Hoedus Primusー7ー
「今日、新しく雇われた兵士だ。アヱギーナの連中がどういうものか戦う前に一目見ておきたい」
門番にそう告げると、そいつはなんの疑問も持たない顔であっさりと城門を開いた。さて、エル、と、目配せするとエレオノーレは門を出ずに門番に適当にアヱギーナ人や戦況について訊き始めた。
「野蛮なアヱギーナ人の前に出したくない。頼むぞ」
そう門番に告げると、立ちんぼで退屈していたのか、それとも女だと甘く見たのか、早速だらしない顔でエレオノーレと雑談に興じ始めている。
ふん、と、鼻を鳴らし、俺は門を潜った。
そこは、市街地とは少ししか離れていない場所なのに、ゴミ溜めになったような一角だった。適当な木材を四隅に立て、天井を襤褸切れや枯葉で覆っているのはまだマシな方で、ほとんどが汚れた地べたを寝床に、なんだか分からないガラクタや、古くなって廃棄された石畳を壁に海風を凌ぎつつして生活している。
酷い匂いだ。服に染み付く前に、さっさと商談を終えないと怪しまれるな。
ともあれ、無計画に忍び込めば警備のアテーナイヱ兵に見つかる。まずは周囲を一周して、忍び込める隙を窺うが――。
巡回の兵士を避けての進入は難しそうだ。
止むを得ず、他の兵士と連携できない場所の見張りに忍び足で近寄り……声を出せないように首を絞める。
「⁉ ……ガ」
手足をばたつかせたのは一瞬で、首を絞めたまま膝を折って姿勢を低くする。他の兵士の目を避けつつ、そのまま首の脈を押さえ――落とした。
殺しはしない。帰りにはコイツを利用する必要がある。
サッと周囲を窺うが、見つかった気配は無い。
兵士を隠すか否か悩んだが、地面に転がしておくだけの方が俺の目的には適う。猶予時間は短くなるが、仕方がない。落ちてる兵士をそのままにして、早足で貧民街へと侵入した。
「だ……誰だ」
が、いきなり、寝転がっていた汚れて痩せた男を蹴飛ばしてしまい、声を上げられてしまう。
しまったな、ゴミと混ざって小汚いヤツが見付け難い。
「声を荒げるな」
パン、と、掌でそいつの口を押さえつつ、そっと耳打ちする。悪臭が鼻についたが、今はそれを気にしている余裕は無い。
「兵士の目に付かない場所に、主だった者を集めてくれ。俺は敵じゃない」
相手が頷くのを確認してから、俺はゆっくりと手を離す。
そいつは、半信半疑……というよりは、明らかに疑いの目を向けていたが、さっき落とした兵士を親指で指して見せると、慌てて集落の中へと飛び込んでいった。
そんなに経たない内に、俺は貧民街の中央の多少はマシな掘っ立て小屋へと案内された。中には、十名程度の老人――村長とその側近だろう――と、五名程の若い男が集まっていたが、一様に疲れ果てていた。
時期もちょうど良かったらしいな。
顔に出さずに、微かに心の中で笑う。
余裕がある時になら、俺のような素性の怪しい人物に従う気になんてなら無いはずだから。
ふと腰の薬草袋の中身を思い出して、さっき貰った干しデーツを五粒ほどテーブル……というか、小汚い板切れの上に乗せた。
「少ないが、まずは話を聞いてもらう礼だ」
干しデーツは、すぐに男達の懐へと納められた。
警戒は若干薄らいだようでもあったが、向けられる目は、不信感の方が明らかに強い。
ま、貰い物の少量の手土産で買える歓心なんて、そんなものだろう。
ふ、と、上品だが嫌味を隠さない笑みを口の端に乗せてから、俺は話し始めた。
「諸君に、アヱギーナへの帰還を手助けする、と、申し出たら受けるか?」
戸惑いが人の輪に広がり――小声ではあったが、そりゃあ、とか、まあ、なんて曖昧な同意の声がちらほらと上がった。罠かもしれないと思って口を濁してるな。
どうする? と、長老らしき初老の男に顎で返事を促してみる。
「出来るのか?」
「不可能ではないが、良いのか?」
疑惑を増徴させるような策士の笑みを口の端に乗せ、唆す俺。
「『良いのか』とは、なんだ?」
乗って来た。
