Maasymー3ー

 荒れている、というよりは掃除をしていない家だと思った。家は、住人の個性を強く反映する。竈は、以前使った痕跡はあるが、最近は使われていないのか灰は無く、煤がこびり付いているだけだ。

 予想通りで、目的通りだ。

 俺達三人が踏み込んでも、面倒臭そうに視線を向けただけの男は、世の中に対する不満や怒りといった焔も燃え尽き、どこか諦めたような感情の抜け落ちたような顔をしていた。

 所詮こんなものか、という顔をしたのはプトレマイオスで、コイツをどうするのかね、と、試すような目を俺に向けてきたのがアンティゴノス。

「なんだ……借金は無いぞ。そもそも借りる当てが無いんだからな。ここも立ち退けってか? なら、逆に金を出して貰わないとなぁ」

 くくっと喉の奥で笑った男は、資料では四十歳のはずだが、皺の感じから言って、もう少し歳が上のようにも感じた。筋肉は……まあ、衰えが目立つのは、しょうがないか。こんな生活では、アゴラで汗を流すといったこともしていないんだろうしな。

 屋台の売れ残りの値引き品で飢えを凌ぎ、昼まで寝て、時々は雑用で駄賃を稼ぐ。そんな家畜と大差ない生活をしているんだろう。

「お前の、未来を予知してやろう」

 男の前に立ち、俺は話し始めた。

 プトレマイオスは服が汚れるのを嫌ってか、それとも目の前の男が逃走するのを防ぐためにか、戸口を動かなかった。アンティゴノスは、俺とプトレマイオスの間で、壁に背を向けいつも通りの底が読み難い薄ら笑いを浮べている。

「クソみたいな仕事で、無いよりましな報酬を得て、安酒で酔っ払って全てを誤魔化す。それで、そんな仕事さえも来なくなったある冬に凍え死ぬ」

 男は、目を背けず、顔を顰めもしなかった。

 当然だろう。誰が見ても明らかなことなんだしな。自覚がないわけがない。

「自分でも分かってるんだろ?」

 顔を近付ければ、真っ暗な洞のような目が、直視させられた現実を前に、不安や恐怖で震えているのが分かった。

 いいね。

 丁度良い具合に、濁った目だ。

「世界は、お前に、優しくない。これまでに大勝ちする機会は巡ってこなかったし、そもそも勝負に出れるだけの元手もない」

「……ただ、嘲いに来ただけか? いいとこの、お坊ちゃんが」

 こちらの狙い量りかねているんだろうが、善意ではないと解釈したようで、苦労知らずと暗にからかってきた男。

 フン、と、プトレマイオスが鼻を鳴らす。

 確かに、一部、金に任せて奴隷兵だけを戦場に送り、自らは遊び呆けている富裕商人や地方貴族もいるにはいる。が、そんなのと同じと思われるのは心外だ。

 いや、プトレマイオスは、こちらの実力を測れないような腐った男、と、心底目の前のヤツを嘲って鼻を鳴らしたのかもしれないが。

「嘲って欲しいのか?」

「…………」

 それならそうするが、と、訊ねてみるが、男は今度は返事を返さなかった。

 ので、そのまま話し続けることにした。

「別に、深く考えなくて構わん。直感で答えろ」

「ん?」

 なんだ、仕事の依頼だったのか? と、少し表情を変えた男が、顔を斜めにして俺を見上げたので――。

「金をやるから人を殺せ。出来るか? ただ、殺すのは一人二人じゃない、戦場で千も万も殺してもらう。途中で手は引かせない。終わりは、死だけだ。どうせ汚れるなら、汚れ切って見せてみろ」

 視線がぶつかると同時に、一欠けらも感情を含めずに俺は訊ねた。

「おい!」

 身を乗り出したプトレマイオスを、アンティゴノスが腕で遮り――首を横に振って押し留めている。

 目の前の男は、俺を探るように見詰めてはいるが、状況を全く理解出来ていないのか、あからさまに挙動不審になった。

「結果は変わらん。戦時に殺せば英雄で、平時に殺せば犯罪だが、事実はどちらも死体を積み上げる作業だ」

 右手を視線の高さまで上げ――、手の皺を一瞥してから、強く握る。

「勇気、忠誠心、情熱、功名心……戦場での殺しを肯定する感情だ。が、それだけか? それだけで戦闘に、戦争に勝てるのか?」

「なにを……言っている?」

「俺には、熱意があった。勇気もあった。資質は欠けていなかった。だが、それでも負け続けた。しかし、俺はここに居る」

 ラケルデモンの王位継承権を奪われ、国からは逃げ延びたが、それはラケルデモンが戦争準備中だったからで、俺の実力だけに依るとは言えない。私兵部隊を組織したが、連れ出した女を御しきれずに分裂させ、最後には模擬戦で王太子に打ちのめされて……。

 にも拘らず、王の友ヘタイロイとして抱え上げられた。

 人生とは運が全てなのか? なら、俺達がこうして飽きもせずに毎日鍛えているのはなんのためだ? 神々の定めというなら、我々の意志に意味は無いのか?

