もう、十分に

 最高のデートを最低の逃亡で終えた翌日。私は酒も飲んでいないのに鈍く痛む頭に顔をしかめながらベッドの上で身を起こした。


「……朝か」


 昨夜ベッドに倒れ込みながら「目覚めたら世界滅びろ」と吐き捨てた呪詛は実らなかった。実らなくてよかったと思う。あの子が命をかけて守った世界だ。そう簡単に滅びてもらっちゃ困る。


 そう思う一方で、それでも滅んでいてくれれば、目を覚まさないで済めばその方が楽だったと途方もない身勝手さで落胆する私も確かに存在していた。


「くそったれな朝だ」


 ベッド脇のキャビネットに置きっぱなしになっていた煙草と灰皿を引き寄せて、いつものように火をつける。


「……ふ、ー」


 いつものように煙を吐き出すことすらも、慣れたはずのそれさえ上手くいかずに息がつっかえる。これでいい、これが正しいと決めて、自分で出した答えのとおりに行動した。あの子の将来のために私が一番役に立てることは、あの子を縛らないことだというのは間違っていないと思う。


 人のために正しいことをするのは気分が良いはずだと思っていたが、いざ人のためと思ってしてみたことは、私の心を手酷く痛めつけるに十分過ぎた。やはり人のために何かするなんて柄ではないなと笑おうとして「は、っは」と笑い声とも言えない息がかすれて漏れた。


「嫌われたかな……」


 覚悟していたつもりだが、なかなか心を軋ませるものがあった。


 あの子を憎からず想っている自覚はあったが、告白を断った、というか告白そのものを拒んでようやく、自分の想いの大きさを自覚する。嫌われても仕方ない、と昨日のあの瞬間までは想っていたのに、こうして一夜明けてみれば、もう死んだ方が楽になれるんじゃないかと安易に考えるくらいには気が滅入っていた。


 ああ、これはひどい。重症だ、私はハーシュを好き過ぎる。


 あの子にキスをねだられるのを素っ気なくあしらおうとして、すぐに絆されていた。ハーシュの誘惑が上手いのだと言い訳を重ねてきたけれど、本人を突き放した今になってあの甘いキスを何度だってしたいと思ってしまうのは、言い訳という武装を失って本心がむき出しになったからだ。


 誘われたからしていたキス。誘われなければ、二度とあの唇に触れることは出来なくて。

 あの柔らかな感触も、甘い匂いも、湿った声も、もうこの手の届く場所にはない。あってはいけないと、そう定めたのは私自身のはずなのに。


 もしもこの世界が、私とハーシュ二人だけの場所だったなら。それなら私はあの子を抱きしめて、思う存分キスをしただろう。好きだと百万回囁いて、互いにドロドロになるまで溶け合おうとしただろう。

 世界への損失を気にする必要がなければ、私はあの子を抱きしめて、二度と離さないのに。


「……なんて、言えた義理じゃないよな」


 私が拒絶したのだ。悲しむ権利も、落ち込む権利もありはしない。あの子に世界に対する責任を押し付けたのなら、彼女を突き放した責任くらいは私だって果たさなくては。


「……あー、くそ、好きだ」


 煙草を灰皿にねじ込んで、よっと掛け声と共に身を起こす。

 いつまでも腑抜けていられる訳じゃない。世界は滅ばず今日も平和に日が昇った。私は学院へ出向き、いつもどおり仕事をしなければならない。


 一晩で立ち直れたとは言わないが、申し訳程度の身支度道具から手鏡を取り出して覗けば、何時も通りの仏頂面だ。元々愛想のない顔でよかった、とどうでもいいことに安堵した。



* * *



「どうしました」


「はい?」


 午前の講義を終えて研究室に引っ込もうとすると、私の研究室前で待ち伏せていたように出くわした学長に声をかけられた。


「どうって、何がです? どうもしませんよ、いつも通りです」


「そうですか。それでハーシュさんと何があったのです?」


「……あの、私の話聞いてます?」


「何年貴女の師匠をしていると思っているんですか」


 私が黙って研究室の中に入ると、当然のような顔で学長もあとに続いた。……いや、いいんだけどな、一応ここ私の部屋だぞ。


「それで、何があったのか聞かせてくださるかしら?」


「……個人的な問題ですよ。講義に影響は出ないようにしますから、問題はないでしょう」


「その点は心配していませんよ。これはただ、貴女を見守ってきた師としてのお節介です」


「お節介だとわかっているなら、放っておく優しさもあっていいのでは?」


「いいえ、貴女は放っておくといつまでも一人で悩み続けて先へ進まないではありませんか。魔術でも、人間関係でも」


「…………」


 さすがに、十年以上面倒を見てもらってるこの人の目は敏い。


「悩み事なら、いくらでも聞きますよ。ほら、私年長者ですから」


 ふふん、と胸を張られる。何を得意げにしているんだ、とこちらは呆れるしかないがこの人は案外、公の場以外ではこういう子供っぽいところがある人なのだと私もよく知っているので、ささやかに呆れるに留めた。


