これでいい

「デートのゴール地点が、ここってのはどうなんだ?」


「場所がここだっただけですよ。だって、デートは特別な日で、ここは特別な場所ですから」


 そう言ってハーシュは慣れた様子で扉を開けた。彼女の家の扉である。


「遠慮しないで入ってくださいねー」


「今さら遠慮もなにも無いだろうが」


 もともと、彼女が学院にいた頃から私達にとって互いの家は講義室であり訓練所であり研究室だった。

 私達のやり方は風変わりで、学院の設備や備品を利用する必要はほとんどなかった。回路を用いる魔術に重要なのは詠唱の正確さと魔力の糸を切らさないための深い集中だ。


 そのために必要なのは導書や広い講義室や訓練用の木板じゃない。回路となる詠唱を整えるための紙とペン、それとなるべく気を落ち着け、深く集中できる環境。それを求めて私達が行き着いた手頃な練習部屋は、学院の敷地のすぐ外れに建つ私の家か、学院に通うため両親の伝手で借りたというハーシュの家だ。


 彼女が勇者一行に加わったあともこの家がそのまま残っていたのは知っていたが、そういえば帰国した彼女がどこに住んでいたのかは気にしていなかった。気にしていなかったというよりは、違う場所に住んでいるかもしれないなんてこと考えもしなかった。


「……まだ、ここに住んでたんだな」


「どういう意味ですそれ」


「お前は国を救った英雄だろ? 豪邸でも建てるのかと思ってた」


「じょーだん。あたしにはここがちょうどい――ああいえ、一番いいのは師匠の家にご一緒することですけれど」


「それこそ冗談だろ。英雄サマともあろう人が、私みたいなのと同じ家に暮らしてるなんて誰が想像するんだ」


 何が面白いのかわからないけれど、私は薄く笑った。笑いたくなかったから笑ったのかもしれない。


「……さ、どうぞ」


 ハーシュはそれまでのからから笑う子供みたいな笑顔を引っ込めて私を寝室に通した。寝室といっても、三部屋しかない家のひと部屋だ。貴族や王族の屋敷や城じゃないから大層なものじゃないし、ベッド以外に椅子や机といった場所をとる家具のないこの部屋は手頃な練習部屋で、私達はもう何度もこの部屋で訓練をした。


 そう、だから何でもない、三年前のままだと思って部屋に足を踏み入れた、のに。


「…………ああ」


 そこが、あまりにも、そのままで。

 三年前から時間が止まっているみたいで。それが、なんとも。


「ね、師匠」


 とん、なんて軽いものじゃなく、ほとんどのしかかるような勢いでベッドに押し倒される。普通こういう場面で私は仰向けなんじゃないか、なんてことが頭をよぎった。


「なんだ、おいハーシュ」


「そろそろ一度、ハッキリさせておきたいと思うんですよね」


「何をだ、いやその前に私の背中から降りて」


「英雄とか、魔賢者とかそういうの、あたしは何も気にしてないんですよ」


「あ、ああ、ん?」


 何の話だ、というかこの体勢は何だ。そう尋ねる前に、背中のハーシュはそのまま私の身体にしがみついて、私の上着のローブをぎゅっとキツく握り込んだ。


「英雄でいることと、師匠の弟子でいることのどっちを取るかって言われたら、あたし迷わず弟子でいたいって言います」


 声音は真剣で、熱いものだった。

 だからこそ、私はその先を聞くのを躊躇った。


「なぁハーシュ、それは」


「師匠」


 私の言葉を遮ったハーシュの語調は柔らかいままで、けれど有無を言わせない迫力があった。


「あたしは英雄っていうブランドを守りたいなんてこれっぽっちも思ってません。あたしはただ、師匠が自慢できる弟子でいたいだけなんです。そしていつか、貴女の隣に立てる女になりたい。あたしのやりたいことは、それだけなんです」


 地位や名誉じゃなく、世界を救うのでも、世界を変えるのでもなく。望むのはただ私の隣だけ。震える身体で私にしがみつく彼女に、私はなんと答えるべきなのだろう。


「だから師匠、あたしと――ひゃっ」


 強く、決意の滲んだ声で何か言いかけたハーシュを、強引に身を起こして振り落とした。彼女が何を言おうとしたのかわかったから。その先を、聞くわけにはいかなかったから。


「ハーシュ」


 私は戸口に置いていた荷物から綺麗に包装されたそれを取り出して、差し出す。ベッドから転げ落ちたままの姿勢で困惑していたハーシュの手に、包みを無理やり押し付けた。


「似合うと思ってな」


「……開けても、いいですか」


「ああ」


 私が頷くと、ハーシュは壊れ物に触れるように丁寧に包装を解いていく。やがて中から現れたのは、彼女の灰碧色の瞳に似た、カチューシャだ。


「これ……」


「前に私があげたのを、ずっと使ってくれてたんだろ」


 凱旋パレードの日、彼女が旅立ちのあの日と変わらずカチューシャを使っていたのが、嬉しかった。彼女の中に、確かに私が残したものが在るんだと思えて、安堵した。こうしてまた同じように贈るのは、これからもそうであって欲しいという私のわがままだ。


