回想:約束

 弟子が成長するとは、こういうことか。


 私は自嘲とも、苛立ちともつかない不快さを発散するように思い切りタバコ臭い煙を吐き出した。学院の研究室に籠もって今日で何日目だろう。この部屋には窓がないので、今が朝か夜かも判然としない。なんとなく、冷えた空気から夜かな、とそんな気がするだけだ。


 魔術学院の初等部を受け持つ私の講義は退屈なことで有名だ。私は少しばかり珍しい体質が理由で、魔術に於いて「普通」とされているもののほとんどが扱えない。にも関わらず基礎の基礎、普通中の普通である初等部を教えているのは、基礎的な魔術理論を学ぶ場では実演がほとんど必要無いからだ。


 そもそも、私は本来はこうして魔術学院の教授として籍を持つに足る魔術師ではない。


 先天的な魔力量の少なさは、私に多くの一般的な魔術を扱うことを許さなかった。それでも、憧れがあったのだ。物理法則を歪め、不可能を可能にする技術。時代の最先端を行く魔術を学ぶ環境が王都にはあり、私はそれを諦めきれなかった。そして。


「――――」


 ぼっ、と私の人差し指の先に小さな火が現れる。特別高温なわけでもなければ、触れられるわけでも爆発するわけでもない、マッチを擦れば魔力のない人間にだって簡単に再現できる程度の火。それにたどり着くまで、私は半生を費やしたと言っても過言ではない。


 短くなった煙草を灰皿に押し付け、二本目に火をつけてから、マッチの火を消すように軽く指を振って火を消した。こんなの、魔術など使えなくとも誰にでも出来ることだ。


 そんな小さな術を繰り返し編んで、私は必死の思いで「私の魔術」を身に着けた。少ない魔力量で奇跡を起こす技術。通常語られる魔術とは根本から異なる術式、気の遠くなるような複雑で精密な術式を編むことで始めて効果を発揮する私のためだけの魔術理論。


 それは確かに唯一無二のもので、私を学院の教授にと引き止めた学長曰く「世界で最も希少な魔術体系」だそうだが、それだけだ。


 普通の魔術師は、そもそもこれほど複雑な術を編む必要がない。私が数年かけて描きあげる術式と同等のことを、数日で身につけるのが普通なのだ。


 自身の魔術の幅を広げる以外、取り立ててやりたいことのなかった私は、個人の研究室を与えられるという餌にほいほいと食いついて学院を卒業後も教授として籍を残した。


 だが中等課程より上は魔術の実践を教える必要があり、教える側にも実演の必要がある。普通の魔術師たちが用いる一般的な術と同等のものを再現するくらいなら、今の私なら造作もない。でもそれは見た目が同じ、結果が同じというだけで、多くの学生が実際に学び身につけるのとは別の技術だ。


「そんなもん、見せたってな」


 だから私は基礎理論を教える初等部を教えている。が、魔術というものに夢を抱いて学院の門をくぐったばかりの初等部の子どもたちに、実演なしの講義はひどく退屈らしく、講義の評判は最悪だった。


 そんな毎日にいい加減うんざりしていた頃、私はあの子と知り合い、私の魔術は私達の魔術になった。


「弟子、か。まさかこんなイロモノ魔術を、人に教えることになるなんてな」


「なにブツブツ言ってるんですか師匠」


「うぉあッ!?」


 突然ひょいっと顔を覗き込まれて危うく椅子から転げ落ちそうになった。


「大丈夫ですか?」


「あ、ああ……」


 椅子から転落しかけた私の服をがしっと無遠慮に掴んで引っ張り起こした少女、愛弟子のハーシュは「よかったです」と灰碧色の瞳を細めて微笑んだ。


「そ、それでお前は何しに来たんだ」


「――お別れを言いに」


 情けない姿を見せたことを誤魔化すように問いかけたら、思いの外静かな声で、ハーシュは淡々とそう返した。


「…………そうか」


 そう、こいつは明日には王都を出発する。前人未到の魔境へ、人類の生存と繁栄を賭けた戦いに赴く、たった四人のうちの一人として。


 窓が無くたって、引きこもっていたって、わかっていた。明日がその日であることくらい、知っていた。ただ、認めたくなかっただけだ。日が昇れば、私はたった一人の弟子と別れなければいけない。私のためだけの魔術、私のためだけの人生に意味を与えてくれた少女を、生きて戻れるかも分からない旅へ送り出さなくてはならない。


 私はそれが、心底恐ろしくて。

 子供が布団をかぶって恐怖から身を守るように、研究室に閉じこもって目を閉じていた。


「……そうか。行くのか」


「はい」


「…………」


 何を、言えばいいのだろう。


 座ったままで見上げれば、ハーシュの目には覚悟が浮かんでいる。旅路の果てに待つものがたとえ己の死だとしても、それでもこいつは旅に出るんだろう。それがわかるからこそ、わからない。

 どうしてそんな覚悟ができる。どうして世界のためになんて大それた戦いに参加できる。どうして死ぬ可能性のほうが高い旅に出ることを選ぶ。


 わからないわからないわからない。

 私には、お前がわからないよ、ハーシュ。


「なぁ、聞いてもいいか」


「何でしょう」


「どうしてお前は、世界のために戦うことを選んだ?」


 私の問いに、ハーシュは一瞬きょとんと目を見開き、次の瞬間にはくすくすと忍び笑いを漏らし始めた。


「な、なにが可笑しいんだ?」


「いえ、師匠でも見当違いなことを言うことがあるんですね」


 見当違いだと? 何の話だ?

