Aspidiskeー14ー

「今日は、少し時代を下って、人間の時代の話をするか」

 昨日と同じ船尾近くの甲板で、俺は昨日と同じように話し始めた。

 エレオノーレは、……そうだな。ラケルデモンの公共市場都市で話していたような礼儀作法や、簡単な算術なんかよりも、こうしたどちらかといえば文学よりの講義の方が肌に合うようであった。

 もう少しぐらいは、生きていくうえで役に立つ知識の方にも興味を持ってもらいたいんだが、な。

 まあ、周囲が甘やかしているので、それも無理な話か。


 信仰心?

 フン……神様が本当にいるのなら、俺はこんなに落ちぶれなかっただろ。例え死後に、冥府の底にあるという奈落に幽閉されるとしても、俺は今のままで良い。それに、そんな死後の裁判があるなら、俺の行き先は既に決まっている。

 全部今更だ。

 俺自身としては、神々が居てもいなくてもどっちでも良い。俺自身の生活とは無縁だという認識――クソ真面目だった親父は別としても、レオやジジイは、人をまとめるための方便として神の宣託を利用していたのを知っているからかもしれない――だ。

 だからかもしれないが、エレオノーレにも、あまり信仰に熱を出しては欲しくないんだがな。

 とはいえ、ギリシア人ヘレネスとしての教養部分は、押さえておかないと苦労するか、と、どちらかといえば気乗りしないまま俺はエレオノーレに問い掛けた。

「プロメーテウスは知っているか?」

 エレオノーレは頷き、即答した。

「人に火を分け与えてくださった神様」

 ……少し待っても、エレオノーレは続きを口にしなかった。本当にそれだけという認識なのかもしれない。

 あ、いや、目がキラキラしているし、好きな神様なのかもな。まあ、そういうヤツは女には少なくないらしいが……。

「まあ、そうだな」

 曖昧に相槌を打つ俺に、やや不機嫌そうにエレオノーレが小首を傾げて見せた。

「うん?」

 俺はやんわりと首を振って、更に質問を重ねてみた。

「しかし、その後はどう聞いているんだ?」

「人に火を与えた罰を受けたって」

「ふむ」

 もっともらしく頷いてみせると、エレオノーレは昨日の事を思い出したのか、不思議そうに俺の目を覗きこんできた。

「ラケルデモンでは違うの?」

 座っていた甲板から立ち上がり、エレオノーレの前へと進み出る。顎に手を当てて見下ろすと、上目遣いに俺を見るエレオノーレと目が合った。

「元々、ラケルデモン俺達はかなり高い冶金術を持っていた。今でこそ装飾品や金銀の貨幣は使わなくなっているが、縁の無い神様じゃないさ」

 エレオノーレは、解っていないのか、首を傾げた。

 もしかしなくても、製鉄や青銅の鋳造の知識が無いのかもしれない。ったく、コイツは、本当にモノを知らないな。

「分からないか? 金属の精錬には、火を使うんだ。神が与えた火によって、人は武器を得、結局は大神の予言通りに殺し合いを覚えた。つまり、功罪の両方を併せ持っているとも見れる」

 皮肉を口の端に乗せ、からかうように肩を竦めて見せれば、エレオノーレは怒ったように言い返してきた。

「それは……。使う人のせいじゃないか」

「まあな。ちなみに、人間という種族は、神の主の座が変わることで影響を受けたといわれている」

 知ってるか? と、目で問うてみるが、エレオノーレが首を勢い良く横に振るだけだった。

 だろうな、とは口にせずに俺は続ける。

「人が生まれた最初の時代――クロノスの時代の金の種族が神に最も近く、次のゼウスの時代の銀の種族は、それより劣っていて身体も弱かった、そして、そのうちに銀の種族も生まれなくなり、青銅の種族が生まれたが、極めて虚弱で知恵も先の種族より劣っていた」

 ここまではいいか? と、一度話を区切れば、どこかしょげたような顔で質問されてしまった。

「私達は、青銅の種族なの?」

 フン、と、鼻で笑い、急くなよと前置きした上で俺は話し続けた。

「プロメーテウスが人の境遇を哀れんで火を恵んだのは、この青銅の時代だな。ちなみに、プロメーテウスは神々を上手く騙して人に火を与えるが、大神の報復というか、陰謀によって、弟のエピメーテウスにパンドーラーという女をめとらせてしまう」

「あ!」

 話しの途中ではあったが、エレオノーレが声を上げた。

 邪魔された気分だったので、どちらかといえば咎める視線を送るが、エレオノーレはそのまま話し出した。

「パンドーラーの話は知ってる。……災いの箱を開けた女性」

 語尾を弱めた理由がよく分からなかったが……。ああ、まあ、確かに問題を起こしてばかりって解釈なら、どこかコイツと被るのか。ただ、言い伝えによればパンドーラーは完璧な魅力を備えた女性として作られたそうなので、そういう意味で当てはまるかと訊かれれば疑問は残るがな。

