Capellaー3ー

 誰もいないウーティスと名乗った理由ってな……。

 反射的に、このバカ、と、罵りかけたが歴史につてはまだほとんど手付かずだったのを思い出して、どうにも肩の力が抜けてしまった。

 エレオノーレは真面目ではあるんだが、あまり物覚えがよくない。

 日常の金の遣り取りに必要な簡単な算術と、都市生活の作法を教えるだけで――いや、それさえもまだ完全にマスターしたとはいえないが――この数ヶ月は終わっていた。歴史以外にも、各地の文化、芸術、科学や哲学に関してもほとんど手付かずのままだ。

「……ああ、そうか、オデュッセイアはまだだったな。あれは、オデュッセイアの一節なんだ」

 のっけから理解を諦めたような顔をしたエレオノーレに、噛んで含めるように簡単な言葉を選んで説明を続ける。

一つ目の人食いの巨人キュクロープスを倒す際に、他の巨人に助けを呼ばれないようにするために、オデュッセウスは彼を捕らえている巨人にウーティス……つまり、誰もいないと名乗って切り抜ける。そういう話だ」

 ざっと引用した部分のあらましを語ってやっても、エレオノーレはやっぱり深い意味を理解しなかった。

「それで?」

 無邪気に訊き返してきた額を軽くグーでノックする。

「血の巡りの悪い女だな」

 ぶたれた額を押さえたエレオノーレが、微かに頬を膨らませて非難するような目を俺に向けた。

「まず、俺の家族名を知らせないため。ラケルデモンはこの戦争に干渉していないからな。それから、下手に俺達が交渉材料になってラケルデモンを引っ張ってこようと画策されるのを防ぐため、敵を倒して逃げた故事を引っ張ってきた。オデュッセウスにより倒された一つ目の巨人ポリュペーモスと同じ目にあいたくないだろう、という恫喝の意味で」

 もっとも、俺等をだしにラケルデモンを引っ張ってこようとなんてしたら、犯罪者の一味とみなされて即殺されるとは思うが、あの連中はそこまでの事情を知らない――言うつもりもない――からな。

「は――」

 ただただ感心したようにそんな声を上げているエレオノーレに、バカにしたような目を向ける。

「殺しを否定しつつ戦争に介入するなら、頭を使えよ」

 エレオノーレは何か言い返したそうな視線を向けてきたが、結局口は動かなかった。

 だから俺が会話を続ける。

「まあ、その一つ目の巨人ポリュペーモスは、ポセイドーンの子だったので、ポセイドーンに嘆願しオデュッセウスの故国への帰還を邪魔するんだがな」

 え? と、解っていない顔をしたエレオノーレ。

「逆恨みされてるかの確認だ。が、あの男はそれを指摘しなかったからな。まあ、こっちが退いても、変にちょっかいは掛けてこないだろうよ」

 エレオノーレはすっかり手助けするつもりになっていたが、あくまで選択権はこちらにあることの確認だ。

 つか、戦時中に俺達に嫌がらせする余裕があるとは思えないが、金持ちは変なところで突っ掛かってくるしな。

「更に言えば、その後、セイレーンの海を切り抜ける話もあるが、その際、セイレーン達はオデュッセウスを惑わせなかったことを恥じて海底へ沈んでいる」

「…………」

 エレオノーレは、もう完全についてこれていない顔で沈黙している。が、それに構わずに俺は話し続けた。一度始めた解説を中途半端にすると、なんだか気になって仕方が無いから。

「味方にしようと足掻くよりも、すべきことがあるんじゃないか? 引き込めずに海底に沈むかもよ、という問題提起」

「政治は難しい」

 半ば以上は諦めているエレオノーレの顔。

「一言で終わらせるな。剣の腕以外のものも磨け」

 拳を振り上げ殴りつける真似をすると、エレオノーレは頭を両手で押さえて縮こまった。

 フン……。

 まったく、この女は矛盾ばかりだ。

 戦いたくないと言いつつ厄介事に首は突っ込むし、殺しの技以外の特技も無い。

 ただ、そんな女と一緒にいる俺自身が一番不可解、か。

 上手く表現できない気持ちのまま、ほう、と、短く太く息を吐いて見上げた夜空。月は無く、その分強く星が瞬いていた。

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