P.S. 理想の少女と白と黒
あれから1週間、上谷樹貴は未だに落ち込んでいた。通りを歩きながら、無意識に呟く。
「……彼女持ちに負けた」
「こんにちは!」
そんな時に、突然後ろから声をかけられて樹貴はビクゥッと飛び上がって振り向いた。
「……か、彼女」
「はい、良太の彼女です」
少し首を傾げながら微笑んで江藤真由は言った。樹貴は基本的に陰キャなので、眩しすぎると思った。
「ぼ、僕に何か用ですか?」
「はい。もっといい絵を良太が描いたので、上谷さんに見てもらおうと思って」
意味がわからなかった。いや、言葉の意味はわかるけれど、意図が読めなかった。
「……傷口に塩を?」
真由はその言葉に答えずに、にっこりと笑って樹貴の手を握った。
「さあ、こっちですよ!」
「やわっ!?」
手を引かれるまま連れて行かれた先は、桜ノ丘に数ある学生アパートのひとつだった。真由がポケットから取り出した鍵で扉を開ける。樹貴の心臓が跳ねる。
「ここってもしかして……」
「はい、良太の部屋です」
その返答に樹貴の膝がカクッと折れた。
「彼女さんの部屋じゃないのか……」
「私の部屋はこの上ですね」
そういいながら、慣れた様子で入っていく。少し浮かれたところから地に落とされたテンションを引きずりながら樹貴も続いた。
(というか、普通に合鍵持ってるんだな)
第三者が自分を見たら嫉妬の黒いオーラが見えるんじゃないかと樹貴は思った。樹貴も他人のことを言えた立場ではないが、部屋は散らかっていた。その中心に、イーゼルに乗ったキャンバスがある。布がかけられていて何が描かれているかは見えない。
「これが、見せたい絵?」
「はい」
そういいながら真由は布をゆっくりと引き上げた。
目に飛び込んできたのは、金髪の美少女だった。描いた覚えがある。自分の絵だ。しかし、ただの模写ではない。確かに描き上げはしたが、どうにも納得がいかなかった部分、まぶたの角度やパーツのバランスが“正しく”なっている。自分の絵を他人に『完成』させられるという経験は、樹貴に鳩尾を殴られるような衝撃を与えた。しかし、この絵は“萌え絵”ではなかった。
金髪の美少女の首のあたり、身体を大きく曲げながら、仕上げのひと塗りをする上谷樹貴がそこには描かれていた。それだけではない。通りをあるく人たちや、ビルの壁の角も描かれている。つまりこれは、桜ノ丘の一画を描いた絵だった。
「あなたは知らないかもしれないですけど、良太が得意なのは風景画なんです」
言葉にさえしていない樹貴の反応を見て、真由は自慢げにそう言った。
「……あなたの方が可愛かったと思うけど」
樹貴は、ほとんど苦し紛れだが正直な反論をした。もっといい絵と言っていたけれど、自分を敗北させたあの“彼女の絵”の方がクオリティは高かったと樹貴は思った。それは、明確な敗北宣言ではあったのだけれど。
「それはそうですよ。良太は私が大好きですから」
あまりに正面からのろけられて樹貴は全身の力が抜けそうになった。でも、と真由は続ける。
「あの絵は大好きなものひとつに全てを賭けた絵でしたが、この絵は、大好きなものをたくさん詰め込んでいる。だから“もっといい絵”なんです。それは桜ノ丘であり、そこに住む人々であり、あなたが描いた女の子であり……」
「そこまでだ」
突然の背後からの声に振り向くと、この部屋の主人が不機嫌そうに腕を組んで立っていた。太田良太は頭をかきながら、大きくため息をついて言った。
「真由、勝手に人の作品を見せるなよ。完成してたからいいものの、途中だったらはっ倒してたぞ。……上谷を」
「なんで俺!?」
「真由をはっ倒すわけにはいかないからだよ。当たり前だろ」
「あら、ラクガキストは作品の完成未完成なんて細かいことを気にしないと思ってたけど」
真由は気にした風もなく、しれっと答えた。それから、何が面白いのか堪えるように笑った。2人が疑問符を頭に浮かべていると、笑いはだんだんと大きくなり、とうとう声にだして笑い始めた。唖然とする良太に、樹貴が耳元で尋ねた。
「なあ、あんたの彼女って、天使?」
良太はいらだった様子で答えた。
「あ?いまさら気づいたのかよ」
「なに?樹貴くんなんて言ったの?」
真由が良太の腕にじゃれつくようにしがみついてたずねた。
それ以降、上谷樹貴が描く女の子が黒髪である割合が増えた。
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