第28話 閉鎖区の長老

「ん……むぅ」

 紅葉が目を醒ました。二時間ほど寝ていたことになる。口をむにゃむにゃさせながら目元を擦る妹を可愛いな、と心底思いながら楓はにっこりと笑ってみせた。


「おはよう、紅葉」


 対して紅葉はその表情を曇らせていた。

 眠りに落ちる前の出来事を思い出したからだ。


「おにいちゃん……」

「どうした?」

「……ごめんなさい」 

「なんでごめんなさいなんだ?」

「だって、だってもみじ、おにいちゃんにわがままいったから……」


 楓はふっと笑った。なんだそんなことか、とばかりに。


「紅葉、いいんだ。俺はお兄ちゃんだからな、妹はわがまま言ったらいいんだよ」

「おにいちゃん」


 楓はぎゅっとしがみついてくる紅葉の髪を優しく撫でた。

 ゆっくりした口調で話しかける。


「あのな、紅葉。俺はこれから出かけてくる。いい子で留守番しといてくれるか」

「どこにいくの? お買い物?」

「違うよ。この場所を教えてくれたジイさんに会いに行ってくるよ。どうやったらママに会えるか相談するんだ。あの人なら俺には思いつかないような方法を知ってるかもしれない。――だから紅葉は留守番をしててくれ」


 だが、紅葉は首を振った。

 横に。

 ぶんぶんと。

 思いきり勢いよく。


「やだ」

「やだってお前なあ」

「もみじも! もみじもいっしょにいくの!!」

「いや、あのなあ。外は危ないんだって」

「おにいちゃん、もみじはわがままいってもいいっていったもん」

「あー……。言った。言ったね俺。ついさっき言ったな」

「じゃあいこぅ! おにいちゃん!」


 仕方ないな、と楓は観念した。

 目の届くところにいてくれた方が安心だ、と思おう。



 Zodiac発症現場の近隣にあったせいで、巻き込まれるように閉鎖区に指定された建物がある。それらは閉鎖区に住む人々にとって最も安全な居場所になる。だからこそ競争率は高い。少なくとも今の楓には縁の無い場所だ。

 楓と紅葉はそんな建物のひとつ――二階建ての老朽化したアパートを訪ねていた。汚染の心配はないが、建物自体は古い。つい最近閉鎖区指定された第六区Bエリアは元々古い建物の多い地域だった。

 すっかり錆の浮いた階段を登り、突き当りの205号室のドアをノックする。


「ジーサン、いるかい」


 返事は無い。

 楓がドアノブを回すと鍵はかかっていなかった。ドアが耳障りに軋み、開いた。


「開いてるじゃん。お邪魔します」

「しまーす」


 狭い土間で靴を脱ぎ、その後紅葉の靴を脱がせ、部屋に入っていく。

 さして広くないダイニングの奥にある居間の真ん中に大きなマッサージチェアがあった。そこに顔に深い皺の刻まれた白髪の老人が座っていた。


「いるじゃんジーサン」

「フン、小僧か」


 老人がぎょろりとした目で睨んでくるが、


「もみじもいるよー」


 紅葉が走っていって老人の足に抱きつくと、鋭い雰囲気は一転して孫びいきの年寄りのような態度になった。皺だらけの顔を更にくしゃくしゃにて紅葉を撫でている。


「おうおう、紅葉ちゃんも一緒かあ。元気だったかね」

「うん! もみじげんきだよ!」

「それはよかった。ちょうどもらった饅頭がある。食べるかい?」

「やったあ!」

「じゃああちらでお食べなさい」

「はぁーい」


 紅葉が饅頭を持ってダイニングに行くのと入れ替わりに、楓は老人の前に移動した。老人はチェアに一度深く座り直し、白い眉を片方だけ持ち上げて楓と視線を合わせた。


「それで、何用かな。住処すみかは手配してやったろう」

「うん。あの時はありがとう。ほんとに助かったよ」

「気にするな。閉鎖区の人間は協力しなければ生きていかれん」

「うん。俺もそう思う」

「それで?」


 先を促され、楓は一度深呼吸をして切り出した。


「今日来たのは、母さんのことで相談があるからなんだ」

「小僧の母親も閉鎖区にいるのか? はぐれでもしたのか。ならば伝手つてを辿って探してみるが」

「いや、母さんは閉鎖区じゃなくて……役所の? 公安局って人達に保護されて? っていうか連れて行かれたんだ。俺と紅葉はどうにかして会いたいんだけど――」


 何か方法はないか、と言い終わるより先に、老人は口を挟んできた。

 目を見開いて唾を飛ばしながら、


「公安といったか? 衛生局でも他の何でもなく、公安局と?」

「うん。そうだけど」

「ならば無理だ。諦めろ小僧」

「なんでだよ! 母さんは保護されたんじゃ」

「公安局は衛生局とは違うのだ。小僧の母親は逃げろと言ったのだろう? 賢明な母親だな。あれは保護などではない。保護という名目の隔離であり拘束だ。おそらく二度とは出てこれまい」

「……そんな。公安局って国の、その組織とかそういうのじゃないのかよ」

「国の組織だからだ」


 そう唸る老人は憤怒とも諦観ともつかない表情をしていた。

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