約束の分
――そして現在。
「約束のキス、してください」
私の口から抜き取った煙草を灰皿に押し込んだハーシュが、濡れた瞳で私を見つめている。そこから垣間見えるのは不安、恐れ、羞恥……そして期待。
「……まぁ、そうだな。約束だったから、な」
鼓動が早まる自分に気づかないふりをして、熱くなった顔をまじまじ見られないよう「ほら、目、閉じろよ」と言えば、ハーシュは素直に目を閉じた。
少し呼吸の早い愛弟子が、微かに震えながら目を閉じている。その姿に、胸の内に渦巻くものがある。或いはこれは恋とか、愛とか、そんなものなのだろうか? 魔術の研鑽以外、まともな人生経験を通過していない私にはよくわからない。
キスして欲しいとねだられて、三年前、彼女の命を賭した戦いへの希望として結んだ約束がある。彼女に口づけする理由があるとすれば、それだけのはずなのに。
ドキドキと鳴り続ける心臓がうるさい。何もしていないのに、運動したあとみたいに息苦しくて呼吸が乱れる。
三年前、別れの前に口づけをねだられた時は、狭い世界で生きていたハーシュの憧れだったんだと思った。気持ちを軽んじたつもりはない。無事帰ってきたらキスをしてもいいという約束を、反故にするつもりもない。でも、それは例え実現しても冗談めかしたものになると思っていた。
この子は広い世界を知り、多くの人と出会い、遥かに強大な存在と邂逅したはずだ。私の存在なんて、三年の旅路の中で色褪せるだろうと思っていた。
それなのに、まるであの日の続きのように真剣な、熱の籠もった目で見つめられて、私の胸の奥で何かがのたくる。
まるでこのキスが、あの告白への返事みたいに――。
「っ、いくぞ」
考えれば考えるほど、躊躇えば躊躇うほど深みにハマってしまいそうな気配から逃げ出すように、私は目を閉じたハーシュに勢いよく口づけた。
触れたのは一瞬。一秒にも満たない接触。それだけで、心臓が弾け飛ぶかと思った。
「……これで、満足だろ」
「いいえ」
「は?」
「まだ、全然足りないです」
「はぁ!?」
思わぬ返答に目を剥いて見返すと、ハーシュは頬を染めながら、けれどどこか愉快そうににまにまと笑っていた。
「足りないです。あたしの三年間の頑張りを、師匠はもっと褒めるべきです」
「ばっ、この、お前」
「だって師匠、約束しましたよね?」
「だからしただろ、約束の分、ちゃんと!」
そりゃ、確かに世界を救った報酬がキス一つってのは物足りないかもしれない。しれないが、それとこれとは別だろう。私は無事に帰ってきたらキスしてやると言っただけで、世界を救った報酬まで支払う義理は――。
「師匠、あたしと約束しましたよね。無事に帰ってきたら「キスなんていくらでもしてやる」って」
「言っ……たっけ、か」
言った、かもしれない。言ったような気もする。言ったんじゃないだろうか。……いや、うん、言ってるわ。覚えてるわ。
いやでもそんなことまでハーシュが覚えているとは思わなかったし、アレは半分くらいは勢いだし、こいつが死なずに戻ってきてくれたらそれでいいと思って言ったことだし――。
「言いました」
ハーシュがにこーっと微笑んでパチンと指を鳴らす、と。
『――そうしたら、キスなんていくらでもしてやる』
「!?」
部屋中に反響した自分の声に思わず耳を塞いだが、そんなもの意味はない。そもそもこれは鼓膜を揺らしている音ではない。音と同じ錯覚を起こさせるもので、例え聴力がなくても聞き取れる。法廷や犯罪捜査で使われる事が多いこれは。
「き、記録魔術……」
「はい。師匠との約束を忘れないように、しっかり録音させてもらってました」
てへ、と舌を出す。くそっ、可愛いのがまた腹立たしい!
「あの時真面目な顔してこんなことを……」
「誤解しないで欲しいんですけど、別に師匠にこうして聞かせるなんて使いみち、あの時はちっとも考えてませんでしたよ。ただ……最後の言葉くらい、ずっと覚えておきたかっただけで」
「それは……」
「だから、あの日師匠と話した全部をこうして記録にして、旅の間何度も聞いたんです。心折れそうになる度に、命を投げ出したくなる度に、全部を諦めて逃げ出したくなる度に、師匠の声を聞いていたんですよ、あたし」
「…………」
そりゃ、勝手に記録していたことへの怒りはあるし。私は三年間、こいつの声を聴くことも出来なかったのにこいつばかり聞いていたのか、っていう苛立ちもあるし。そもそも何度も聞いてんじゃねぇよ! という羞恥もまぁ、ある。あるけど。
死を覚悟して。今生の別れを覚悟して。その最後に覚えておくこととして、こいつは私との別れを選んだのだ。
「……卑怯だろ。そんなもん、怒るに怒れねぇじゃねーか」
「師匠は優しいですからね」
「そういうのじゃねぇ。……ほら、こっち来いよ」
「え?」
「約束しちまったからな。満足するまで、いくらでもしてやるよ」
そう、約束したから、だ。それ以上でも以下でもない。そのはずだ。
だからこれは、こみ上げる愛弟子への愛しさとは、関係ない。
「ししょ、んむ」
「ん――」
気恥ずかしさから目をそらして、今はただのキスに集中する。その意味も、今はどうでもいい。
可愛い弟子に、がんばりのご褒美をあげるだけ。
「ん、っぷぁ、師匠……あの、もっと」
「おう」
「ぁ、んぅ」
「ん、っふ――っは」
「はぁ……はぁ……師匠、キス、上手い」
「そいつはどうも。これで満足か?」
「まだ、もっと、もっとです」
「私の弟子は欲張りだな」
先程までの生意気さはどこへやら。とろんと目を蕩かせて、甘えるような息をつくハーシュに、何度も口づける。
「っは、師匠の息、煙草の匂いがします……」
「吸ったからな。嫌か?」
「嫌じゃ、ないです」
「なら良かった」
熱に浮かされているのはきっと、ハーシュだけじゃない。私も、甘く心地よいハーシュの唇に理性を蕩かされている。
でも、手遅れだ。
そう理解したところで、蕩けた理性に自制も自重もない。
私は私のしたいように、ハーシュが求めるままに、何度も、何度も、何度でも、あの日の約束の通りいくらでも、キスを降らせた。
……結局、私達はお互いに酸欠でテーブルに突っ伏すまで、馬鹿みたいに甘いキスを繰り返したのだった。
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