Celestial sphere カクヨム改稿版

一条 灯夜

ムーサへの祈り

ー1ー

 あの男の事を語ってください、女神ムーサよ。

 焔のように熱く、激しく、儚く、煌めき……けれども、この地より去ってしまったあの男の話を。



 思わず笑ってしまったのは、気が触れたからではない。

 似ていると思ってしまったからなのだ。あの男がワタシと出会う前に住んでいた部屋は、この都市で最も狭いこの塔の牢獄よりも狭かった。無理にふさわしい部屋に放りこんだら、広い部屋は気が休まらんと、不貞たような顔をしていたっけ。

 ……結局は、そういうことだったのかもしれない。

 あの男のプシュケーが目指す場所を、ワタシ達は本質的に理解していなかった。闘争という個性が強すぎて、他の色を隠してしまっていたのだ。

 多分、最初は自然と、そして、最後には意図的に隠し――あげくに、逃げあがった。まったく、どうしようもないヤツめ!

 そして、あの男の本心に気付いていた……。かもしれないのが、あの女だというのは皮肉でしかない。

 ……そうだ。ワタシは――、いや、ワタシとあの根暗女だけではなく、王の友ヘタイロイはみな、あの男を求めていたのだ。大王が死した後、その混乱を収めるのはあの男しかいないと知っていたから。

 だから、大王も『最も強いものがこの帝国を受け継げ』と、最後に言い残したのだ。

 それを、あのバカは……。


 すっと目を細める。

 人が四人横になれば埋まってしまう程の牢獄は、小綺麗ではあったが天井は低いし、床や壁にはヒビが走っている。そもそも塔は戦闘のために一時的に建てられるモノで、居住性なんてあったもんじゃない。これでもまだましな方だ。

 横たわっているのはもはや傷口から血さえ流れ出ない夫の死体だけで、見張りの兵士は、さっき縄と短剣とドクニンジンを差し入れた。

 ここを生きて出られることはないだろう。

 ワタシは敗れたのだ。

 だが後悔はない。

 戦うことも、ワタシ自身の王国を求めたことも、なにもかも――あの男の影響があったにせよ――自らで決めたことだからだ。


 狼狽えてどうする。ワタシはワタシの人生を生きたのに。


 嘆いてどうする。なにが変わるわけでもない。


 泣いてどうする。ワタシは負けていない。


 ただ……、少しばかり運に見放されただけだ。

 ……いや、運ではないな。

 あの男をしっかりと捕まえておけなかったのは、ワタシの落ち度だ。


 ふぅ、と、短く嘆息し、するべきことを順序だてて考える。

 まずは、夫の亡骸だ。そのままでは、王としての見栄えが悪い。泥や血を布で拭って清め、着衣を整えさせ、自分自身もきちんと身なりを整える。髪を編み、それを頭に回して冠とし、正装する。身だしなみに隙があっては笑われる。

 すべてが終わった後、見張りの兵士に正面から向かい合い――。


「オリュンピアスにワタシと同じ運命が訪れんことを」


 長くなれば、見苦しくなる。ワタシは今もワタシ自身の王だ。

 さあ、潔く済ませよう。

 縄を窓枠に結び付け、もう片側を輪に結んでそれを首に掛けると、すぐさま飛び降りる。

 春を告げる西風ゼピュロスが唆すように強く吹き抜けるから、誰にも聞こえない今、その名を小さく囁いてしまったのだ。



 ――あの男の事を教えてください、女神ムーサよ。

 ――最早、この時を逃しては知りえないのです。

 ――あの男の心が、どこにあったのかを。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る