第15話 少女の夢と悪夢
棗はユニットバスが苦手だった。
元々住んでいた戸建ての家は大きな浴室とトイレが各階にひとつずつあった。
そのせいで風呂とトイレが一緒くたにされているのには違和感を感じるのだ。2051年現在それは贅沢な考えではあるが、ほんの四年前までそのような暮らしをしていた棗はそんなことは知らなかった。
棗はTシャツと下着を脱ぎ捨て浴槽に入ると、シャワーカーテンを閉めて蛇口をひねった。
「つめたっ」
湯温を調整。
徐々に熱くなっていく温水に声が漏れる。
「あー……」
冷えた身体が少しずつ温かくなっていく。
髪を温水が洗い流し、癖毛が頭に張り付いていく。両手で髪を梳いても短すぎては指に絡むことは決してない。
「なのにシャンプーは泡立つ。なんなのこの癖っ毛」
あのアバターの長い黒髪の手触りが感触としてまだ残っている。唇にも、だ。そっと指先で慈しむように唇に触れる。
「あーあ」
溜息とともに浴槽の床に座り込んだ。お尻が冷たい。
シャンプーの泡が目に入りそうになって、反射的に両目を閉じた。
視界が閉ざされ、脳裏に蘇るのは甘やかなうたかたの夢の記憶。
長いようで短い、ほんの二時間の、世界遺産を訪ねたデート。
「……シンイチはかわいかったなあ」
彼――来島真一は自分と違って生身を晒していたはずだ、と棗は思う。
彼の身長は現実の棗より僅かに低いくらいだった。
「楽しかったなあ」
あんな楽しい時間を知ってしまったら、無味乾燥な現実が嫌になる。
目を閉じたまま、数時間前の疑似体験を反芻する。
幸せな夢の世界にいつまでも浸っていたい。
けれど、その中でやった取り返しのつかない嘘が棗の心をささくれさせる。
棗は膝に額をこつこつとぶつけはじめた。
このままシャワーに打たれていても、自分のついた嘘も今ある現実も変わりはしない。棗は
「何やってんだろーね……」
濡れたままでユニットバスから出る。
寒い。
フローリング風のシートの張られた安っぽい床をペタペタと歩きクローゼットの下の引き出しからバスタオルを引っ張り出し、髪を拭いた。
その時だった。
机の上に置いていた旧式の携帯端末が着信音を鳴らした。
棗の端末を鳴らす相手は姉か真一のふたりしかいない。
「さっきの今でシンイチってことはないでしょ。……ほら、やっぱお姉だ。でもなんだろ? 仕事で遅くなるとかかな」
バスタオルを体に巻き付け、携帯端末を取って、音声通話を開始する。
「お待たせお姉。どうかしたの?」
努めて明るい声を出した棗の耳に届いたのは、姉の声ではなく低く太い男性のそれだった。
『夏目棗さんの連絡先で宜しいでしょうか』
「へっ? ソウデスケド、ドチラサマデスカ?」
『私は、あなたのお姉さん――夏目
「ヤマザキ……さん?」
『はい。文さんの端末から連絡をさせていただきましたのは――』
一息。
『――彼女の殉職をご家族である棗さんにお伝えするためです』
「はい?」
『夏目文さんは、職務中に亡くなりました』
血の気が引いた。
手の力が緩んだ。
携帯端末を落とした。
ごとり、と音がして。
ぐらり、と天地が揺れた。そんな気がした。
『棗さん? 棗さん!? 聞こえていますか!?』
床に落ちた端末から山崎の慌てた声が聞こえてくるが、棗の精神はその声を認識することを拒んだ。これほどの悪夢。信じられない。信じたくない。
夢なら、夢なら今すぐ醒めてよ――
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