 俺は、小さく嘆息し、座学の最中なので拳は使わずに注意した。

「話を遮るな。それに、パンドーラーが持っていたのは、祝福の箱だ。まあ、この辺は、前にキルクスが言ったように、国によって解釈が違うのかもしれないがな」

 真逆の解釈に興味が出てきたのか、さっき話を邪魔したことはどこえやら、きちんと――まあ椅子ではなくて甲板な時点できちんとしていないかもしれないが――座りなおしたエレオノーレ。

 その態度の変化に、今度は呆れたように肩を竦めて見せてから、俺は話を続けた。

「嫁に行く際に、パンドーラーは神々からの祝福が詰まった箱を与えられる。しかし夫のエピメーテウスは好奇心に負けてこの箱を開けてしまった。祝福は飛び去ってしまったが、ただ希望だけは箱に残っていて『逃げてしまった良きものは、いつか人々の幸いとなることを約束した』と伝わっている」

 災いが放たれたか、祝福を逃がしたか。まあ、結局は同じことなのかもしれない。ただ、最後に残っていたのが同じ希望だという点においては、若干意味合いは違っているのかもしれない、と、今気付いた。

 ……いや、同じか。

 災いの箱に入っていた希望とやらも、その箱に込められていた以上、人間によって良くないものであったとも取れるんだしな。

「なので、結局、人に神の祝福は降りてこずに、今の鉄の時代に至るわけだな」

 皮肉っぽく笑って話を締めくくったが、エレオノーレはまだ話を上手く飲み込めていないようで……。

「なんで、神様が祝福を逃がしてしまったのに、人に降りてこなくなったの? それに、『逃げてしまった良きものは、いつか人々の幸いとなることを約束した』んでしょう?」

 ああ、その部分か、と、これまでの話以上に常識の部分の解説を俺は始めた。

「まず、プロメーテウスの息子は、エピメーテウスの娘と結婚し、ヘレーンという息子をもうけた。これが、全てのヘレネスの祖であり、だからヘレーンの一族という意味で俺達の世界は自らをヘレネスと呼ぶんだ。なので、エピメーテウスが逃がした祝福を引き継げずに俺達は生まれてくる」

 ようやくヘレネスの意味を理解したのか――まあ、確かにエレオノーレはヘレネスなんだが、奴隷である限りは人ではなく言葉を理解する家畜という扱いなので、これまでそう呼ばれなかったから由来を知らなかったんだろう――、しきりに頷くエレオノーレだったが、もうひとつの疑問が残っているままだ。

 もしかすると、ひとつ目の回答で頭がいっぱいでエレオノーレは忘れたかもしれないが、生憎と俺は覚えているので、続けて箱に残っていた希望の話も語ることにした。

「そして、これは皮肉というか解釈にもよるんだろうが、箱には希望が残っていた。人の側には希望だけが残された。祝福がいつか訪れる、という、希望だけしかない……実際には祝福は来ない、とも受け取れるだろ?」

 あ、と、声を上げて得心がいった顔になったエレオノーレではあったが、その意味自体は気に入らなかったようで、多分、俺に言い返そうって言うんだろうな、しきりに考える顔をしている。

 ふ、と、エレオノーレのそんな様子に少しだけ俺は笑ってから、付け加えるように最後に実践的な話を交えた。

「続く英雄の時代で、今の其々の国の原型が出来、争いの日々――現代の鉄の時代――へと繋がっていくんだな。ちなみに、プロメーテウスを火を与えたことによる罰から救ったのはヘーラクレースで、これから行くマケドニコーバシオの王家はヘーラクレースの末裔とされている」

 まあ血統だけなら、由緒ある血筋なんだよな。あの国も。確か、オリンピアに参加したこともあったはずだしな。俺がまだ王族だった頃の話で、今はどうか知らんが。

 しかし、アカイネメシスとの一件以降も、国内がごたごたする時期があったりで、未だに名誉の回復には全く至っていないはずだ。


「アーベル」

 踵を返し、エレオノーレに背中を向けた俺にエレオノーレが呼びかけてきた。

 肩越しに振り返る。

 グリーンの瞳に真っ直ぐに捉えられた。

「ありがとう。明日も――」

「明日は入港の予定だろ。仕事の邪魔はするな。俺が不在で迷惑するのは、この船の全員だぞ?」

 それもそうか、と、残念そうなのは隠さなかったが、エレオノーレはそれ以上粘ることはしなかった。

 背中を向け、再び前を向いて歩き出す。気がつけば、背中を向けたまま、軽く右腕を上げていた。

 気付いた時に、らしくもない、と、腕を引っ込め俺は明日の準備の話し合いを召集し始めた。

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