師弟

「全てお断りして欲しい、ですか?」


 意図を問う、というよりはそれでいいのか、と確認されているような声音だった。


 学院で最も高い塔の最上階、大きく開いた窓から差し込む高い日差しを背にして座っているのは妙齢の女性だ。学院にいながら役人か議員のようなスーツをピシッと着こなしており、背筋の伸びた美しい姿勢と細身の身体は他者からの注目に慣れきった人間のそれだ。無理をして気を張っている、という風ではなく自然体で凛々しいタイプの人なのは短くない付き合いでよく知っているので、今日もかっこいいですねと出会い頭に言ったら「今日も世を儚んでますね」と返された。うるせぇ。


 見た目は全体の印象では四十そこそこといった感じなのだけど、目尻のしわと美しい白髪だけが彼女がそれなりに長い人生を通過してきたことを伺わせる。


 スーツにもひっつめ髪にも洒落っ気はないのだけれど、地味と思わせないのは穏やかさの中にどことなく泰然としたものを感じるからだろうか。地味とか派手とかいう物差しでは、そもそも測れない奇妙な印象を見るものに抱かせる人だ。


 ……いやほんと、この人何歳なんだよ。私が学生としてここに入学した時には既に今と変わらない感じだったが、私が初等科に入学した時から数えれば二十年以上経っているのに歳を重ねたように見えない。先輩教員たちも年齢問わず皆一様に「自分が学院の門をくぐったときには既にあんな感じだった」と口をそろえるのだけど……いやほんと、何者だよ。


「はい、全てです。取材も講演も、私への依頼は全て断ってください」


 年齢不詳の美女――恩師であり現在は上司でもあるディフィアン学長に向けて、私は先程告げたのと同じ言葉を繰り返した。応じる気なんかそもそもないのだ。学院を通さずに持ってこられた依頼は全部無視したし、学院を通じてのものにも応じる気はない。然るべき手順を踏んだ依頼であるのなら、断るにもきちんと学院を通しておくべきだろうと思って、ここまで出向いただけだ。


「良いのですか? これは名誉なことです。もちろん全てに応じる必要はありませんが、いくつか選んで応じれば、貴女の研究が改めて注目されることだって――」


「学長」


 さんざん聞かされた話が始まるのを察して遮る。学長も私がこの手の話をわかった上で避けているのは知っているのか、わずかに目を細めたあとでやれやれと軽く肩をすくめた。


「何度言われても私の考えは変わりませんよ。教員の道を示してくれた学長には感謝していますし、裏方として私にできることは何でもします。ですが私は、私の魔術を公開するつもりはありません」


「そうですか……貴女の研究はきっと、誰かを救えるものだと思うのですが」


「買いかぶりです。そんなことを言うのは学長だけですよ」


「あら、貴女の立派な教え子はずいぶんと貴女を自慢していたようですよ?」


「……………………ハーシュが何か?」


 まさか今朝めちゃくちゃキスしまくった挙げ句告白を断ったなどと言えるわけもないし言う必要もないのだが、思わず反応が遅れた。


「ええ、それはもう。帰国してから国王陛下を始めお偉方に挨拶する度に「師匠はすごい」「全て師匠の教えの賜物」「史上最高の魔術師は自分ではなく師だ」と自慢しているそうですよ」


「あのバカ弟子」


 思わず頭を押さえた。ハーシュとの師弟関係はそもそも個人的なものだというのに、魔賢者の師にぜひインタビューを、弟子についてコメントを、我が領で講演を、とやたら私の発言を求める依頼がハーシュたちの帰国と前後して押し寄せていたのを「どこから嗅ぎつけたんだ」と訝しんでいたのだが、まさか当人が積極的に広めていたとは。


「ふふふ、ずいぶん慕われているのですね」


「買いかぶられてるだけですよ……私の体質に合わせて編み出した技術が、たまさかあの子の抱える悩みに合致したというだけです」


「ですが貴女は少なくとも彼女という一人の人間を救ったのですよ。そしてその彼女が、貴女に救われたことで人類を救ったのです。ほら、貴女もまた救国の英雄ではありませんか」


「飛躍しすぎですよ」


 私がそう首を振っても学長は「そうでしょうか」と微笑むばかり。打っても響かない楽器を叩き続ける趣味はないので「とにかく」と話を切り上げる方向へ持っていく。


「私はあの子について公に何かを言うつもりはありませんし、私の魔術に関しても同様です。学院や学長を通じての依頼も、全てお断りしてください」


「……仕方ありませんね。貴女は学生の頃からこうと決めたら頑固でしたものね」


「よくお分かりのようで」


「もちろん。わたしも、貴女の師匠ですからね」


 そう言ってにっこり笑う。穏やかな笑み、なのだけど、まぁなんというか私にしてみれば少し身構えてしまうところのある笑顔だ。彼女の言う通り、私は偉大な魔術師であるこの人の個人的な弟子だ。散々な無茶振りをされて手の平で転がされていただけに、今でもこの笑顔には警戒心がはたらく。


