ええ、もちろん
「それで、どうなさったんですか? ルティもトマクも呼ばずに私だけ呼び出すなんて、珍しいではありませんか」
「…………」
教会まで押しかけて、一番遅くまで開けている酒場に強引にアレスを引っ張ってきたはいいものの、あたしの気力はそこで尽きた。どうしたのかと言われても、あたしはテーブルに突っ伏したまま何を口にすればいいのかわからないでいる。
「困りましたね。そのままだんまりでいられては、いくら聖職者たる私といえど相談にお答えはできかねますよ」
「…………ごめん」
「謝られても困りますけれど……はぁ、ほんとにどうしたんですの?」
わざとらしくこちらを気遣うようなことを言っていたアレスが、からかうのを諦めたのかわずかにつまらなそうに口を尖らせていつもの調子に戻った。
のろのろと顔を上げたあたしを見て、はーあ、とアレスがこれ見よがしのため息をこぼした。
「ひどい顔ですわよ。月並みですが、この世の終わりを見たよう、と言いましょうか」
「……似たようなものかもね」
「やっと口を開きましたわね。それで? こんな時間に私を連れ出して、結局何のお話でしたの?」
「……うん」
話。そう話だ。
相談なんてするつもりじゃないし、したとしてどんな答えを貰ってもきっとあたしは素直に受け入れられない気がする。誰かの言葉を受け止めるだけの心の余裕が、今はない。だからきっとアレスは何気なしに口にしただろうその言葉が、少しだけあたしの口を軽くしてくれた。
「……今日、ね。師匠とデートでさ」
「浮かない表情から察するに良い報告ではありませんわね。何か失敗でも? 貴女はそそっかしいですから、一つや二つの失敗なんかでいちいち落ち込んでいては上手くいくものもいき」
「おもっきしフラれた」
「ませんから――はい?」
つらつらとそれっぽいことを口にしていたアレスが目をぱちくりさせてあたしを見る。
「なんですって?」
「だから、フラれた」
「え、と……誰に?」
「師匠に決まってるでしょ」
「…………」
今度はアレスが言葉を失う。彼女があまりにも驚いた顔をするから、むしろこっちが冷静になってしまった。
「いや、え……? だって貴女、帰国からこっち、会うたびにのろけ話を聞かせておいて?」
「やめて」
「二言目には今日のキスの味はね、とか言い出しておいて?」
「や、それは」
「この間なんていつになったら抱いてくれるか楽しみだなんて言って」
「ごめんなさい勘弁してください」
先程まで突っ伏していたのとは別の理由で額をテーブルに押し付けた。
そうなのだ。正直ついこの間まで、いや今日のデート中ですら、あたしの頭はすっかりと浮かれていた。帰国したその直後こそ、三年ぶりに再会する師匠と自分が果たして以前のように親しくいられるかという不安があったものの、いざ顔を合わせてみれば三年前から変わらない包容力であたしを抱きしめてくれた。
約束のキスだってしてくれた。一度や二度じゃなく何度も。繰り返す度に師匠の熱が高まるような、そんな感覚が嘘だったなんて思えない。その確信が、あたしに思い込みを生んだのかもしれない。
師匠もあたしを好いてくれている、という思い込み。あるいは――。
「両想いだから、押し切ってしまえばお付き合いできる、と思っていたわけですねぇ」
「……面目ない」
「いえ、仕方ないと思います。普通恋愛といえば気持ちが通じ合うか否かですものね。貴女からキスをしただけならともかく、何度お願いしてもキスしてくれる、となればまぁ、言葉にしていないだけで想いがあると考えるのも仕方ありません」
「アレス……」
「というか、私はハーシュさんの視点からしかお話を聞いていませんからね。貴女ののろけが全部本当だというなら、お付き合いまで秒読み、というのを馬鹿な勘違いとは言えませんわ」
「なんか棘を感じるんだけど……でもそう、勘違いとは今でも思ってないの」
「へぇ? それはどうしてですかしら?」
「好きでもない人にキスできるほど、器用な人じゃないからね」
笑おうにも上手く顔が動かない。好かれている、それは自惚れじゃなく確信しているんだ。だからこそ、こんなに落ち込んでいる。
「……ああなるほど。仰りたいことがようやくわかりましたわ」
「言いたいこと、なんて別に」
「好かれているのにフラれた。だからどうすればいいかわからないのですね」
「……ん」
そう、師匠はたぶん、あたしのことを好きじゃないわけじゃない。あの人にとってその気持ちが恋愛感情なのかはわからないけれど、でもきっと、あたしと同じ家で暮らして、事あるごとにキスをして、同じベッドで眠ることを師匠は嫌とは言わずに微笑んでくれるくらいの、そんな気持ちは持ってくれていると思う。
