凡俗と英雄
「…………」
「師匠、こっち見てくださいよ、しーしょー」
「頼むからちょっと黙ってろ」
いや、そう、別にハーシュが悪いわけじゃない。今のはただの八つ当たりだ。だが正直、そうでも言わなきゃやってられなかった。あんな、勢い任せに、我を忘れて、弟子と――。
「………………」
「師匠、遠い目で何を見てるんですか?」
「数秒前の自分だ。ぶん殴りたい」
「だめですよ、優しくて美味しい師匠でしたから」
「お前な……」
未だに酸欠の気配を残してくらくらする頭を右手で支え、左手で煙草を灰皿に押し付ける。いかん、こいつといると本数が増えていけない。紙巻き煙草は自作できるが、材料が無限な訳じゃない。
「それで師匠」
「何だ」
「あたしと、付き合ってください」
「…………」
思いのほか、真剣な声だった。バカを言うな、と笑い飛ばすには少し、重い。
「……なぁ、ハーシュ」
「どうしてですか」
「まだ何も言ってないだろ」
「師匠がすぐにうんって言わない時は、お断りするときですよね」
そうだったのか。自分でも知らなかったぞそんなこと。
「あたしのこと、好きにはなれませんか?」
「あのなハーシュ。私は確かにお前が好きだよ。可愛いと思うし、愛している」
「だったらどうして――」
「でもそれは、弟子としてだ」
私に詰め寄るようにしていたハーシュが、ぴたりと動きを止めた。
「お前は私のたった一人の、大切な弟子だ。私はお前が可愛くて仕方ないし、お前のためになら、ああ、お前がそうしてくれたように命を賭けてもいい。今ならそう思える」
三年前にはわからなかった気持ちが、今ならよくわかる。私の人生に意味を与えてくれたハーシュのためなら、彼女に貰った人生を捧げるのなんて惜しくない。むしろ誇らしくすらある。けれど。
「それでも、それだけだよ。私にとってお前は誰よりも、何よりも大事な、かけがえのない、弟子なんだ」
それ以上でも、以下でもない。
ご褒美のキスくらいなら、いくらでもしてやる。でも。
「私に出来るのは、お前の先行きをほんの少しだけ照らしてやることだけだよ。お前を支えて、一緒に隣を歩くのは無理だ」
「だ、だったら、師匠があたしに並ぶんじゃなくて、あたしが師匠の隣を歩けば――」
「バカなことを言うな。お前は私の隣なんかに収まる器じゃないだろ」
なんと言っても、英雄サマなんだから。
「そんなの関係ないですよ! 世界を救った称賛なんていらない! あたしはただ、師匠を、貴女のいるこの国を、この世界を守れればそれでよかったんです! 英雄になんて、興味なかった!」
「……それでもだよ、ハーシュ。たとえお前が要らないと言っても、称賛の声はお前の後をくっついて回る。魔王討伐の功績だけじゃない。有史以来最強の魔術師。それだけでも世界中がお前に注目するには十分すぎる」
「でも、でもあたしを導いてくれたのは、育ててくれたのは師匠です。師匠は、私が何者になったとしても、ずっと特別で」
嬉しい。とっくに私の実力なんか追い越して、実績も名声も遙か先を行く愛弟子が、それでもまだ私を師と呼んで慕ってくれる。師匠冥利につきるじゃあないか。
でも、そんなのは今だけだ。
「ハーシュ。英雄のお前にはこれから、もっと相応しい名声や能力を持った人間と出会う機会がいくらでもある。いつまでも私なんかを特別扱いしているなんて、そんな馬鹿らしいことはないんだよ」
かたや救世の英傑、当代随一の大魔術師。かたやロクに魔術の実演もできず、子どもたちに飽きられている落ちこぼれ教員。わざわざ秤に乗せるまでもない、釣り合いなんて取れるはずもない二人だ。
もう私達は、ふたりぼっちの落ちこぼれじゃない。
「っ、そうじゃない……そうじゃないですっ! たとえ世間から魔術師として評価されていなくても、それでもあたしを見つけて、救って、導いてくれたのは師匠なんですよ? あたしは、師匠が魔術師だから好きになったんじゃありません。師匠が師匠だから、あたしをどん底から救ってくれた人だから、だから!」
「そんな気持ちなんて、いまに綺麗さっぱり忘れて――」
「っ、バカにしないでください!」
バン! と、ハーシュが両手でテーブルを叩いた。思わず私も言いかけた言葉を飲み込む。知らず知らず背けていた顔を正面に戻せば、ハーシュは険の籠もった言葉とは裏腹に、いまにも泣き出しそうに唇を震わせて、ひどく傷ついた顔をしていた。
その顔を見て、やっと、私は自分が何を言ったのか理解する。
「……すまん。言い過ぎたよ、お前の気持ちを軽んじたつもりは無いんだ。私はただ、お前にはもっと相応しい相手がいるってことを」
「いません。あたしには、師匠しか」
「それはお前がまだそういう人間に出会ってないだけで」
「いいえ。あたしには師匠だけです。師匠以外の人なんていりません」
「……ハーシュ」
「失礼します」
私が折れないことを察してか、ハーシュはわざと大きな音を立てて立ち上がると、部屋を出ていこうとする、が。
「…………」
「おい、ハーシュ?」
ドアに手をかけたまま、戸口で立ち止まったハーシュの背中に声を掛ける。数秒の後、ハーシュはゆっくりとこちらを振り返り――。
「師匠のバカ」
「なっ、てめぇハーシュ!」
「バカバカバーカ! わからずや! 美女! 大好き!」
悪口なんだか告白なんだか、感情ブレブレの言葉を捨て台詞に、ついでに「べーっ」と子供みたいに舌まで出して私を威嚇すると、バタン! と力いっぱい扉を閉めて出ていってしまった。
「…………どっちがバカでわからずやだ、あのバカ」
虚脱感に襲われて、私はくたりと椅子の背もたれに体を預ける。
「お前は私なんかにゃ勿体ねーっつーんだよ、馬鹿弟子が」
灰皿から薄く昇る残煙と一緒に、私の呟きが溶けて消えた。
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