溢れる

「……っ、ん」


「師匠」


「………………はー、しゅ」


 私を見つめるうるんだ瞳と目があって、なんとか口を動かそうとしたが、かすれた声で名前を呼ぶので精一杯だった。


 意識がひどくぼやけていて、夢の中にいるような気分。手足の感覚があるのに、それが自分の身体とは別の場所から届いているような距離を感じる。


「まだ、喋らないでいいですよ。火傷は全部治しましたけど、魔力の使いすぎもあって体力はすぐには戻らないと思いますし」


「ぁ、っ…………」


 ああ、と言おうとしたが、その短い言葉でさえ喉がひりついた。仕方なく、こくりと頷くに留めた。


「ごめんなさい、ちょっと……いえ、だいぶ、やりすぎました」


 叱られた子供みたいにしゅんと萎れるハーシュに、かけるべき言葉は何だろうと思う。そりゃまぁ、やり過ぎだバカ弟子、とゲンコツの一発くらいくれてやりたい気分だが、久方ぶりにぶっ倒れるまで全力を出したせいか、不思議と気分は清々しく、文句を言う気にはならない。


「……ここ、は」


「学院の医務室です。あれから……三時間くらいですかね。すっかり夕方です。あ、会場の撤収は学長が率先してやってくれました。言伝は「明日は休みだし、ゆっくり休みなさい」とだけ」


「しょ、ぶは?」


「はい?」


「もぎせん、のけっかは」


「あ……はい。二本目は、師匠の勝ちです」


 引き分けですね、とハーシュは少し眉尻を下げつつも微笑んだ。

 そうか、二本目はギリギリ、勝てたのか。それで模擬戦は引き分け。一勝一敗で引き分け、というのはまぁ、想像通りと言えなくもないが、まさかこんなボロボロになって、しかもハーシュを絡め手で転ばせて勝ちを拾うんじゃなく、正面から技のぶつけ合いで勝ちを拾うとは。


「……すみません」


 重ねて謝るハーシュが、いっそ痛々しいほど苦しそうに落ち込んでいるので、叱る気にもならない。私は重い腕をどうにかゆっくりと持ち上げて、彼女の頭を撫でようと、したのだが、そこまで腕が持ち上がりそうになかったので、諦めてその頬に手を当てた。慌ててハーシュがその手を支えてくれたので、腕がだいぶ楽になる。


「信じた、甲斐はあった、だろ」


 少しずつ感覚が戻ってきた口で、私は少し投げやりに言ってやる。いや、乱暴な口調にしたかった訳ではないのだが、自然と語尾が気だるくなって、言い捨てるような感じになってしまった。


「なぁ、ハーシュ。お前の師匠は、ちゃんと、スゴかっただ、ろ」


「! はい……はいっ、師匠はすごいです。最高にかっこよかったです。師匠の本気、信じて、良かったです」


 重たくて力の抜けた私の手をぎゅっと握って、ハーシュは涙を滲ませながら微笑んだ。まだ少し申し訳なさそうに、けれど嬉しそうに、誇らしげに。

 そんな彼女の表情に満足して、私は重いまぶたを下ろした。



* * *



 やり過ぎた、と自分でも思う。


 あんなに攻撃的な術を使う必然性はなかったし、使うにしたってもっと早い段階で解除することはできたはずだった。師匠のかっこいい姿を観客にアピールしたい、なんて欲目があって敢えて大技を使ったけれど、怪我をさせたかった訳じゃないし、倒れるほど無理をして欲しかった訳でもない。


 目を閉じ、静かに寝息をたてる師匠を見ながら、そのキレイな寝顔にほうとため息が漏れる。どうしてこの人は、こんなに強く、美しいのだろう。


 あんな無茶苦茶なことをしでかしたあたしの期待にすら、迷わず応えてくれる。実力ではとっくに追いついて、追い越したと思っていたのに、三年前から、いや中庭で出会ったあの日から憧れ続けた背中は、未だに大きくて遠くて、ちっとも追いつけた気がしない。


 魔術の師だから、好きになったんじゃない。ただずっと先を行くから、憧れたわけじゃない。


 あたしのこんな無茶にも、仕方ないなって、見せてやるよって、笑って一歩前に出てくれるから。いつだって自分のことは下げているくせに、あたしが本当に見せてほしいものは思いっきり見せてくれるから。


 どうしようもなくカッコいいのに――。


「ん、ふふ……しょうがない、弟子、め……」


 ――どうしようもなく、かわいい。


「すきですよ、師匠」


 ちゅ、とかわいい人の首筋に唇を落とす。「……んぅ、よせ……」ともぞもぞされて起きたかな? と顔を覗き込んでみるも、ふにゃふにゃの表情は完全に油断しきったそれで、未だ意識は睡魔に連れ去られたままらしかった。


「ほんとに、だいすきです」


「ん……」


「すきです」


「……んん」


「すき」


「……ぁー」


「すき、なんですよ、あたし」


 溢れる。好きが、あたしの中の、すき、が。


「…………私も、好きだ……ぞ……ばかでし」


 ふにゃふにゃの口でそう漏らして、ころりと寝返りを打った師匠に、あたしは思わずそのまま固まってしまった。


 なんて? あ、え、いま、なんて言われた?


 ばかでし。バカ弟子。いやうん、それはいつも言われてることだし、師匠からあたしへのニックネームみたいなもので、三年前から変わらない、あたしが英雄になっても師匠は師匠なんだって言われてるみたいで嬉しかった言葉、なんだけど。


 いやいやその前。その前でしょう。


 私も好きだ、って、言われ、た?

 聞き間違い? それとも別の誰かと勘違いした?


 師匠は疲れて眠ってる。だから寝言にいちいち意味なんて求めても仕方ないかもしれない。目が覚めた時、どうせ師匠はこのことを覚えてなんかいないだろうし、覚えていたとしてとぼけられてしまったら、あたしにはそれを確かめる術もない。


 でも少なくともあたしは師匠があたし以外の人間をバカ弟子と呼ぶのを聞いたことがない。たとえ寝言でも「好き」って言葉と、そのあとにあたしを結びつけてくれただけで、自分でもバカだと思うくらい顔が熱くなる。


「……ん、好きですよ、大好きです」


 師匠の寝言に答えて、もぞもぞと医務室の簡素なベッドで身を丸める師匠の頬にキスをした。


 ――寝てる間に唇を奪うのは、ちょっとマナー違反ですから。


「今度は、起きてる時に聞かせてくださいね」


 聞こえるはずがないお願い。それでも、いつかその言葉をきちんと聞かせて欲しい。そんな祈りをこめて、愛しい人の髪を梳いた。

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