前のめりになった姿勢、それに声に感情がはっきりと表れている。
――が、まだだ。釣り上げるにはまだ早い。
「敵国に置き去りにされた人間が、戦時中に帰還するんだぞ? 貴様ならどう思う?」
長老とは別の、若くてそれなりに発言力のありそうな体格の良い男に向かって、答えを誘導するような形で訊いてみる。
返事は、すぐに返ってきた。
「――スパイになった」
苦渋に満ちた顔が目の前にある。
そう、人と人との信頼なんてそんなものだ。余程の事が無ければ、普通は他人を信じるなんてバカなことはしない。……アイツと違って。
「その通り」
俺が同意した一拍後、堪え切れないといった調子の声が背後から上がった。
「じゃあ、どうしろってんだ! ここにいてもいずれは奴隷として売られ、国へも戻れないなんて!」
ふ、と、今度は、邪気を消して余裕のある笑みを声が上がった方に向ける。
「そもそも、開戦に当たって、貴様等の故国はなぜ助けに来なかった? 避難勧告は来なかったのか?」
答える声はなかった。
何人かは、下を向いている。その答えが分からないのではなく、答えを認めたくない男の顔を覚えてから、俺は続きを口にして見せた。
「もはや、国家の保護の手から漏れている、そう判断されたからではないのか?」
声が周囲に行き渡るのを待ってから俺はゆっくりと話し続ける。
「とるべき道は三つだ」
三つ? と、目の前の長老が首を傾げた。二つではないのか? と、聞き返したそうな顔だ。
まあ、本来なら二つでいいんだろうが、分かり切っていることを口にせずにおけば、余計な疑念や安易な反抗に繋がる。だから、こいつらが、心中にあったとしても、今は俺に聞かせたくないであろう三つ目の案も口にした。
「俺の軍門に下るか、アテーナイヱの奴隷となるか、俺の案に一度乗った上で裏切り、アヱギーナに帰還し監視されながら無産階級となって生きるか」
俺を見る目が少し変わったのを感じる。
たいして秀逸な推理でもないが、俺の先を見る力を信じる担保にはなったはずだ。
流れを掴んで場を支配するため、一気に畳み掛けることにする。
「……そもそも、故郷とはなんだ? 母国とは?」
最早、誰からも答えは返ってこない。
悪い傾向じゃない。聞くことに集中している。
真剣な目から、今、必死に自分の立ち位置と、今後の身の振りについて考えているのが分かった。
「君達は商人だ。国と国との間を飛び回り、過剰が出た国の物を、不足が出た国に卸す。差額の儲けは当然の取り分だし、それをさらに増やすのも全ての
違うか? と、この場にいる全員の顔をゆっくりと一人ひとり丁寧に見て、自尊心に訴えかける。貧民街へ落ちぶれていようとも、本来は誇り高い人間のはずだ、と。
そう、本来は誇り高い人間なのだから――、なんだって出来るはずだ、と、幻想を抱かせる。自分ならやれる、という、戦へと向かう荒ぶる気持ちを奮い立たせる。
「だが、そんな君たちを国は救わなかった。身代金を払い、故郷へと迎え入れたか? 軍船を出して守ったか? 君たちが国に与えたものの一割でも、国家が君たちに返しただろうか?」
息を飲む音が、小さく、だけどはっきりと聞こえた。
「否だ! 今! 君達に必要なのは、国家からの保護なんて、いざって時に役立たない曖昧な約束事ではない。……どこにも属さず、屈さずに生き抜ける力。そう自前の武力だ」
ここだ、掛け金は充分に吊り上がった。
コイツ等を俺の兵隊にするのは、今しかない。
「俺と来ないか? アヱギーナと戦うことにはなるが、そもそも向こうはもう君達を味方だとは思っていない可能性がある。自分の人生を、自分自身の手で世界から切り取る機会は今しかない」
右手を胸の前で力強く握り、拳を見せつける。
その指で、手で、掴み取る実感を伝播させる。
答える声はすぐに上がらなかった。
しかし、静かな熱気と、圧が場に満ちている。
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