2章
世界を乗せた天秤
「はーい師匠、可愛い弟子が遊びにきましたよー」
「…………」
「うわー嫌そう。可愛い弟子が傷ついちゃいますよ」
「今日は何だよ」
「ちゅーしに来ました」
「隠さなくなったなぁ!」
私が頭を抱えると後ろから腕を回され、耳元にすりすりと頬ずりされる。
「……やめろ、人が来たらどうする」
「大丈夫ですよ、誰も来たことないじゃないですか」
「そりゃそうだが」
まぁ、私の研究室にわざわざ講義の補足を聞きに来るような学生はいないし、同僚たちは基本的に互いの研究室は不可侵領域扱いなのでノックもせずに入ってくることはない。ノック無しで平気でここの扉を開けるのはこの英雄兼バカ弟子くらいのものだ。
「ほら、師匠」
後ろから私に抱きついたまま、器用に私の咥え煙草を抜き取られる。最近では、私も抵抗は無駄と諦めてされるがままだ。
よくない。よくない傾向だとは思うのだが――。
「んっ……」
甘えるようなハーシュの口づけを、拒むことが出来ない。
「っは、師匠、もういっかい」
「……好きにしろ」
「はい、好きにしまふ……ん、ふふ」
好きにします、とハーシュが最後まで言い切る前に、私の方から唇を押し付けた。くすりと小さく笑って、ハーシュは私のキスを受け入れる。まぁそりゃ、こいつからねだったんだから拒絶される訳もないのだが、それでも最近の私は、この瞬間にこそ喜びを感じている気がしてならない。
ハーシュとのキスそれ自体も間違いなく私にとっては快感で、キスだけの関係という歪さを残してなお、私の意識を蕩かしてしまうものがある。
けれどそれ以上に。何も言わなくても、何の確認もしなくても、口づけを受け入れてもらえるという安心感。それが、どうしようもなく病みつきになる。理由も対価もなしに私の欲を受け入れて笑ってくれるハーシュが、どうしようもなく愛しくて、どうしたってやめられない。
……一人になるといつも、自己嫌悪に溺れて窒息しそうになるとわかっているのに、な。
「ん、っは……ふふ、今日もごちそうさまです、師匠」
「うるせー」
「もう、いい加減素直になってもいいんじゃないですか? あたしのこと、好きでしょう?」
「弟子としてな」
「もー」
呆れながら、ハーシュが私から奪った煙草をくいっと私の口に差し込む。味わい慣れた手製煙草の味を堪能しつつ、ハーシュの甘い息の方が美味いなと思った自分を殺したくなった。
「お前こそ、いつまでも私なんかにこうしてないで、ちゃんとした相手を見繕った方がいいんじゃないのか」
「師匠がちゃんとしてないみたいに言わないでください」
「してねーだろ……私はこの学院いちの落ちこぼれだぞ」
「何言ってるんですか、今や子どもたちから人気急上昇中、講義を参観したがる保護者まで連日訪れる名物教授じゃないですか」
「ほんと、勘弁してくれ。誰のせいだと思ってる」
「あたしのおかげですよねー?」
ねー、と覗き込んでくる顔を思い切り押しのけてそっぽを向かせる。明後日の方向を向かせたハーシュから「認められてよかったじゃないですかー」などと聞こえてきたのはどうでもよくて、キスの余韻でまだ熱い顔を見られるのが我慢ならなかっただけだ。
「……師匠は、認められたいって思わないんですか?」
私に押し込まれてそっぽを向いたまま、ハーシュが少しだけ真剣さをにじませた声で言う。
「思わない、とも言えないが。所詮私は出来損ないの魔術師だ。実力以上の評価をされたいとは思わないよ」
「師匠は実力分の評価もされてないと思うんですけど」
「そんな訳あるか。私を持ち上げるのは学長とお前くらいだ。子どもたちも、そのうち私の魔術が何の参考にもならないことに気づくさ」
「んー、そういうことじゃないと思うんだけどな……」
独り言のようにぼやいたハーシュを開放してやると、いてて、と首をくりくり回しながら振り返ってきた。
「じゃあどういうことなんだ?」
「憧れって、そんなに一面的なものじゃないと思うんですよね」
考えをまとめるように顎に手を当てながら、ハーシュが異論を唱える。
