そうだったのか
目を開けると、日が暮れていた。
「……寝過ぎた」
枕元のランタンの火がちらちらと揺れているせいで、私が寝ていたベッドの周りだけが明るい。周囲を見回そうと身を起こ――せない。胸のあたりに何か重量感のあるものが乗っている。無理やり首だけを起こして確かめると、私に覆いかぶさるようにして寝息を立てる影……なんて意味深な表現をするまでもなく、私が目を閉じたときと同じくそこにはハーシュがいた。
「普通、もう少し身体の下の方で眠ってるもんじゃないのか」
そこで寝落ちされていると、私は身を起こすどころか寝返りの一つも打てそうにない。いつもなら無理やり起き上がってハーシュの頭を床に落としてやるところだが、今はどうしてかそんな気になれない。いや、どうしてかと言えばその理由はハッキリしている。
「夢、じゃないよな」
意識があった、とはっきり言える訳ではないのだが。でも、夢というには地続き過ぎる記憶だ。寝入りしな、ハーシュがこちらが恥ずかしくなるくらい何度も私に愛を囁いていたその声が脳内に反響する。私もぼやけた意識の中で何事か口にした気がするが……その辺りからは本格的に記憶がぼやけていた。
「……このバカ、あんまり恥ずかしいことばっか言うんじゃねぇよ」
講演会といい、模擬戦の時といい、この医務室でも。憧れだの、信じてるだの、好きですだの。よくもまぁ、シラフでそんなこっ恥ずかしいことを口にできたものだ。
「私だって、ほんとは」
ほんとは、何だろうか。喉まで出かかった言葉が、上手く舌に乗らない。何を言おうとしたのか自分でも定かではなく、けれど確かに言いたかったことがある。理性ではなく感情が、その言葉を舌に乗せたくて躍起になっている。喉に何かがつかえているような不快さに、私は顔をしかめた。
「なんだよ」
自分の心に、自分の頭が苛立つ。自分のことのはずなのに頭と心が二分されて、訳がわからない。魔力の使いすぎによる疲労とは別の理由で頭痛がした。
「なんなんだろうな、私のこれは」
恋なら、良かった。
目の前で寝息を立てる彼女に、私が素直に惚れていたのなら話はずっと簡単だった。あるいは彼女が私の弟子でなかったなら、弟子として間違いなく愛してしまっていなかったら、好意を持たれるなんて畏れ多いと突っぱねてしまえただろうか。
……違う、そうだ違う。
わずかに頭をよぎった馬鹿げた考えを振り払う。そう、違う。それは違うと断言できる。この子が弟子でなければ、なんてそんなの、あらゆる前提も根底も覆す考えだし、ハーシュを裏切ることだし、何よりそれは私自身の気持ちを裏切るものだ。
私はこの子を愛している。
弟子としてこの子を愛している。そして彼女は師である私に誇りを与えてくれた。私一人では決して手に入れられなかったもの。彼女を愛し、導き、そして彼女が私を師として愛してくれたから、今も私は学院に籍を置き、魔術師の末席を穢しても生きていける。
そんな彼女が弟子でなければ、なんて。そんなもしもは考えたくもない。そう思う。そう思うし、そう考えるべきだ。それなのに。
「……違うんだ」
そのわずかなしこりが、胸の奥に残って消えない。
「どうして私は、お前を好きだと言えないんだ」
弟子としてなら、いくらでも言えるのに。ハーシュがあの潤んだ目で私を見て、聞いたことがないような甘い声で「すきです」と、その四文字を口にするたび、私の心は熱くなるのに頭は冷たくなる。
私は、彼女に想われるに足る人間か?
私は、彼女を愛しても良い人間か?
ハーシュに聞けば「いい」と即答するだろう。それ以外の誰かに良いとも悪いとも言われる筋合いはない。それなら私は誰に咎められることを恐れている? 誰に認められれば、胸に抱いた熱を受け入れられる?
