容は基本的に基礎知識の詰め込みであり、言ってしまえば暗記の範疇だ。講義の進行に遅れてくる子がいたとしても、書き取りや補講を挟んで何度か教えれば初等科卒業には十分だ。


 生徒同士の人間関係トラブルが無いとは言わないが、個人的な問題には私は極力干渉しないようにしている。幸い、特定の子が孤立したり、生徒たちの間に上下関係ができるようなことはこれまで無かった。


 だから、というのもおかしな話だが、私にとって教職は生きる糧を得るためのいわば副業で、私自身は研究者なのだと思っていた。


 しかしあの二人に特別講義を始めてからの数日、私は自分の研究の時間などほとんど取っていない。それどころか家に帰ってまで、二人によりわかりやすく魔術回路の基礎を教えるにはどうすればいいかをずっと考えている。常に手を動かしているからか、気づけば煙草の本数さえも減っていた。


 ハーシュを教えていた時以来の充実感と、それに伴う心地よい疲労。そうとも、悪い気分ではない。むしろここ数年のうちではいちばんよいコンディションで教職と向き合えている気さえする。


 ……けれど。


「本日も訪問者は二人のみ、か」


 ちらりと研究室の入り口を見やるが、さきほどリーリとアルカが出ていったその扉の外に人の気配はない。


 あの苦いデートから数日。リーリとアルカに教えを請われ、そのために時間を費やしているおかげで苦みばしった感情はいくらか薄れてきた。教鞭をとる自分に集中していれば、ハーシュとのことを思い出さずに済むからと、わざとそうしている節も自覚している。


 ただ、それであの子のことを忘れられるかと言われればそんなことはない。


 むしろそんな風に逃げ出しているという自覚があるだけに、ふとした瞬間にハーシュのこと、私の隣で笑っていたあの子の表情から、告白未遂のときの泣きそうな瞳、触れた唇の震えと熱い吐息、約束だからですかと、そう言って俯いたあの日の姿を思い出す度に、喉をかきむしりたいようなもどかしさと渇きに似たなにかに襲われる。


 もしかしたらいつものように何食わぬ顔で会いに来てくれるんじゃないか、なんて都合のいい想像も、二日と空けずに研究室を訪れていた彼女がぱったりと顔を出さなくなった現状では気休めにもならない。むしろ、彼女と私との間には明確に線が引かれてしまったのだという思いを強めるだけだ。


 思い出す度に渇きは強まり、自分が手放したものの大きさを否応なく自覚させられる。


「そりゃあでかいさ、英雄さまだものな」


 などと研究室のソファで嘯いてみたところで、そんな理由さえも偽りだと自覚していれば虚しいだけだ。


 そうだ、ハーシュが英雄だから喪失が大きいなんて馬鹿げた話で。ただただ、私にとってあの子が大事だから。吐く息がやたらと硬質でいくら吐き出しても胸が軽くならないのは、その喪失が私にとってどれだけ重いかのわかりやすい証拠にしかならない。


 けれどそう思えば思うほど、やはり私の身勝手にあの子を付き合わせる訳にはいかなかったのだと、これでよかったのだという思いも強まっていく。


 願わくば、この痛みが私のものだけであればいい。

 あの子の胸も同じくらい苦しければいいなんて、そんな身勝手な思いには蓋をしなければ。



* * *



「……いかんな、こんな調子では」


 酒でも煽れば多少はマシになるかと、重たい身体をどうにか動かして、行き先を自宅から酒場に変更したが、いざたどり着いて飲み慣れた酒を流し込んでも、意識がふやけるだけで胸の空白は埋まる気配もなかった。


 最後に残った理性で明日も仕事だと言い聞かせて、どうにか日付が変わる前には酒場を後にしようと立ち上がった――ところで。


「どうもこんばんは。お隣、よろしいですか?」


「……あぁ?」


 騒がしい酒場には似合わない柔らかな声音でそう声をかけられて、酔いで濁った目で声の主を見返した。


「誰かと思えば、聖女さまじゃありませんか。お好きな席にどうぞ、私はもう帰るところですから」


「あら、もう少しくらい良いでしょう? こんなに飲んだんですもの、あと何杯か追加したところで変わりませんわよね」


 聖女の名に恥じない清廉な微笑とは裏腹に、聖職者とは思えぬいい加減な酒の勧め方をした後、アレスはするりと私の隣に腰を下ろすと慣れた様子で酒を注文する。……それ、酒豪が飲み比べとかで使うような度数の酒じゃなかったか?


「じゃあ、私は帰るので……」


「お待ち下さいな」


 がしっと。柔らかい口調とは裏腹にがっちりと力強く手首を握られてにっこぉぉぉと微笑まれる。


「なんですか……」


「お酒を飲みながらすこぉしお話ししたいだけですわ。そう、例えばの話題など、いかがですかしら?」


「…………別に、私から話すことなんてありませんよ」


 言い返しながらも、結局離してくれそうにないアレスに対しての抵抗を諦めて、私は席に座り直し、水を一杯頼む。


「あら、お酒でなくてよろしいの?」


「今夜はもう十分です。明日に残すわけにもいきませんから」


「お堅いんですのね」


「聖職者の方ほどでは」


「いいえご立派ですわ。ええ――とても弟子の魅力にコロッとやられてキスの雨を振らせた人間とは思えませんもの」


「んぐふっ、っげほ、ごほ」


 痛った! 口に含んだ水が、口といわず鼻といわずあらゆる場所から吹き出した。うぐ、鼻がじんじんする……。


「あのバカ弟子、そんなことまで話していやがるのか」


「ええ、それはもうたっぷり詳しく。とても睦まじい様子で、嫉妬してしまいますわ」


「……それはどうも」


「ええ、ええ、本当に羨ましいです。とても、とてもね」


「…………」


 清廉な笑顔の中で、両の瞳だけがねっとりと粘つきを伴って私を絡め取ろうとする。酒で鈍った私の頭でも、彼女の言う「嫉妬」が決して口先だけのものでないことは感じられた。