「ありがとうございます、師匠。あの、あたし」


「これまでもこれからも変わらず、お前は私のだよ」


 ハーシュの表情が強張った。そのことに、気づかないふりをする。


「楽しいデートのお礼だと思ってくれ。……さ、私はそろそろ戻るとしよう。昨日の講演で一日サボった分の仕事を持ち帰っているんでな」


 返事は待たずに立ち上がる。自分の荷物を拾い上げて出ていこうとする私の背に、ハーシュの「まって、ください」という小さな声がした。


「……なんだ」


 戸口で足を止める。振り向きたくなかった。


「こっち、見てくださいよ」


「いいだろ。それで何だ」


「…………キス、してください」


 そ、と彼女の温かい手が私の背に触れた。すぐ後ろに彼女の存在を感じて、こんな状況でも私の全身はカッと熱を持つ。その熱さが、彼女の手の平に伝わってしまうのが怖かった。


「約束、しましたよね。いくらでもしてくれるって」


「…………」


「約束です。約束ですよ、師匠。だからしてください。お願いだから、いま、してくださ――んっ」


 振り返りざまにぐいっと彼女の頭を引き寄せて、乱暴に唇を押し付けた。彼女の口から流れ込む吐息は震え、湿っていて。私が彼女に吹き込んだそれはきっと、ひどく乾いていた。


「約束だからな」


「……はい、約束、です」


 じわりと、ハーシュの目に涙が滲んだ。無意識にそれを拭おうとした手を、私は下ろす。


「約束だから、ですか?」


「ああ」


「そう、ですか」


 それきり、ハーシュは俯いて黙り込んだ。私は彼女の顔を見ずに「じゃあな」と言って部屋を出る。ハーシュは、今度は引き止めなかった。



* * *



 外に出ると、既に日は沈んでいた。


「…………」


 ポケットからいつものお手製煙草を取り出し、指先で火をつける。

 咥えて一息吸い込み、煙を吐き出した。そうすると、自分が何を言って、何をしたのか、知りたくもなかったことが見えてくる。


「…………ッ、げほっ、げほ」


 喉がひくりと震えて、思わずこぼれそうになった声を噛み殺そうとした拍子に、大きく吸い込んだ煙草の煙にむせ返る。息苦しくてないているのか、煙が目に突き刺さっているのか、それともハーシュにしたことを悔やんでいるのか、溢れる涙の理由を曖昧に出来て、よかった。


 日が暮れたばかりで、通りにはまだ人が多い。私は大きい通りを外れて、外灯もまばらな裏道をのろのろと進む。


 あれでよかったんだ。そうやって自分を納得させる呪文を心の内で唱えながら、私は重い足をどうにか一歩ずつ前に出す。


 デートは楽しかった。一緒にスイーツを口にし、雑貨屋をはじめ大通りの店をあちこちひやかして回った。いつもなら、一人なら興味も持たない店や物が、ハーシュと一緒にいるだけでこの世で最も面白いものみたいな気がしてくる。


 何よりあの子が私の隣で楽しそうにしているのが嬉しくて、少しの距離を移動するだけなのにきっちり腕を組んでくるのが可愛くて、私は何度も彼女を自分のものに出来たらと思った。


 だからこそ、だ。


 これ以上あんな風に接していたら、もう私は自分を止められる気がしない。

 私以外の何もかもを捨てて欲しいとハーシュに願ってしまう。何よりも私を求めて欲しいと口にしてしまう。こんな何者にもなれない私に、あの子を縛り付けてしまう。


 どんなにそれがいけないことだと分かっていても、とても飲み込める気がしない。そしてハーシュも、きっと私がそう願えば拒まない。


 だからだ。だから、それだけは絶対にだめなのだ。


 師は弟子に与える者だ。知識を、技を、可能性を与え、未来を与える。でも今の私が、この胸にある彼女を求める気持ちに従ってしまえば、私は彼女から奪ってしまうのだ。


 周囲との関係。彼女の持つ無限の可能性。彼女がこれから救うかもしれない人々。それら全てよりも、私を優先して欲しいと思ってしまう。それら全てを、あの子の人生から奪い去ってしまう。


 それだけは、してはいけない。

 あの寝室のように、彼女自身の時間さえも三年前のまま止めてしまっているのが私なのだとしたら、私は彼女からどれだけの時間や可能性を奪えば気が済むのか知れない。


 だから、これでいい。


「…………ふー」


 煙を吐き出しついでに、自分の唇に触れる。少しかさついた私の唇は、ついさっきあの子の熱いそれに触れていた。デートの間だけでも一体何度しただろう。今日だけじゃない。彼女が帰還してから、いったい何度あの唇に吸い付いただろうか。


 覚えてしまった感触を、煙草を滑らせて上書きする。どんなに重ねても消せるわけじゃないと知っていて、それでもそうするしか、私には出来なくて。


「……本数、増えるな」


 そんなどうでもいいことを、ぼんやりした頭の隅で予感した。

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