彼女を想う気持ちは、確かにこの胸にあるのに。
けれど気持ちは言葉にならず、決してこの胸の外に出ない。胸の内にあるだけの、言葉にもならない気持ちにどれだけ意味がある? いっそこんなもの、無くなってしまえば――。
「し、しょ……」
「ハーシュ? 起きたのか?」
「おいて、いかないで……」
「……ったく、このばか」
こりゃ寝てるな、と自由になる方の手で彼女の頬をくすぐるように撫でると、安心したようにいつものにへっとした笑みを浮かべた。
「置いていかれるのは、いつだって私の方だろ」
魔術も、経験も、恋心でさえ。私が思い悩む間に、いつの間にか私の数歩先でこちらを振り返っている。どこか小憎らしい、それでいて卑怯なほど可愛いあの微笑みで「あたしはここですよ」とこちらに手を伸ばしてくる。
その手を取ってしまえたらと、そう思う気持ちは確かにあるのに。
「どうしてお前は、私を振り返るんだ」
置いていってくれれば、私を過去にして、彼女のこれからを生きてくれれば、諦められるのに。
「私だって、言ってやりたい」
好きだ、と。彼女が望む言葉を口にしたい。
私が望む言葉を、口にしたい。
「私だって」
この心が震えるままに、お前を好きだと、言えたら――。
「……はは。そうか」
そうか、好きか。
「そうだったのか」
好き、だったのか。
私は、こいつが好きで、だから。
「――好きだから、言えなかったんだな」
好きだから。置いていかれたくないから。もう二度と、お前と離れ離れになりたくないから。
だから言えなかった。好きだなんて言えば、認めてしまえば、受け入れてしまえば、私はもうこの子を手放せない。そんなこと、あっていいはずがなかった。
でもわかってしまった。彼女に好きと言われる度に胸が震える意味も、仕方ないな、なんてフリで何度だってキスを受け入れたことも、堪えきれず私の方から唇を吸ったことも。
もう、それも終わりだけれど。
「気づいちまったからな。私はもう、迷わないよハーシュ」
眠る彼女のつむじにそう約束して、私はぐいっと思いっきり身を起こした。
「あぐ」
私が起き上がれば必然的にハーシュの頭はベッドからずり落ちる。うつ伏せで寝息を立てていた彼女は顎をさすりながらもぞもぞと身を起こした。
「うー……もうちょっと優しく起こしてくれてもいいんじゃないですか?」
「胸を貸すと言った覚えはない」
「うー、師匠のおっぱい、寝心地が良かったのにぃ」
「もう一度縛り上げて四つん這いにさせて欲しいみたいだな」
「やだなぁ、半分冗談ですってば」
「まったく」
お手上げです、と両手を上げる彼女に呆れながらも笑みがこぼれる。ああ、こいつのこういうふざけたところだって、私は嫌いじゃない。
嫌いじゃない? 心の中でさえ、まだ私は素直になれないのか。
「……そういうところも好きだ」
「え、なんです?」
「なんでもない。そんなことよりさっさと帰るぞ。下校時刻をとっくに過ぎてる」
「あたし、もうここの生徒じゃないんですけど」
「部外者ならなおさらだ」
「むー」
口を尖らせるハーシュの隣に「よっ」と立ち上がり、私より少しだけ低い頭を撫でる。
「賭けはお前の勝ちだったんだろ。明日のデートの前に、よく眠っておけ」
「……え?」
ぽかんと口を開けるハーシュの頬に軽くキスをする。
「私との時間を、寝不足の頭で過ごすつもりか?」
「でも、師匠」
「最後の歓声は聞こえていたさ。まんまとお前に乗せられたよ」
「でも、あたし、あんな無茶を師匠に押し付けて」
「信じろと言ったのは私で、お前はそれを信じたんだろ? お前が責任を感じることなんて何も無いじゃないか」
「……師匠のばか! カッコつけ! 大好き!」
「おっと、と」
飛びついてきたハーシュを支えきれずに、起き上がったばかりのベッドに二人して倒れ込んだ。
「おいおい、何してるんだ。帰って寝るんだろ」
「もうちょっとだけですから。あと一回、キスしてもらってから――んっ」
「――さぁ、帰るぞ」
「〜〜〜〜〜〜ッ、師匠! 開き直るのずるいですよ!」
「なんのことだか」
私は笑って、ハーシュを立たせてから自分も起き上がる。ハーシュの頬に差した赤を、可愛いな、と素直に思った。
もう少し、あと少しだけ、この幸せを味わっても罰は当たらないだろう。根拠もなくそう決めつけて、私はハーシュを抱きしめた。
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