「あの子から聞いたんですか」


「ええ、一部始終を。ですからあの子の友人として、一言申し上げてもよろしいでしょう?」


「まぁ……」


 友人、という言葉に籠もった熱はなんだろうか。嫉妬でもあり、誇りでもある気がした。


「告白を受け入れるも、受け入れないも、それはもちろん貴女の自由です。恋人や伴侶を選ぶ権利は誰にでも平等にありますから」


 けれど、と続く言葉こそが本題なのだろう。私は身構える。


「彼女の言葉を聞きもせず告白そのものを拒んだのは、貴女の弱さですわね。貴女が逃げ出してしまったから、あの子の気持ちは迷子になってしまったのです」


「それは、時間が」


「時間は確かに偉大ですわ。大抵の物事は押し流して過去にしてしまえる。けれど、ですわ。過去になったから、過ぎ去ったからといって癒やされるものではないのです。受けた疵が風化して感覚が鈍くなっても、疵そのものはずっと残るのですよ」


「ずいぶん遠回しですね」


「では直截に。……ハーシュの恋を、貴女は残酷にも縫い止めたのです。彼女が前に進む機会を奪ったのですわ」


「そんな、ことは」


 あの子はまだ若いから。これから先、多くの出会いがあり、私へ抱いた感情など風化していくだろうから。一時の失恋の痛みなんて、時と共に消えるものだから。そう思って、私はハーシュを突き放したのに。


「受け入れるなら迷わずそうしなさい。拒絶するなら徹底的に突き放しなさい。言葉も態度も濁してはいけません。それは、あの子の気持ちへの最も卑劣な裏切りですよ」


「…………」


「本当に、羨ましい。だからこそ――私は貴女を許しませんわ」


「っ」


 私に向けられたアレスの瞳には、私を射抜くような鋭い敵意と、どろりと粘つくハーシュへの執着が滲んでいる。聖職者のような顔で、聖職者のように私を諭しながら、きっと彼女が本当に私に言いたかったのは最後の一言だけなのだと理解した。


「私に、どうしろというんですか」


 緊張に震える声で私が言うと、アレスはフッと表情を緩めた。許しではない。彼女の笑みの色は嘲りだった。


「何も。これ以上貴女に期待することは何もありません。ただ、これは私なりの礼儀なのですわ」


「礼儀?」


「ええ。貴女に恋した女の子は、私がいただきます。今日は、そのご挨拶に参りましたの」


 ごと、と木製のジョッキが床に落ちた。こぼしましたよ、なんていうアレスの言葉はもう、私の耳を素通りしていて。


 とっくに酒も抜けたはずなのに、ばくばくと激しく心臓が鳴る。耳鳴りがして、視界がぐにゃりと歪んだ。アレスの丹精な顔が識別できなくなった辺りで、私は慌てて席を立ち、外套をひっつかむと何も言わずに店を飛び出した。


 家まで堪えられず、私は裏路地に滑り込むと胃に収めたはずの酒とつまみの大半を吐き出して、道に食わせてやった。


「……っは、けほ、ぅえぇ、っほ」


 口の端を伝う酸っぱいものを手にしていた外套で適当にぬぐって、自分の吐いたものを踏むのも気にせずその場に座り込んだ。


 なぜ、私はこんなに動揺しているんだ。


 わかっていたはずだ。望んでいたはずだ。あの子が新しい恋を見つけて、私ではない誰かがあの子の特別になって、そうなったらいいと思っていた。その時は祝福してやれると思っていた。


 聖女アレスはあの子と三年の旅を同道した人間で、ハーシュ自身の口から土産話を聞く中で何度も耳にした名前だ。同じ後衛職ということもあり、戦闘以外でも何かと関わりが濃かったと聞いている。アレスの女癖の悪さには困らされたものですよ、と言うあの子の表情は穏やかで、それがどんな種類の感情であれアレスという女もまたハーシュにとって特別で大切なのがよく伝わってきた。


 そんな人物が、ハーシュのパートナーに名乗りを上げた。私が知りもしない誰かよりもよほど安心できる相手のはずなのに、私は彼女の言葉に吐き気を堪えきれなかった。


 私がいただきます、とアレスの言葉を聞いた途端、脳裏にキスする二人の姿がよぎった。それだけで、私は飲み食いしたものを全て吐き出して、まだ胸がムカついている。


「こんな、はずじゃなかった。私は、こんな、違う、あの子のためだ、あの子の、ために、師匠として、私、わた、しは――」


 必死に唱えるのは言い訳。誤魔化し。自分でもそうとわかるほどめちゃくちゃな言葉。自分を騙す言い訳がボロボロに剥がれ落ちるほどに、私の目があのアレスの粘つく瞳と重なっていくのを感じる。


 これが嫉妬。


 聖女の目をあんなにギラつかせた、どす黒く甘苦しい感情。

 もう、喪失なんて、空虚なんて言葉には逃げられない。


 ハーシュが欲しい。あの子の隣を他の誰にも譲りたくない。そんな醜い己を、認めてしまう。


「……っ」


 ぎゅっと、自分の身体を強く抱く。感じるのは冷え冷えとした自分の身体だけ。腕の中に、ハーシュはいない。その感覚にこみ上げてきたものを、私はもう一度、路端に吐き捨てた。

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