Cujamー5ー

 夜の匂いがする。

 なんだか懐かしい匂いだ。

 軍の調練をはじめてから……、エレオノーレがここに来てから……、色々なことが始まって――、夜にひとりで部屋を抜け出すことが増えた。

 アンティゴノスが、少年従者を新しく付けることを止めてくれたのも、それを加速させた。エレオノーレが訪ねて来ている時は、思い留まれる。だが、エレオノーレと会わない日は、最近では毎日当ても目的も無く、夜の町をただ歩いていた。

 静まり返った町では、足音を殺してゆっくりと歩く。警備中の部隊や学園の生徒と会えば雑談にも興じるし、軽く飲み食いをしたりもする。しかし、長居はせずに再び歩き始める。

 俺が軍の調練に入っている事を知っている者は多いので、その思索のために歩いているのだと察して、向こうも長く引き止めたりはしない。

 ただ、本当は……。


 学問を学び、議論を交わす内に、おぼろげだった理想がはっきりと肉付けされていくのを感じる。子供の頃に感じたような、背が伸び、筋力が強まり、体力が充実していき、知恵が頭を澄ましていく、成長の実感。

 ただ、それは同時に、自分の中の……そう、エレオノーレが獣と表現したような、先生が危惧していたような……凶暴な衝動――ラケルデモンの頃の俺――と、今の自分――王の友ヘタイロイとしての俺――が日に日に乖離していく結果にも繋がっている。

 その反動なのか、ふとした弾みでタガが外れそうになる時が有る。今がいつで、どこに居るのか忘れそうになる。

 最近は、特にそれが増えた。訓練の最中、胴を両断出来る隙を見つけた時や、口の中を切った時の、血の味や鼻に上ってくる匂いで。


 多分、俺は、既におかしくなっていた。

 戦場でしか、生きられなくなっている。

 そして、それは、ラケルデモンでの教育の賜物だった。


 ここに来てから、人を斬っていない。

 それが当然だ、と思う自分と、これまで好き勝手斬ってのし上がって来たのに、今更なにを我慢させるんだ、と、憤っている自分も居る。

 お行儀良く振舞う? ハン、結局は戦場で泥まみれで斬り合うのに、礼節の勉強? 天文、自然科学、倫理……。

 それがなんになる?

 結局は、勝たなきゃどうしようもねえ世界なんだろ?

 そんなもんより戦わせろよ。


 ……そう。

 勝ちたい、と、強く思っている。渇望している。


 でも、なににどうやって勝つのだ?


 負け続きの人生だ、と、諦めたくなる。


 違う、俺は負けてない。一度退いているだけで、その経験も活かして、新しい軍を編成し、帥としても成長している。いや、前は俺の兵隊がクソだっただけだ。この国に来たばかりの演習も、結局は俺の準備不足だっただけで、技量で劣っていたわけじゃない。


 俺は、なにに負け、なにに勝ちたいんだ?


 王太子……。かつて俺が持っていたもの、持ち得た可能性がある王権に最も近く……妬ましい。確かに、勝ちたい相手だ。が、そうした明確な誰かに対して俺は憤ってはいない、と、思う。

 他のヘタイロイのライバルも違う。そうじゃない。

 ラケルデモン王家、国家……なんだろう、上手く言えねえが、このクソな世の中の全部に勝ちたいと思う。

 みいんな、なにもかも綺麗さっぱりと滅ぼしたい。

 なにもない所から、新しく国だとか軍だとか、諸々全部を作り直したい。

 そうしたら、ようやくすっきり出来る気がした。


 つまるところ、ラケルデモンで得た全てを捨て去らなければ、本当の意味でここの連中の仲間にはなれないって事なんだろう。

 しかし、俺は、もう後戻り出来ない。あの国の教育方針で、他人を殺すことを日常とし、己の血肉化するそういう風に育てられた。一朝一夕に変われてたまるか。……いや、どれだけ時間が過ぎても、変われるとは思えなかった。

 ラケルデモンという、冷たく重い鎧を脱ぎ捨てれば、もう俺はどこにも居ない。生きる目的も無い。

 俺でなくなるのなら、俺であるうちにパッと咲いて散る方がよっぽど俺らしい。命なんて惜しむ気は無い。雑兵にくれてやるほど安くは無いが、斬り合いの果てに死ぬならむしろ本望だ。


 ――今日も殺るのか?


 ラケルデモンにいた頃、毎日のように聞いていた台詞が、耳に響いた。ここには、誰もいやしないってのに……。

 いや、これは、幻聴ではなく――。

「アーベル!」

 と、俺を呼ぶ大きな声が聞こえた。

 億劫なのを隠さずに、ゆっくりと首をそちらに向ける俺。


 駆け寄ってきたのは、エレオノーレで――家で待っていなかったので、今日はもう会わないと思ってた。……こんな時間になにをしている? ――俺の頬に手を当て、顔を近付けて瞳を覗きこんで来た。

「どうしたの? 顔が」

「あ゛?」

 顔、と、言われても、怪我をしたわけでもないし。

 いや、分かってる、表情って意味で言ってるんだろ。

 だが、なんでこんなにコイツは鈍いんだろう? そういう気分じゃないんだ、今は。関わるなよ。苛々するから。

「敵?」

「ここは、安全だ」

 後ろに短く跳躍してエレオノーレと距離をとり、そのまま軽くステップを踏むようにして暗がりに紛れる。

「アーベル! 待って!」

 路地へと身を滑らせた俺を、エレオノーレの声が追いかけていたが、足音は聞こえてこなかった。

 ふん、と鼻を鳴らす。

「待てと言われて、俺が待った例があるか?」

 もう、声さえも追いかけてはこなかった。

 だが、それでいいと思う。

 ほんの少しだけ、寂しいような気もしたが、胸にある他の衝動に比べれば、無視出来る程に小さい感傷だ。

 ――戦いたい、殺したい。

 もう、誰でもいい。

 なにかを壊したい。ミエザの学園に着いてからこれまで、我慢することが多かったせいか、もうその気持ちを抑えられそうになかった。

 鬱憤をため込んでいるこんな、自分自身に苛々する。


 だから、アイツの側にいちゃダメだ。


 殺人衝動を誤魔化すために訓練場まで逃げ込むと――、不意に物音が響いた。

 誰か居る。

 ダメだという声と、丁度良いという声は、等しく頭の中で響いていた。

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