 こみ上げてきた笑いを吐き出し終えたのか、ふう、と一息ついたハーシュは、それでもどこか楽しげに微笑みながら口を開いた。


「あたしは別に、世界のために戦うつもりなんてないですよ」


「は?」


「あたしが旅に出るって決めたのは、師匠のためです」


「……私か!?」


「はい、貴女ですよ」


 何でそこで私が出てくる? っていうか私のために魔王倒すってなんだ、私は別に、魔王に個人的な恨みなんか無いぞ。


「師匠、前に言ってましたよね。あたしに魔術を教えることで、ようやく師匠の人生に意味ができたって」


「ああ、まぁ、言ったな。うん、言った」


 やめてちょっとそれ恥ずかしいから。あんまり言わないで。


「だから、あたしが頑張れば、きっと師匠の人生にはもっと大きな意味が出来ると思うんです」


「お前、まさか」


「あたし、師匠の人生に、もっともっとたくさんの意味や価値をあげたいんです」


「……お前」


 こいつ、そんなことのために命をかけるつもりなのか。


「――――悪いことは言わん。今からでも出立をやめろ」


「え? ひゃっ」


 首をかしげるハーシュの胸ぐらを掴んでぐいと引き寄せた。


「私なんかのために、他人の人生のために命を無駄にするんじゃねぇ。お前が死んじまったら、それこそ私の人生に何の意味があるってんだ」


「し、ししょ」


「お前が生きていてくれなきゃ意味なんか無い。わかったら出立を諦めろ」


「師匠!」


 珍しく、ハーシュが大声を出した。思わず掴んでいた彼女の服を離してしまう。

 乱れた服を整えるでもなく、ハーシュはそのまま距離を詰めて、私を抱きしめて……いや、抱きしめるというよりは、まるで縋るように抱きついてきた。


「ハー、シュ」


「心配、してくれるんですね」


「当たり前だろうが」


「でも、ごめんなさい。あたしはやっぱり、旅に出ます」


「何でだよ」


「師匠がいる世界を、守りたいんです」


「死ぬかもしれねーんだぞ」


「それでも。たとえあたしが死ぬとしても、それが貴女のためなら満足です」


「……身勝手な弟子を持つと苦労する」


 私がそう言うと、妙な間があった。いつものように「あー、師匠すぐそういうこと言うー!」と憤慨するでもなく、さりとて旅立ち前のしんみりした空気で「そんな風に言わないでください」と懇願されるでもない。


「…………おい、どうし」


「そうですよ」


 長い沈黙に耐えきれず口を開いた途端、さっきまで黙っていたハーシュに割り込まれた。抱きつかれたままなので表情は伺えないが、わずかに声が震えている。視界の隅にうつる耳が心なし赤い。


「あたしは身勝手な弟子だから、身勝手なお願いをします」


「は?」


「旅立つ前に一度でいいので――キス、してください」


「はぁ?」


 目が点になる。なんだ、こいつ、急にキス、だとかなんだとか。


 ぐいっと、まるで離れたくないのを振り切るように勢いよく身を引いたハーシュが、赤い顔で私を見ている。その瞳は潤み、どこか熱に浮かされたような陶酔と……震えるほどの切実さが見て取れた。


「死ぬかもしれません、それはわかっているんです。でも、それも覚悟の上で、師匠を、貴女を護るためにだったら私の人生を使い果たしてもいいって思いました。本当です。でも」


「でも、なんだ」


「このまま、何も言わずにお別れは、嫌です……っ」


 声、だけじゃない。ハーシュの体は震えていた。


 私のため、なんてズレたことを言って、こいつはどこまで能天気なんだ、と思っていた。けれど違う。そんなバカなことを本気で言い出すくらい、このバカは私を大事に想ってくれているのだ。


「好きです。好きなんです、師匠。最後に一度でいいですから、わがまま聞いてくださいよ……」


 最後。ハーシュはそう言った。生きて帰れる可能性は限りなく低い。ハーシュだってそれをわかっていて、きっとこの旅で命を落とすと思って、だから今、私に想いを吐露したのか。


「ハーシュ、こっち見ろ」


「……ぇ」


 だから私は、そのわがままを叶えない。

 吐き捨てるように煙草を捨てて、そのままハーシュに口づけた。ハーシュの――きれいな額に。


「…………ぁ、の」


「泣きそうな顔すんな、情けねー声出すなよ」


「…………」


 拒絶された、と思っただろうか。ハーシュの願いが唇へのキスを欲しているのは明らかで、私はそれをわかっていて外した。

 でも違う。違げーよハーシュ。私が、大事なお前を拒むはずがないだろうが。


「唇はお預けだ」


「え?」


「生きて帰ってこい。何年かかってもいい。待っててやるから生きて、私んとこに戻ってこいよ」


 ――そうしたら、キスなんていくらでもしてやる。


 そう言って笑って見せれば、一瞬ぽかんと口を開けていたハーシュもふにゃりと笑う。そうだ、お前は笑ってろ。そうやって笑えるうちは、絶対死ぬ気になんかならねーだろうからな。


「約束、ですよ」


「ああ。約束だ」



 ……それが、三年前の事だ。

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