でも、あたしはフラれた。想いをちゃんと伝えることも出来ないままに。
貴女のことを好きになれない、恋人とは見られない、そんな風に言われたのならあたしはこんな風に落ち込まなかった。それならいつか振り向かせてみせる、そう言ってきっと笑ったと思う。
でも師匠はあたしの「好き」を言わせずに、あの人自身の胸にある「好き」も言わずにあたしを拒んだ。あんなに熱いキスを何度もしてくれたのに、わざと渇いたキスをした。
好きだけど、受け入れられない。
あれはきっと、師匠のそんな意思表示。
師匠の考えの全てがわかる訳じゃない。でも、あたしが戻ってきた日に抱きしめてくれた師匠は、あたしのおねだりに何度だってキスをくれたあの唇は、嘘じゃない。
だからこそ、もうどうしたらいいか、わからなくて……。
「そうですね。好きでない、と言われたのなら好きになってもらえばいい。地道に関係を繋ぎ止めてもいいし、色仕掛けしたっていい、方法はたくさんありますし、好かれるという着地点は明確ですもの」
けれど、と続く言葉に、あたし自身わかっているはずなのに思わず身を固くする。
「好きだけど受け入れられない、それは好かれていないのとはまったく違いますわ。好きなのに、誰よりも大切なのに、受け入れてもらえない。それではもう、答えが出てしまったも同然ですものね」
「……うん」
そうだ。告白をして、断られるのならそれはまだ、この先変わっていくかも知れない。もっと好きになってもらえば、受け入れてもらえるかも知れない。
けれど好きであることを理由に断られてしまえば、もうその先はない。好きだから断る、というロジックが成立してしまったら、もっと好きになってもらったとしても結果は変わらない。もう、答えが出てしまったのだ。
「あたしの恋、終わっちゃった、かな」
「どうでしょうね。私たくさんの女の子の恋の終わりを見てきましたけれど、本当に恋が終わる時というのは告白が成就した時でも、フラれた時でもありませんでしたよ」
こと色恋に関してなら、アレスほど経験豊富な人間もそうそういない。……まぁその分いろいろと爛れた価値観をお持ちではあるのだけど、色恋について尋ねるなら間違いない人選、だと思う。
「……参考までに、どういう時か聞いてもいい?」
「恋が終わるのは、自分で恋を終わらせた時ですよ」
「自分、で」
「ええ。次の恋を見つける、なにかに没頭して気づけば恋を忘れている、二度と恋を振り返らないと決める。方法はそれぞれですけれどね、恋を終わらせられるのは恋をした自分自身だけなのですわ」
「自分だけ……」
誰かに終わらせられることもなく、想い続けていれば恋は続いていて。
誰かに終わらせてもらうことも出来ず、忘れられなければ恋は続いていく。
じゃあきっと、あたしの恋はまだ――。
「……終わらせてあげましょうか?」
「え?」
たった今、自分でしか終わらせられないと言った舌の根の乾かぬうちに、アレスはくすりと笑ってそんなことを言う。
「もちろん終わらせるのは貴女ですけれど、貴女がいまの恋を終えてもいいと思える、そのお手伝いをするくらいはできますわよ」
「手伝いって、なにを」
「そうですわね、例えば――」
ぐい、と身を乗り出したアレスの顔が迫り、思わず身を引く。ふわりと甘いものが鼻先をかすめた気がした。
「このままキスをする、なんていかがですかしら?」
「そんなの」
からかうような口調とは裏腹に、アレスの目には微かな熱が感じられる。
「本気、じゃないよね?」
「……ふふ、ええもちろん。それもひとつの方法ですよ、と言っただけですわ」
アレスは微笑んでスッと身を引いた、けれど。さっきの目はどうしても、ただの冗談には思えない。本気だとは思わない。でも冗談だと、ただからかわれただけだと思うには、なんだか少し……。
もちろん、とアレスは言ったけれど。
もちろん冗談です、なのか。それとも……なんて、あたしの考え過ぎだよね。
「まぁ、私に言えることは先程の言葉で終わりですわね。終わりを決めるのはハーシュ、貴女自身ですよ。諦めるのも、縋るのも、貴女が選ぶのです」
「……なんか、アレスも聖職者なんだね」
「いま納得されるのはいささかおかしい気がするのですけれど……ま、いいですわ。旅路をともにしたよしみですもの、何かあればいつでもこの神の子にご相談なさい」
「はは、うん、そうする」
吐き出すだけでも楽になる、とはよく言ったもので。
何が解決したわけでもないし、ショックが薄れたわけでも、立ち直ったわけでもないけれど。ずっしりと重かった身体が、ほんの少し、自分の足で立てるくらいには軽くなった気がした。
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