Alsuhail Almuhlifー5ー

「で? なんの用だ?」

「別に、用事があったわけじゃないけど……」

 一通り書類をまとめ終わったところで改めてエルに向き直ると――仲間内への回覧や修正議論は明日で問題ない――、どこか決まりが悪そうに目を逸らされてしまった。

「なら、なんだ?」

 改めて訊ねてみてもエルはしばらく黙っていたが、すっかり小さくなった暖炉の火を見て薪をくべ様にぽつりと呟くように言った。

「火があるっていいよね」

「ん?」

 少し前に俺が思ったのと同じことを口に出され、訊き返す口元が少し緩んでしまった。エルもそれに気付いたのか、いつもよりも弾んだような声色で続けてきた。

「オレンジの炎を見てると、少し安心する。……夜だからかな? 特にそう思う」

「そうだな」

 短く答えると沈黙が降りてきたが、仕事中に待たせていた時のような緊張感はエルからは感じなかった。むしろ、多少なりともリラックスしているように見える。


「あの時は――」

 言いかけ、悪戯っぽく微笑みかけるエル。

「壁も屋根も無かったけどね。でも、今と違って……」

 しばらく待ってみても、エルは続きを口にしなかった。

 張り付いたような笑顔が、少し切ない。懐かしい、と言い切れるほど昔の出来事じゃない。でも、あの頃と今はなにもかもが違っている。


 続きをエルが話さないことに焦れてきた俺は、少しせっついてみることにした。

「違って、なんだ?」

 エルは俺の顔をしばし見詰め――、ふい、と、顔を背けて独り言のように言った。

「ううん。いいの……多分、それも、私のせいだから、きっと」

「モノははっきりと言え」

 歯に何か挟まったような物言いに、つい、強めに追求してしまう。しかし、それでもエルはううん、と、首を横に振って――。

「話したいんだ」

 ただ、それだけの言葉を本当に真剣に、切実に、真っ直ぐにエルが告げた。

「なにについて?」

「なんでも。アルは、話したいこと、ないの?」

 探るように、エルが俺の目の奥を覗き込んでくる。

「お前に相談して、なにが解決するんだ?」

 そんな意外な態度に少し緊張してしまい、皮肉を言ってやれば、怒ったり言い返してきたりはせずに、ただ悲しそうな顔をされてしまった。

 だから、少し、こちらの気分も沈んでしまう。

「ドクシアディスさん達には、話せないこととかは?」

 俺が口を閉ざしたことで、会話が終わるかもと不安になったのか、エルが早口で訊ねてきた。

「……つってもな」

 エルの口が固いかどうか、いまひとつ判断に悩んでいる。

 いや、口が固かったとして、価値観がぶつかる可能性が極めて高いのも問題だ。

 変に知恵をつけた今、俺以外のアヱギーナ人の連中と共謀して、俺の企てを邪魔しに掛かるって可能性も無きにしも有らずだ。


 奴隷だった頃には、現世で幸せになるのを諦め、だからこそ来世での幸せのために正しく生きる、そういう宗教というか信仰というか、そういうものが必要だったのだと、以前は奴隷の売買も行っていたという、ドクシアディス達からの聞き取りで分かってきた。

 しかし、今は、現世で生き抜き幸福を掴むためや、仲間を守るためにも、必要な悪事に目を瞑るなり加担する覚悟が必要だった。

 そういう現実論を、多分、エルはまだ受け入れられてはいない。

 変化する環境に、ついてきてはいない。と、俺は分析している。

 なら、余計な仕事を振らず、必要以上の情報は与えず、無理をさせないで民間人の中でちやほやさせておこうというのは、至極当然の判断だ。


「アルと話したことは、誰にも言わない」

 俺が言わんとしている事を察したのか、強情な目が真っ直ぐに俺を見ている。

 俺の――大好きな――意志の強いグリーンの眼差しだ。

 そうだな、コイツが、真っ直ぐに俺を見詰めたから、この旅は始まったんだったよな。


 まあ、差しさわりの無い、俺の個人的な心情ならいいか、と、どちらかといえば駄々っ子をあやすような心境で俺は語り始めた。

「じゃあ、愚痴ってやる。……つまんねぇ」

 リーダーとしてではなく、一番最初の頃に近い口調で本心を吐露すると、エルは目を大きく開いて間の抜けた声を上げた。

「え?」

「お前な、俺が好き好んで事務仕事ばっかりしてるとでも思ってんのか?」

 僅かに顎を上げてからかう様に見下す視線を向ければ、それは、と、エルが苦笑いで頬をかいた。

 コイツ……。

 自分で言うのは良いが、人になにか苦手なことがあると思われているのはなんだか癪だった。一通りの事を平均以上にこなせていると自負しているんだし。

 もっとも、そんな程度の反応で会話を打ち切ることもしないけどな。今の俺は。

「考えてもみろよ。あっちこっちで火の手が上がってるんだぞ? 戦争だぜ、戦争! 食い込んで勢力を拡大するには良い機会なんだぞ?」

 緩む頬をそのままに、ずい、と、エルに向かって身を乗り出す。テーブルを挟み、椅子に座っている俺は、自然とエルを見上げるような格好になる。やや顎を引いて俺を見たエルは、かすかに唇を動かしたが言葉は出てこなかった。

