Wasatー10ー
立ち上がった途端、顎を蹴り上げられて仰向けに吹っ飛ばされた。追撃の踵を横に転がって逃げると、その先に回っていた別の男から腹を蹴られた。
腹の奥が痛む。内臓に少なからぬダメージを受けた。呼吸がおかしい。喉が痙攣するような感覚がして、胃液だけが吐き出された。
――なんだこれは?
突然の事にそう思った途端、意識が身体から弾かれ、どこか遠くからその場面が見えた。
ボロボロで汚れはいるが元は絹の高そうな着物を着た少年と、それを取り巻く底意地の悪そうな顔をした大人達。そして……哄笑。
大理石の大きな屋敷は、少なくない奴隷によって維持されているはずだ。しかしながら主人の不測の事態に武器を取って助けに来るような者は一人としておらず、嵐を通り過ぎるのを待つかのように息を殺して物音を努めて立てまいとする気配だけがあった。
――所詮、言葉を話すだけの家畜に、親父の言うように情をかけたのが間違いなんだ。手前の命しか考えられない負け犬。そんな連中にどんなによくしてやったところでいざという時に頼りになることなんて、決して、無い。
輪の中心でなぶられている子供は、まだ表情の憎しみは深くなかった。突然の事態に対しての、戸惑いが多く含まれている。そして、しばらく耐えれば助けが来る……なんて、そんな甘いことを考えていそうな顔だ。
――嫌になる。反吐が出る。あれが……かつての俺だったなんて。
今見れば、抜け出す隙もいくらでもあるのに足掻くことを最初から諦めている。戦う術が無かったわけじゃないのに、得物を取ることもせずに慈悲なんてクソの役にもたたない感情に期待している。
そもそも、祖父の謀殺で色々なことが分かっていたのに、いつかくると分かっていた瞬間への準備を怠っていた。なんとかなる、なんて楽観的なお坊ちゃん思考で。
目の前にある現実だけが全てだというのに。
完全に無抵抗になった子供だった俺。降りかかる暴力は止む気配を見せず、ああ、もうすぐ死ぬのかな、なんて考え始めたその時。当時の俺の教育係だった中央監督官の一員でもあるレオが訪れ――すがるような目で伸ばされた子供の頃の俺の手を無碍に払ってから蹴飛ばし、気絶させた。
次に俺の目が覚めた時には、レオの肩に無造作にかつがれていた。
昔、厳しく文武を教え、休日には遊び相手になってくれた広く大きな背中が、今は冷たい。
それが、少しだけ……いや、自分に嘘を突かずに言うなら、当時はすごく悲しかった。実務が忙しく余り顔を合わせられない祖父や父よりもレオといた時間の方が長かったから。
――今にして思えば、それがレオが俺に与えた最後の優しさで教訓だったように思う。信じれば、裏切られるということへの。
レオは短くは無い時間そのままで歩き続けた後、少年隊の鍛錬場の前に無造作に俺を棄て『独りで生きていけなければその命にはなんの価値も無い』と、冷たく吐き捨てて振り返る事無くその場を去った。
そして、その言葉が最後だった。これまで現実だと信じ込んでいた虚飾の玉座の。
これで助かったと甘いことを考えていたバカなガキは、それから本当の地獄を知ることになる。
生き抜くために殺すこと。生き続けるために、殺し続けること。誰かのためじゃなくて、自分のために他人を犠牲にする技術をひたすら磨き続けること。
強くなるにしたがって、過去の甘い考えや穏やかな日常の記憶は消えていった。奴隷を狩る権利を得た後は、人を殺すのに忙しくて昔を思い出すことなんてなくなっていた。
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