第3話 星空の下の乾杯

「単体のリン原子ですか。原子番号十五のフォスフォラス。あなたのこと、フォスとお呼びしても?」

「何だそりゃ。呼びたいなら勝手にしろ」

「おや、どうやらお気に召さないようですので止めておきましょう」


 一旦シャワールームに分かれてから約束通り地上のレストランで再会して。リンイチ・マカベと名乗った時の開口一番がそれだった。マッチ棒呼ばわりされたことはあっても、原子まで引き合いに出されたのは初めての経験だ。


 やはり無機人格は変わり者ばかりだとひとりごちる。そんな奴に顔で釣られてのこのことランチの誘いに乗った自分が情けなくもなる。


「今検索してみたのですが、このスペイン料理店は定番のパエリアと生ハムのサラダ、カスティーリャ風ガーリックスープが人気のようですね。特にムール貝は地中海環境を完全再現した火星養殖場からの直送だとか」


 地下の穴ぐらから出てしまえば電波などいくらでも飛び交っているので、電子端末そのものである彼女がリアルタイムでネットの評判を調べられることには驚かない。しかし当然のようにメニューを選び始めたことの方には多少なりとも面食らった。


「食えるのか?」


「それはもう。五感が一つでも揃っていない躯体ボディなんて、水準Ⅲクラススリー無機人格わたしたちにすれば顰蹙ものですよ。とはいえあなたがたと同等の味覚を備えているとまでは言えませんが。一万の味蕾みらいをこのサイズの面積に敷き詰めるのは、まだまだ難しいようで。咀嚼した食材を体内で酸化させて補助電源にするのは、あむ、比較的かんたんらしいれふが……」


「おいちょっと待て、舌を出すな! しまえ!」


 元のっぺらぼうがいきなり舌を出して指差したので、慌てて燐一は口元を押さえつけた。ホモサピエンスのものよりも赤みがかった小さな舌は湿り気を帯びたルビーを思わせる。性的魅力はもちろんのこと、芸術など興味もない燐一にさえ、滑らかなルージュの曲線に目を奪われずにはいられなかった。


 彫刻と絵画、建築といった分野がルネサンスでもてはやされたように、現代の芸術家と技術者の最高峰が競って限界に迫ろうとしているのが無機人格用躯体の分野である。


 初期の論戦で宗教家は人が人を作るなど傲慢だと親の仇以上の執念をもって認めようとしなかった無機人格だが、物作りの職人たちは人の手によって神の似姿を作る方に興味を持ってしまっていた。


 今では細胞単位の手入れを尽くしてメスを一切使わない人造の美貌を手に入れた女優と、新素材開発から始めて外側だけで億単位の開発費など当たり前の躯体ボディを着こなす無機人格がハリウッドのトップスターの座を争う光景は珍しくもないのだ。


 逆に言えば、数が少ない最高級の躯体は映画の中ぐらいでしかお目にかかれないとも言えた。それがそこらの小惑星のファミリー向けスペイン料理店で舌を出しているのを見たら、主小惑星帯メインベルトじゅうのスカウトマンがこぞって群がってくることだろう。


 怒鳴られてようやく舌を仕舞い、何事も無かったかのように彼女は話を続けた。


「それに何より、これほど綺麗な景色の中で料理を楽しまないだなんて。景観に対する冒涜でしょう?」

「……まぁ、な。掃除屋の仕事はロクでもないけど、これがあるから、この星は嫌いじゃない」


 午後一時。差し渡し七キロのサファイアガラスドームの真上から、適度に弱められた本物の太陽光が小惑星アキレスの第三地上都市シティ・レーニアを照らしていた。

 大気はないので、頭上にあるのは青空ではなく漆黒のキャンバスに散りばめられた大小の宝石のように輝く星々と、一際大きな日曜日サン・デイの象徴だ。


 坂の上に建つ三階建て建築の二、三階を占有し、三階の面積のほぼ半分を屋根なしルーフレスにした開放的なレストランからはレーニア市の全景が見渡せた。


 空の黒い昼という景色は、地球や火星、それにわざわざ天井に地球風の空を投影している天体の住人からすれば変に思われるかもしれない。だがこの透明度の高い星空のドームの下で、スペイン系の彩り豊かな石材と街路樹の緑が織りなす街並みこそがアキレス・レーニアを故郷に持つ人々の原風景なのだった。


 フランス系、イギリス系、アラブ系、中華系と各ドームごとに主軸とする文化風土は変えられている。しかしこの木星近傍の小惑星に初期に移住してきた誇り高き職人たちによって建造された八つのサファイアガラスドームは、その下に広がった八つの地上都市をまとめて小惑星帯メインベルト有数の観光地として認めさせるだけの美しさを与えていた。


 驚くべきことに、それだけの絶景を背後に置いても彼女の神秘的な造形美は見劣りしていなかった。むしろ自然と人造、二つの芸術が互いに調和し、引き立て合ってさえいる。


 長年地上に滞在する機会を見つけては各都市のどこかから眺める星空を一番の楽しみにしてきた燐一からすれば、そんな存在は想像だにできなかったものだ。


 こうまで視覚的に圧倒されれば、素直に完敗を認める気にもなるというものだった。普段は思いつきもしない気障な仕草でシャンパンの入ったグラスを掲げ、


「昼間の星と、あんたの瞳に。……いい加減、名前を聞いても?」

「ウラニア。杖とコンパスと天球儀を持つ、天上の女を意味する名だそうです」


 グラスが鳴る。

 それは彼女にこれ以上なくふさわしい名前に思えた。

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