1章
約束、しましたよね?
こんこん、だった音がドンドンになったあたりで、ようやく意識がはっきりした。
もぞもぞと数度寝返りを打ってベッドから身を起こすまでの間に、ドンドンはバンバンと派手な音に変わっていて、いい加減寝起きの頭に響く。
窓の外に目をやるとまだ空は薄暗い。日が昇りきってもいないうちから人の家の戸を爆音で叩くな。誰だ、こんな朝っぱらから。うるせぇ。
いっそのこと魔術で防音してさっさと二度寝しようかと思ったが、こんな風に叩き起こされたら文句の一つも言ってやらなきゃ気が済まない。
重たい足を引きずってそう広くもない家の戸口に立つ。ノックというか音による襲撃の域に達したそれはまだ続いている。っていうか目に見えて扉がガタガタ揺れてる。やめろ、壊すな。
「るっせぇ! いま何時だと思ってやが――――」
「ただいま戻りました! イアリー師匠!」
びしっと敬礼する弟子が立っていた。
「……何してんだ、バカ弟子」
「昨日は挨拶しかできなかったし今日こそ師匠にちゃんとご挨拶したくてそう思ったら待ちきれなくてつい日の出前からここで待機しちゃって、でもさすがに日が昇る前はと思ったんだけどそろそろ空も白んできたしいい加減待ちきれなかったし優しい師匠なら許してくれるかなっていうかもう今すぐ顔みたいのが我慢できなくて」
「あーうるせぇわかった黙れとりあえず中入れ」
隣家との距離がそう近いわけではないが、静かな早朝からこいつの大声は近所迷惑だ。
「お邪魔しまーす」
私が促すのがわかっていたみたいにずかずかと家に上がり込んでくるハーシュに思わずため息がこぼれる。こんなんが英雄だなんて、人間界本当に大丈夫なんだろうか。
こなれた様子で我が家の居間に上がり込み、勝手知ったるなんとやら、戸棚から茶葉を取り出しせっせとお茶の用意を整える様子を見ていると、こいつが三年もこの国を離れて旅をしていたとは思えない。それどころかあの頃と何も変わらず、ずっとここにいたみたいな――。
「変わらないですね」
「あん?」
「師匠の家、あたしが遊びに来てた頃のまんまです」
「……そりゃ、私の家だしな」
「うん、師匠の家ですね。……あたしが覚えてるままの、師匠のうちだ」
「…………」
似たような懐かしさを覚えていたのが気恥ずかしくて、後半については聞こえないふりをせざるを得ない。やめろ、ちょっと泣きそうな顔するな。こんな小さい家に通されただけで嬉し泣きすんな。
「……三年ぶりか」
「はい、三年ぶりです」
思わず呟けば、返事がある。
「ずっと、会いたかったんですよ」
そう続けるハーシュの目は潤んでいる。悲しみ、ではないのだろう。郷愁が満たされる感慨は如何ばかりか、あいにく生まれてこの方だらだらと王都で暮らし続けてきた私にそれを推し量る術はない。ないが、愛弟子の表情が雄弁に物語る喜びを「そんな大げさな」と言えるほど、私もこいつを知らないわけじゃない。
「私も待っていたさ。お前が元気な顔を見せてくれるのをな。だから嬉しい。心配しなくても、私もちゃんと喜んでるよ」
旅先から、便りはなかった。便りがないのはなんとやら、とは極東の国の言葉だったか。そんな縁のない土地の正しいかも忘れた言葉に縋りながら、数週間、或いは数ヶ月遅れで届く勇者一行の活躍の報を耳にするたび、お前がまだ生きていることに安堵する日々だった。
便りを出すなと言ったのは私だ。大事な使命、果たすべき役割、共に歩む仲間のことを考えろと言った。こいつを送り出した数日後に、女々しくもそれを後悔したのを覚えている。
「だから、お前の無事な姿を見られて、本当に嬉しいんだ」
「師匠」
「……もう師匠はよせ。私がお前に教えたことなんて大したことじゃない。世界を救った英雄の師匠なんて、私はそんなガラじゃないんだ」
「そんなことありません。師匠がいなかったら、あたしは魔術なんてひとつも使えない、ただの落ちこぼれのままでした。英雄になんてなれなかったし、それどころか普通の魔術師にだって届きませんでしたよ」
「大げさなんだよお前は。私が教えなくたって、きっと誰かが教えてくれたさ。あんな才能、魔術師なら誰だって勿体無いと思う」
「でも、見つけてくれたのは師匠でした」
「たまたまな」
「たまたまでも、師匠だったんです。だからやっぱり、あたしの師匠は一人だけ」
「……恥ずかしいこと言うんじゃねぇよ――む」
