第2話 無機人格のヴィーナス
「怪我は?」
今度こそ危険が去ったのを確認して、燐一は助けた相手に声をかけた。燐一のような機能的な形状の作業用スーツではなくフリルのついた通常のデザインの服を着ているが、今しがた弾け飛んだキングコングの体液を除いて汚れはほとんどない。
撥水加工を施してあるとすれば、迷い込んだ素人というわけではないのだろうか。正面から見ても、やはり歳の近い少女のように見える。しかし何故か俯いていて、顔だけが見えなかった。
「怪物? それは……」
と思っていたら急に喋り出した。が、意味がわからない。
燐一への返答ではなさそうだ。それとも聞き間違えたのか。
「こんな顔だったかい!」
頭を上げた少女の顔には、目も鼻も口も、およそ何一つパーツがついてなかった。陶器のようにすべすべした曲線に、汚らしい紫の汁が飛び散っているばかりだ。よくできたお面だな、と燐一は思った。キングコングにはちゃんと顔がついていたので、「いや違うけど」と答えておく。
彼女はドッキリが不発に終わったのが不満だったようで、柳のように両手の指先を垂らしたポーズでしばらく静止していた。少しして、諦めたように両手を下ろして嘆息する。
「あなた、日系人でしょう? 五世紀ほど前の有名な怪談のオチですよ。もっと教養を身につけるべきではないでしょうか」
「余計なお世話だよ。のっぺらぼうくらい知ってるっての」
怪我はないようだが、余裕たっぷりに場違いなユーモアをかましてきたのっぺらぼうに早速助けたことを後悔し始める。
同業者か、気狂いか、それ以外の何かか。いずれにせよ面倒な相手であることは明らかだった。と、視線を下げた拍子にハウンドタグの表示が目に入る。先程までは人型であることまでしか確かめていなかったが、そこにはもう少し詳しい情報が示されていた。
「……あんた、
そう問いかける。のっぺらぼうの体温は一部が異常に高すぎ、一部が異常に低すぎた。さらに磁場計測の結果、生身の人類ではありえないほど強い磁気がのっぺらぼうを取り巻いている。到底、有機物ではありえない。
「ええ、ご名答です。誤解が解けたようで何より」
ウィンウィンと駆動音を響かせて、彼女は手首を何周もさせた。まさか冗談のために手首まで機械式につけ替えたわけでもあるまい。彼女は
そして標準的なすべての判断能力を備えた上で、タイミングを考慮せずにジョークを言える無神経さを個性として備える自由を、彼ら彼女らの法的人格権は保障しているのだった。くそったれ。
「……なんだか知らないけど、とにかく余計なお世話はお互い様だったみたいだな。どうせ知れることなら後で俺の上司が教えてくれるだろうし、知るべきじゃないことならまだ命の方が惜しい。俺はさっさと引き上げるから、あんたも
「あ、あ、待ってください。失礼、お礼が前後したことを謝罪します。道具は用意してきたのですが、なにぶん慣れない仕事だったもので途中で落としてしまって。避けてばかりではラチがあかないとカウンターを考えたのですが、お陰でリスクのある賭けをせずに済みました。掃除屋さん、あなたは私の恩人です。量子回路の最奥よりの感謝を」
立ち去ろうとしたところで急に物分かりが良くなり、無機人格なりの礼儀作法で感謝を述べる。わざわざ頭を下げたのは、こちらが日系人だとわかっているからか。
「私の雇い主はそれほど秘密主義というわけではありませんし、後ろ暗い事情もないのです。むしろ恩人に何もせずむざむざ帰ったとあっては減給されてしまいます。どうか上で、せめて食事だけでもご一緒させてくださいませんか」
初対面であれだけ失礼なジョークをぶつけておいてよくもまぁ、と思う反面、無機人格とはそういうものだということも知っていた。
しかし今は激しい緊張の後で疲れ切っていたし、さっさと汚れた服を脱いでベッドに飛び込みたいという欲求もあった。燐一が悩んでいるのを察したのか、のっぺらぼうが自らの首の後ろ辺りに触れる。
カチリ、という音がして、顔のない仮面が外れた。
「……ダメ、でしょうか?」
ヴィーナスだろうがミューズだろうが裸足で逃げ出す造形美だった。
しかもふざけたことに、日系人好みの少しだけ幼さの残る顔立ちときている。燐一はめまいを覚えたが、それを表に出すことだけは意地でも堪える。
しかし、それが限界だった。
「……シャワーだけは浴びさせてくれ」
人間、もとい人類は先祖代々の遺伝子には逆らえないらしい。またひとつ半端に知恵の実を齧ったな、と燐一は胸の内で呟いた。
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