 ……師弟。そうだ、私とディフィアン学長も師弟関係である。確かに私はこの人に人生丸ごと救われたと言っても過言ではないし、感謝も尊敬もしている。でも、それだけ。

 恋愛感情なんて、その片鱗さえこの人に向けたことはない。受けた恩はいずれ何かの形で返したい、そういう意味での執着はあるかもしれないけれど、それが恋だの愛だのいうものになったことはなかった。


「師匠」


「あら、貴女からそう呼ばれるのは久しぶりね。なんだか若返った気分だわ」


 この人の場合本当に何かの拍子に若返っていそうで笑えない。


「弟子が師匠に恋をするなんて、そんなことあり得るんでしょうか」


「…………告白?」


「違います」


 珍しく目を見開いて驚いた顔でとんでもないことを聞かれたので即座に否定した。学長は「まぁ残念」と微塵も残念そうじゃない顔で言うと、一度目を閉じて、そして今度はじっと私の目を見つめた。


「イアリー」


「はい」


 こうして名前で呼ばれるのは久しぶりだ。彼女のもとで自分なりの魔術を編み出すべく励んだ日々を思い出す。


「まず、だけれど……そもそも質問がおかしいことはおわかり?」


「おかしい、ですか?」


「ええ。いいですかイアリー、そもそも恋とはどのような関係だから成立するとか、しないとか、そういうものではないのですよ。世に遍く全ての恋愛とは、当事者同士の間にだけ存在する、一つ一つ違った関係の総称なのです」


「……そういうものですか」


 あまり理解できた気はしないが、ひとまず頷いておく。この人が言うならそうなのだろう、という投げやりな信頼もあった。


「ですから、師弟だから恋をする訳でも、師弟だからしないわけでもないのです。もちろん、異性だからするわけでも、同性だからしないわけでもありません」


「……待ってください師匠。一応言っておきますけど、これは別に全然まったくもって私自身の話ではなくてですね」


「ハーシュにとって貴女は誇るべき師です。どのように応えるにしても、信頼だけは裏切らないようになさい」


 聞けよ。いや待て、ちょっと待って。そもそも、だ。


「何で全部わかってるんですか?」


「貴女が素直過ぎるんですよ。それは貴女の美点ですが、時に人を傷つけることもあるのです。貴女はハーシュの師として、そして同時にあの子の前を歩く一人の人間として、きちんと向き合わなければ」


 師としてでも、人としてでもなく、その両方として。わからない。私にとってハーシュは弟子だ。それ以外の関係も距離も、まるで想像したことがない。

 だから私は、私よりはるかに偉大な存在となって舞い戻った弟子に、これからの彼女の人生に私という師はもう必要ないのだと、彼女はもう独り立ちする時だと、そう思い、そう振る舞ったつもりだったのに。


 人として。師ではなく、魔術師ではなく、ただのイアリーとしての気持ちなんて、わからない。だって私はあの子の師匠で魔術師で、私という人間は、私の人生は、そのほとんどがあの子の師であるという事実によって意味づけられている。その二つの要素を除いてしまった私は、それでもまだ私なのだろうか。


「……少し、考えてみます」


「ええ、よくお考えなさい」


 その言葉には会釈で応じて、私は学長室をあとにした。



* * *



「まったく、あの子の鈍感にも困ったものね」


 一人になると途端に広く感じる学長室で、私はやれやれとため息を付いた。

 愛弟子のイアリーは先天的に魔力が少なく、一般的な魔術のほとんどを未だに扱えない自分を指して「底辺」だの「落ちこぼれ」だのと揶揄するが、私に言わせればあの子は天才だった。


 できない。技術や理屈ではなく、体質。生まれた瞬間に与えられてしまう素質によって決定づけられていた不可能を、弛まぬ努力と研鑽によって覆し、魔術師と名乗るに足る存在まで己を引っ張り上げた。

 普通なら折れている。どうしようもないと諦めて、絶望してしまう事実を受け止め、それでも諦めなかった。


 魔術回路、という未発展の研究についてあの子に教えた時は、それが本当に彼女の助けになるかわからなかった。けれどあの子は私のもとで直向きに研究を続け、そしてついに新たな研究分野としての魔術回路に一定の体系を築き上げた。紛うことなき努力家の天才であり、優秀な魔術師。私は決して、自分が彼女をそう評することが間違いだとは思わない。


 彼女は師としても立派にハーシュを導いてみせた。教育者としても有能だ。ただ、そうただほんの少し、欠点をあげるとすれば。


「魔術だけでなく、情操教育もするべきだったかしらね」


 その点に関しては、彼女の弟子の方がよほど進んでいる。いや、イアリーが未熟過ぎるだけか。


 こんこん。


 ノックの音に顔を上げ「どうぞ」と声を掛けると、程なくして扉が開き、小柄な少女が顔をのぞかせた。


「失礼します」


「どうぞ座って。お待ちしていましたよ――魔賢者ハーシュさま」


 ソファに腰掛けながら「やめてくださいよぉ」と照れ笑いする薄灰色の少女に、さてどう持ちかけようかと、私は少しばかり知恵を走らせることにした。

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