 だから、俺は畳み掛ける。

「なのに、戦力が足りない。出来るのは、大きな作戦を二回ってところだ。どんな戦場だって、戦死が出ないわけは無いんだ。無理に戦えば、若者の人口減で商売も成り立たなくなる。そうなれば、陸に拠点の無い俺等はジリ貧だ」

 乗り出していた上体を、今度は椅子の背凭れに深く沈め、肩を竦めてみせる。エルは、どこか冷めた調子で合いの手を入れてきた。

「……冷静なんだね」

「そりゃそうだろ。戦場で未熟な指揮官に二度目の機会なんて無い。ここ一番の大勝負、そしてその追撃戦の二回でどっかの領土をかっぱらわないと、俺自身の破滅だ」

 もう一度改めて肩を竦めて見せた後、難しい顔をしているエルに溜息交じりに現実を突きつける。

「エルも、このままいつまでもやれないって、もう分かってんだろ?」

 俺の不穏な発言に突っかかってこない。

 多分、また、誰かの入れ知恵なんだろ。俺以外の言うことは、割かし素直に聞くようなんだしな。

「うん。船で病気になる人も多くて、でも、これだけ人が密集しているんだし、仕方ないって……船の上だったから、流産しちゃった女の人も……」

 三段櫂船は、本来長旅に向く船じゃない。いや、そもそも、足の遅い大型輸送船でさえも、頻繁な入港が必要なんだ。

 船の居住性は、下の下。


 しかし、だからといってこの国に留まり過ぎるわけにもいかない。

 今の所、独自の文化を継続しているアヱギーナ人は、この国に根をおろす気配は無い。だが、いや、だからこそ、これだけの人数が長く留まれば摩擦は増えるはずだ。

 信仰する神の違い、食生活の違い、演劇や絵画なんかの美術的センスの違い……。

 とはいえ、この町を分捕るメリットは少ない。いや、逆に問題だらけだ。公共市場都市でのトラブルは、情報に聡い商人の手で他の公共市場都市にも一気に広がり、俺達は干される。

 かと言って、無人島の開墾を一から進めるには、俺達の集団の規模が大き過ぎ、かつ、農業経験者も不足している。夏と冬で相当の死傷者を覚悟しなければならないだろう。

 やはり、アヱギーナかアテーナイヱの、中央からの統制が弱かった地域――情報封鎖もしやすいので、小規模だが真水が豊富で、商業と農業のバランスの良い小島が理想だな。いや、まあ、そんな楽園みたいな島があれば、か。

 人種的に、ここのメインであるアヱギーナ系統が根付いている場所が望ましいが……。


 多分ラケルデモンは、アヱギーナを完全に併呑し、アテーナイヱがそれを承認という形で今回の戦争を終えるのが目的のような気がする。無論、相当の賠償金の請求も行うだろうが、市民の人口的にアテーナイヱまで統治することは不可能だろう。時期も問題だ。春になれば、農業国のラケルデモンは――農奴を使うとはいえ、いやだからこそ、農具での武装を監視するため兵を退かざるをえないはずだ。短期決戦なら、取りこぼしの島のひとつやふたつあってもおかしくない。

 いや、それならそれで次の秋には再び攻められるか?

 ん、む。簡単に考えがまとまる話ではない。

 いや……。どうにもダメだな。俺らしくも無い。優先度が高い問題ではあるが、すぐに、そして、一人ではどうにもならない問題をいつまでも引き摺っている。こうした部分では、海に詳しい手下を上手く使うべきだ。


 溜息を鼻から逃がし、これはあくまで雑談だ、と、自分に言い聞かせてエルに向かって話しかける。

「次の秋までが勝負だ。俺達が新興勢力になれるか、散り散りになって瓦解するかの、な」

 真顔で俺を見たエルは、瞬き二回の間を挟んで、堪えきれないように口を歪めて床へと視線を落とした。

「でも、戦いは嫌だよ」

「好き嫌いの話じゃない。必要か不要かの話だ。もう分かってんだろ?」

 試すような目を向けた後、ハン、と、鼻で笑ってから、同意しないが否定もしないエルの内心をなんとなく察する。多分、自分が死ぬのが怖い、仲良くなった誰かにも死んで欲しくない、そんなところだろう。まあ、完全に理解できてはいないだろうが、そう間違ってもいないはずだ。

 だから、少し真面目な調子に戻して俺は告げた。

「……怖いなら後方にいろ。戦場についてくるな。もう、お前が前線に出る理由は無い」

 エルは首を横に振って、縋り付くような目で俺を見た。

「……置いていかれたくはないんだ」

「なにから?」

 エルは質問には答えなかった。代わりに、まるで俺がここに居ないかのような独り言を口にしている。

「アルは、ひとりで行っちゃわないでよ」

 エルが俺の左肘に自身の両手を乗せた。あの傷痕に近い場所だ。

 エルが手に少しだけ力を入れるのが分かった。ただ、害意を感じないのでそのままにさせておく。

 握り拳ひとつ分、俺の耳に口を近付けたエルがポツリと呟く。


「私は、もう、置いていかれたくなんてないんだから……」

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