続き

 間欠泉の如く吹き上がった泥の噴水の上でハーシュが「わ、わっと」とあわあわとバランスを取っている。残念ながら泥水の一滴も浴びておらず、吹き上がる泥柱は彼女の足元で弾かれている。


 いわば私の作った泥柱の上にハーシュが僅かに浮いて乗っている状態。無詠唱無動作で気軽にやってのけるには空中浮遊や水上歩行の類は難しいはずだが、ハーシュは「よ、ほっ」とバランスを立て直すとのん気に聴衆に手など振っている。


 ひとしきり全方位の観客に手を振り終えると、ハーシュがぼそりと小さく短く、何事か呟いた。


 ばしゃっとハーシュの足元で泥が跳ね上がり訓練場の地面を汚す。その直後、ハーシュの足元に可視の風が渦を巻いた。


 うっすらと萌葱色に明滅する風の渦は、私が吹き上げさせた泥水を掘削するようにして降下し、先程までとは比べ物にならない量の泥を練習場に撒き散らす。客席から「ひゃあ!」「うおっ」と時折悲鳴や驚きの声が聞こえてくるので、ばっちり飛び散っているらしい。


 もちろん訓練場の地面には客席など目じゃないくらいに泥が飛び散っている。乾いた土の上にびしゃびしゃと泥を飛ばして、ハーシュの風の渦は私が生み出した泥の塔を力技で打ち割り、すとっと地面に降り立った。


 ハーシュには何のダメージもなく、泥のひと跳ねも浴びていない。無名の魔術師が扱う術としてはそれなりの威容があったせいか、会場はざわついて中には私を指差して何事か話している者もいるが、事実としてハーシュに一撃も加えられておらず、私の水流は全て弾かれた。まずはハーシュに一本か、当然の結果だ、と思っている人間が大半のようだ。……しかし、学長から勝敗を告げる声はかからない。


 多くの観客がさて次はハーシュの番だ、一体どんな術が見られるのか、とざわつく中、ハーシュだけが訝しげに顔をしかめた。これだけですか、という不満顔だ。この模擬戦で攻撃側が使える魔術は一つだけ、だから私の攻撃はこれで終わり――の、はずだった。


「っ!」


 咄嗟に飛び退きそうになって、慌ててその場に踏みとどまったハーシュはまだ冷静だった。そう、この模擬戦では物理的に「避ける」ことは勝利と見做されない。あくまで打ち消し、打ち破る。術と術で競うからこその試合なのだ。


 しゅるり、とハーシュの右足に何かが絡みついた。ハーシュが思わずといった感じで「ひっ」と声を漏らす。突然慌てたように身じろぎしたハーシュに会場から疑問の声は上がるが、距離があるからかハーシュの足元の異常には気づいていない。口々に「なんだ」「どうした」とハーシュの様子を窺う観客のうち何人かが、少し遅れて彼女の足元で起こった変化に気づいた。


「草だ!」


 観客の誰かが叫ぶ。そう、草である。


「さっきの泥ですか! ちょ、っく、待っ」


「正解だハーシュ。そこまで理解したなら察しもつくだろうが、これは私にも細かく操作はできん」


 私がのんびりと立ったまま煙草に火をつけている間も、訓練場のあちこちから草の蔓が次々に伸びて、ハーシュの手足に絡みつく。


「どういうことだ?」


「攻撃側の術は一つじゃなかったのか?」


「でもディフィアン学長は止めないぞ」


 客席がざわざわと騒ぎ出す。

 そうしている間にもハーシュは「ふっ」と息を吐いて自分に巻き付いた蔦を燃え上がらせて消していくが、あれだけ強引に水流を割ったのだから、泥の飛び散った範囲は広く多い。泥の中から次々生えてくる蔦はいくら巻き付いたものを焼いたところでキリはなく、しかも一度魔力を帯びた泥をかぶっているのでそうそうきれいには燃え落ちない。数の暴力で、蔦は徐々にハーシュの身体を巻き取って拘束していく。


「おい、2つ目の魔術は反則じゃないのか!」


 客席から一際声高に叫ばれる言葉。無視しようと思ったが、私より先に、今まさにその魔術の餌食になっているハーシュが答えた。


「違います! これは最初の魔術の続きです!」


 魔術の続き?

 観客全員が頭に疑問符を浮かべたところで、学長の拡声魔術による声が割り込んだ。


「反則ではありませんよ。イアリーは最初の詠唱でを唱えたのです」


「二つの効果だと!?」


「複合魔術か!」


 客席の一部や高等科の学生たちが先程とは違う明確な興味と驚愕にどよめく。


「…………」


 私はだんまりを決め込んだ。厳密にはこれは複合魔術ではないのだが、そう思われる分には良いだろう。学院の評判にも繋がる。


 一般に複合魔術と呼ばれるものは、一つの放出点から二つの魔術を同時に放つ、あるいは二つの術を一つの形に融合させて放つ技を指す俗称だ。個々の術や使い手によって組み合わせは様々だが、単純な放出点からの魔力放出とは一線を画した技術であり、扱える者は世界でも少数だ。


 好きな術を好きなように組み合わせられるという単純なものでもなく、魔力の流れが似た術であれば組み合わせやすい。小さな火と大きな火を同時に発生させ火力を増したり、水に風を通わせて渦を生み出したりと強化や変化、派生として用いられることが多い。


 単純な術同士を掛け合わせることが多いのは、複雑な術同士を同時に操るにはそれだけ深い集中と多くの魔力が必要になるからだ。


 だから、私に複合魔術は使えない。


「んっ、ああもう!」


 ハーシュの両手足が私の蔓たちに絡め取られ、彼女は地面に引き倒されて四つん這いになっている。手足を起点にした複雑な術はもう使えないはずだ。


 今の私にできる最も複雑で大規模な攻撃がこれだ。長過ぎる詠唱との費用対効果でいえば、優れているとも言い難い。だが、ハーシュに手の内を知られておらず、勝ちに繋がりそうな手はこれだけだった。

 これでハーシュに降参と言わせられれば――。


「しつ、こい、ですっ! ――――っ!」


 ハーシュが再度短く、何事か呟いた。

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