いつかのように頭を撫でてやろうと手を出しかけて、その位置がいくらか高いことに気づく。三年前にはまだまだ子供の背格好だったはずが、いつの間にか大人のそれになっていた。……ま、それでも私の方が高いが。女にしては背が高いと言われ続けて十余年。今後も追い抜かれる心配はない。
「師匠?」
「なんでもねぇよ」
そう言って改めて頭を撫でてやると、ハーシュは嬉しそうににまにま笑う。
「なんだ、嫌がらないのか」
「三年ぶりですから」
「そうか、三年ぶりだしな」
あの頃は、子供扱いするなとよく噛みつかれたものだが。そうしないだけ、大人になったのか。
「早朝から家の戸を叩き破ろうとするのはアレだが、ま、来ちまったもんは仕方ない。土産話でも聞かせてくれ」
言いながら居間の椅子に腰を下ろし、テーブルに放り出したままだった紙巻き煙草に手を伸ばす。煙好きの間では葉巻や煙管が主流だが、私は昔からこれが好きだった。味より、見た目が安っぽいのが私に似合いだ。人気がないから流通量は少ないが、その気になれば簡単に自分で作れるのも良い。
いつものように指先に火を灯すため魔力を流そうとすると――。
「どうぞ」
すっと、目の前に火が差し出される。
未開の地で旅をしてきたハーシュの指は少し荒れて節くれだった無骨さがあったが、そんなことより何より、その指先に灯った小さな火に目を見張る。
「……お前も吸うようになったのか?」
「まさか。そもそも美味しくないですし」
「だったら何でこんな
「もちろん、師匠の煙草に火をつけるために決まってるじゃないですか」
小さな火を灯すだけ。煙草の火をつけるくらいにしか使えない、地味な魔術。けれどそれは、魔賢者と呼ばれるハーシュにとって、途方もなく難しい魔術なのを私は知っている。
事実、三年前に王都を旅立ったハーシュは、この魔術を扱えなかった。
あまりに膨大な魔力故に。極小規模の魔術は理論が確立されていない故に。そもそも身につける必要性がない故に。そんな術を、こいつは。
「……もうちょっと褒めてくれてもよくないですか? これでも結構練習したんですよ。夜営の傍ら、何度辺りを焼き払いそうになったことか」
「さらっととんでもないことを白状するな」
「あ、今は大丈夫ですよ、完璧にマスターしましたから」
ささ、どうぞ、と火を差し出されて、私はそっと、煙草の先に火を点ける。
咥えて、吸って、吐き出す。
「……美味いな」
「あれ、昔から同じの吸ってませんでした?」
「変なとこで鈍い奴だな。……お前に貰った火で吸うから、いつもより美味いって言ってんだよ」
「――――」
うん、悪くない。教え子が成長して、出来なかったことが出来るようになって、その成果で吸う煙草。なかなかどうして、悪い気はしないもんじゃないか。
「……師匠の匂いがします」
「あ? 煙草の煙だろ。悪いな、家だからって遠慮なく吸っちまった」
「いえ、師匠が吸ってる煙草の匂いは好きですよ。帰ってきたんだなって、そう思えます」
「そうか」
まぁ、今さらといえばそうか。三年前、こいつが学院に通っていた頃から私は家でも研究室でも当たり前のように煙草を吸っていたし、部屋にも匂いは残っていたことだろう。煙草の煙や匂いを嫌がる奴は多いが、ハーシュ相手に今さら遠慮というのも変な話だ。
「その匂い、分けてくれませんか?」
「あ? 煙草か? やめとけ、こんなもん吸ってもいいことなんかねーぞ」
「いえ、そうじゃなくて……」
がたり、と。
立ち上がったハーシュが身を乗り出してくる。なんだ、と怪訝に思っている間に距離を詰められて、少し短くなった煙草の先が、ハーシュの鼻先に迫る。
「約束、しましたよね」
「……あー」
忘れていた、訳ではなく。
けれど忘れようとはしていたこと。あわよくばこいつも忘れていてくれれば、覚えていたとしても、過去のことと流して口にしないでいてくれればと期待したこと。
「……まぁ、約束はした、が」
「あたしはちゃんと、約束通り無事に、使命を遂げて、帰ってきました」
――――こんどは、師匠の番ですよね?
「いや、だがアレは」
「約束、しました。あたし、頑張りました。師匠は、あたしに嘘をついたんですか?」
「別にそんなつもりじゃ……」
「じゃあ、いいですよね?」
ぽとり、と煙草の灰が落ちて床を焦がす。わずかに短くなった煙草の分だけ、ハーシュがまた顔を寄せてくる。身動ぎするだけでハーシュを火傷させそうな距離に、動けない。
「約束のキス、してください」
ぽとり。また灰が落ちて、咥えていた煙草がそっと抜き取られた。
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