「お前は、どうする?」

 同じ疑問と矛盾を感じないか? こんな、家畜と変わらない最低の生活の中で。

 言外に、問い掛ければ、男は俺から視線を逃がした。

「負け続けた人間が学ぶのは、どんな場所でも生きていけるということだ。恥にまみれようが、悪事に手を染めようが……な。誇りを捨てれば、なんだって出来るさ。しかし、それは、死んでいないだけだ。……どん底を、身を以って知った。そうだな?」

 男は、無言で頷いた。堅い寝台に腰掛け、項垂れるように顔を地面に向けている。

 細かく降り積もっていく毎日なら無視できていた、惨めさや憤り、悲しさや虚しさ、そうした渇望の山を直視させる。目の前の男ひとりでは、どう足掻いたって突き崩せないほどの大きな山だ。

 息遣い、腕の筋肉の動き、足の緊張、細かな兆候を注意深く観察し……。俺は意図して造った面のような表情を崩し、少しだけ口角を下げた。

「では、もう一度お前に訊こう。俺の命令で、人を殺せ、手を汚し続けろ。その結果に見合った報酬を出す。どうする?」

「危険、なんだろ?」

 親を捜す子供のような声だと思った。

 だから、俺は、救いを求めて伸ばされたその手を、突き放した。

「安全な戦場がどこにある。それに、まともな常備軍がお前を雇うと思ってるのか? もしその時が来たら、国のため、仲間のために潔く死ね。逃げて、再び誰にも顧みられず、死んだら舌打ちひとつで城壁外に放り捨てられるだけの生活に戻りたいのか? 同じ死ぬにしても、仲間に担がれた盾で帰還し、惜しまれながら弔われたくは無いのか? いつか必ず死ぬというのに、命を惜しむだけの生で良いのか?」

「……俺を連れて行くのが命令か?」

 口振りから、ようやくこちらが軍人だと気付いたのか――そんな確認をしてきたので、俺は肩を竦め、先ほどよりは随分と軽い調子で答えた。

「いや、お前が選べ。無理矢理連れてって役に立つなら、最初からそうする。俺は数合わせの兵隊なら要らないんだ。自分には無理だと思うなら、そう言え。お前の性根がもうどう足掻いても直らんようなら、どうせ途中で脱落する。二度手間はごめんだ」

 そもそも、普通に募集を掛けても定数以上は集まるんだからな。形だけ整えるなら、わざわざこうして、癖が強く一芸のある人間を訪ねたりはしない。


 二呼吸の間が空き、男は伏礼した。

「ヒエラプトラのトニと申します」

「おう、よろしくな。顔を上げろ、立て、次に行くぞ、まだまだ回るところはあるんだからな。お前の同僚になるんだ。勧誘も手伝えよ」

 アンティゴノスはいつも通りのニヤニヤ笑いで、プトレマイオスは文句の二つ三つ飲み込んだような顔で頷き――まあ、及第点ぐらいは貰えただろうな――、俺に先立って家を出ようと……。

「あの……アンタ等は?」

 トニが、プトレマイオスが怒りそうな雑な口調で訊きあがった。

 やれやれ、俺の軍に編成するなら、早い内に口の利き方も覚えさせないといけないな。

「アンティゴノスだ」

 怒っているわけでも容認しているわけでもない、事実だけを告げる独特の重さのある声。そして――。

「……プトレマイオス」

 露骨に不機嫌な声。

王の友ヘタイロイの……! じゃあ、アンタは――、外から来たって言う、噂の……」

「アーベルだ。喜べよ、お前が俺の最初の兵隊だ」

 前の連中は、俺のではなくエレオノーレのなので、数に含めない。とっととついて来い、と、手招きして家を出る。トニは――まあ、無産階級や奴隷では珍しくないが――素足で付いてきて、どうも一言多いのは性分らしく、家を出ると同時に俺に対する噂? について話してきた。

「異常に長い鉄剣を振り回す、無茶苦茶な男だと聞いていた」

 噂と違ったか? と、視線で問えば、噂以上だという顔を返されたので俺は肩を竦めて軽口を返した。

「そうか、素敵な上官で感動したのか。なら、徹底的に鍛え上げてやるから、感謝しろよ」

 目を細めて「……口の利き方と、礼節に関しても、な」と、付け加えれば、先を歩くプトレマイオスにお前もな、とか、余計なことを言われたので、寝ている犬を起こす間違いをしない内に、俺は前の二人と並び――。

「さて、次はどいつだったかね」

 と、顎に手をやったアンティゴノスに「ここの向かいの三軒先だ」と、答え、再び先頭に立って歩き始めた。

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