「残念ながら悩みなんてありませんよ」


「あら、私の目を誤魔化すつもりならもっと上手に隠してもらわないといけませんよ」


「いいえ、答えは決まりきっていて、結果も出ていることを引きずって落ち込んでいるだけ、ということです」


 そう、私の中で答えは出して、その通りに行動して、全部終わった。

 今さら取り消せる訳がないし、取り消すつもりもない。


 それなのに、私はまだ未練がましく落ち込んでいる。そう、これは未練。諦めるべきと理性が定めたことを、気持ちが受け入れられていないだけ。


 私が気持ちの折り合いをつけるべきことであり、誰かに相談したり、悩みを聞いてもらって解消する類の問題ではない。相手が気心の知れた師であっても、或いはそうであるからこそ、仔細を話しても仕方ないし、進んで話したいことでもないのだ。


「言いたくない、というなら仕方がありません。無理に聞き出すほど貴女は子供じゃありませんしね」


「……そうですよ」


 私はもう、子供ではなく。あの子もきっと、もう子供ではない。私達の問題は私達のものだ。望もうと望むまいと、もう、誰かに介入されるべきものではないのだろう。


「ですが、貴女の師としてひとつだけ」


「なんですか」


「貴女は貴女の望みをいつ叶えるのか、それをしっかり考えておきなさい。何も叶えずにこのまま漫然と過ごせば、いつか後悔する日が来ますよ」


「……私の望みは、あの子の未来より価値のあるものじゃないですから」


「いいえ。……いいえ、イアリー。そうではないのですよ。どちらが重いかではないのです、価値など、そもそも測るものでも比べるものでもないのです」


 そ、と師匠の、女性にしては骨ばった肉付きの薄い手が私の頬をつつと撫ぜる。その細い指と、私を見つめてなぜか悲しげに眉尻を下げる表情だけが、年齢不詳の彼女に年輪を感じさせる。


「弟子の未来を案じるのは師として当然のことです。けれどそれは、貴女の未来が弟子のそれに劣るということではないのです。貴女の未来にも、ハーシュさんと同じだけ、幸せがあっても良いのですよ」


「……私は十分、恵まれていますよ」


 幸せですよ、とは言えなかった。学長は何か言いたげに口を開きかけて、けれど結局それ以上何も言うこと無く口を閉ざした。

 師の顔から学長の顔へ表情を改めると、「邪魔をしましたね」と薄く微笑んで、部屋を出ていった。


「幸せ、か」


 倒れるように椅子に体を預けて、ぼんやりと天井を見上げる。


 考えたこともないと言えば嘘になるけれど、ちゃんと考えてますよと応えるにはあやふやだ。

 魔術を自分のものにするために必死になって学院の書庫を漁っていた頃、私は幼い頃に憧れた魔術を手にできなかったらこの手に何が残るのかと、そればかりに必死でそれ以外に何かを成そうとか得ようとか考えたわけじゃない。


 ハーシュを弟子に迎えた時も同じ。魔術に夢と憧れを持っていた頃の自分を裏切らないために、私はこの子を救わなければいけないと思った。彼女を教えるために、私は魔術に邁進してきたのだと思った。

 そんな風に、意味があるかもわからず積み重ねた過去に意味を与えられたあの日、私は確かに幸せで、その幸福を私に運んでくれたハーシュに感謝した。


 そうだ。私は確かに、自分の幸せを追い求めたことはない。けれどハーシュと出会い、あの子を育てたことで私はもう十分に幸せになっているのだ。


 だから、これ以上を望んではいけない。

 私はもう、十分に幸せなのだから。


 残りの人生は、あの子を幸せにすることだけ考えていればいい。あの子の可能性を見守り、あの子の師として正しくいることが、この先私がするべきことだ。

 そのために、私はあの子を私の人生に引き込まないことを選んだ。そうだ、そのはずだ。何も間違っていない。あの子の幸せな未来こそが私の望みで、そのために必要なことをしたに過ぎない。


「これでいい。そのはずなんだ」


 昨夜の家路で自分に言い聞かせた言葉を繰り返す。もう答えは出た。これ以上、何を悩む必要がある?

 まとまらない思考を積極的に誤魔化すつもりで煙草に火をつける。けれど脳裏にちらつくハーシュの泣きそうな顔は、煙のように揺らぐことも、消えてくれることもなく、振り払おうとするほどはっきりと浮かんでくる。


「あー…………仕事するか」


 考えるのをやめたくなった。

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