「あんな風になりたい、っていう憧れは、別にその人そのままに自分がなりたい訳じゃないんですよね。あくまでも「風」ですし。あたしだって師匠に憧れましたけど、師匠になりたかった訳じゃなくて――」
「……なんだ」
すらすらと自論を述べていたハーシュが口ごもったのを不思議に思って促すと、少し気まずそうに私から視線を逸らしながらもぼそぼそと続けた。
「師匠の隣に並んで、恥ずかしくない存在になりたいなって、思ってたといいますか」
「今じゃ私の方がお前の隣に並ぶのは恐れ多いな」
「むー、師匠がそんな風にあたしを遠巻きにするなら、世界なんて救うんじゃなかったです」
「なんてこと言いやがる」
私と世界そのものを天秤にかけて、私に傾くというのか。さすがに大げさだろうと笑えば、ハーシュはやれやれと首を振る。かと思えば、ハーシュの手が私の頬に添えられていた。
キスしようと思えばいつでもできる距離。その至近距離で、ハーシュと私の間には煙草の煙がゆらゆらと立ち上る。煙越しに見るハーシュの表情は私のキスを受け入れる時の甘い顔ではなく、私に旅立ちと別れを告げた三年前のように真剣だ。
「愛しい人のために世界を救うのが、そんなに信じられないですか?」
「……いや、そういう訳じゃ」
「師匠は私のために、世界は救えませんか?」
ハーシュのために世界を救う。そんなの、考えたこともない。だって私には、世界を救える力なんて無かったわけで、そんな選択肢を想うことなどあり得なかったから。
でも、少しだけ考えてみる。想像してみる。
私にハーシュのような力と才能があって、そしてハーシュの生きる世界そのものを脅かす存在が現れる。命の危険はある。それでも、命を賭けることで、ハーシュを守れるかもしれない。
その時私は、ハーシュのために戦うのだろうか。世界のためでなく、自分のためでなく、命を賭けるのだろうか。
「……悪かったよ。私も、世界とお前ならお前のために戦いたい」
大勢の誰かよりも、たった一人の愛弟子のため。その方がきっと、私は必死になれる気がする。そんな力はなく、無謀な賭けも嫌いな私にとっては意味のない仮定。口でならどうとでも言える、想像するだけならなんとでもなる、そんな無意味な夢想。それでも。
「わかってくれたなら、いいです」
そう言って嬉しそうに微笑む弟子を見れば、そんな夢想にも少しだけ、意味があったのではないかと思えた。
「ハーシュ」
「…………」
私が煙草を灰皿に押し付けながら名前を呼べば、ハーシュは黙って目を閉じた。
私達の関係は変わらず、前進も後退もしていない。それはハーシュもわかっているはずだし、何より私自身がそうあれと、そうでなければと自分に繰り返し言い聞かせている。
それでも、こみ上げる愛しさを言葉では伝えきれず、想いを正確に伝える方法を、私はこれしか知らない。
「……――、」
瞬間、息を止めて。ハーシュの震える唇に吸い付こうと――。
ガチャ。
「イアリー、週末の講演会のことでお願いが――あら」
時間が止まった。気がした。
「……お邪魔しました、ごゆっくり」
「待っ、学長、ディフィアン師匠!」
開けたばかりの扉をそのまま閉めて退出しようとした学長に思わず飛びついて引き止めた。
「いいのよイアリー。私は別に師弟恋愛にとやかく口を出すつもりはありません。落ち着いたら、学長室へ来てくださいね、講演会の準備で打ち合わせが」
「いま! 今で良いですから! ハーシュのことなら気にしないでいいですから!」
「お気になさらずー」
少し頬を赤らめながらも、ひらひらと学長に手を振ってみせるハーシュにそれほど動揺している様子はない。何でそんなに落ち着き払ってるんだ!
私は土下座する勢いで学長を引き止め、どうかいま見たことは気にしないで欲しいと十分近くに渡る説得の末、なんとか生温い笑顔の学長から「そう、わかったわ、なんでもないのね」との言質をもぎ取った。
ああ、微塵も信じていない学長の笑顔が怖い……。
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