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一週間くらい経った日の夜、業務終わりにかほちゃんと創作イタリアンむなしにご飯を食べに来た。街の中心部にあるとても雰囲気の良いお店で、よく二人で訪れている。ここのアマトリチャーナは絶品である。
「おつかれー」
「おつかれさま」
私は赤ワイン、かほちゃんは白ワインを嗜む。彼女曰く赤ワインは飲むとすぐ眠くなるからあまり飲まないとのことである。この渋みが良いというのに! 私は赤ワインであれば浴びるようにいくらでも飲めると自負している。いつか赤ワインを比喩ではなく本当に浴びるのが私の夢であるが未だ他の人から賛同を得られたことはない。
「この前はすごい勢いでお店を出て行ったけど、あのときは大丈夫だったの?」
「その節はご心配をおかけしました。おかげさまで事なきを得ました」
「それなら良い。決意を胸に走っていく姿、いつもの五割ましでカッコよかったよ」
「五割増しって。なかなかリアクションに困るなあ」
「ほら、どっちかというとハルは可愛いというより格好良い系じゃない?」
「えへへ、そうかな」
髪型がショートカットで服装もラフな格好をすることが多いため、かわいい系ではないことは自分でもわかっている。今日も白ティーシャツにショートパンツという出で立ちの私である。動きやすいのが一番。
「かほちゃんはどっちかといわずともかわいい系だよね」
「え、ぜんぜんそんなことないよお。私なんか路傍の石ころに等しき存在だよお」
大げさな身振り手振りのわざとらしい返答が帰ってきた。例えがよくわからないが、全くあざとさのない、かほちゃんのこういうところが好きだ。
私はいつものようにアマトリチャーナを、かほちゃんはむなし特製シェフの気まぐれシチリア風ビーフストロガノフを食べながらお互いの職場の話から恋愛トークに至るまで話に花が咲きに咲いた。かほちゃんは美人で性格も良い(と私は思う)のになぜか彼氏がずっといない。
「いやー募集中なんだけどね」
「きっとすぐできるよ」
「病院の薬剤部に誰かいい人いない?」
薬剤部の部員を思い浮かべた。年上の方々はすでに結婚している人ばかりであるが、後輩の面々はどうなのだろう。今度聞いてみよう。先輩は彼女がいないはずだがかほちゃんと合うかと言われると合わなさそうな気がするためちょっと紹介するのはためらわれるが……。
「んー……、いないかな」
「え、いまの間はなに? いるんでしょう、わたしには全てお見通しでございますわよ」
図星を突かれた。
「今度機会があったらね」
「ぜひともよろしくお願いしますわよ」
変な言葉遣いは酔っているためなのか素なのかよくわからない。
そうこうしているうちに二人とも食事を食べ終わった。
「どうする?」
かほちゃんがニヤリとしながら言った。たぶんデザートを食べるか否かの提案であろう。
「お腹は八分目くらいだね」
「でもなーまた太っちゃうかもしれないしなー」
「いや、ここのデザートはヘルシーだから」
「では食べますか!」
即答であった。
メニューを見て散々悩んだ結果、私はクランベリーパウンドケーキのクリーム増し増し、かほちゃんはグレープフルーツタルトのクリーム増し増しを注文した。
「やはりクリーム増し増しだよね」
「もちろんですぞ。クリーム無きデザートなどデザートにあらず」
かほちゃんはやはり少し酔っているようだ。
ほどなくして二人のデザートが到着した。
「くはーやはりグレープフルーツは最高だぜ!」
かほちゃんはしかめっ面をしてそう唸った。
「そう? わたしはすっぱくて苦くてちょっと苦手」
「この苦さが良いのではないか。お主はまだ子供よのお」
「赤ワインは渋いって言うくせに」
「それはそれ、これはこれ。うんうん」
「薬との相互作用も多いし。この前もワルファリンを飲んでいる患者さんがグレープフルーツを食べたいって言ってたからやめてもらったんだよね」
この前のことを思い出した。
「おーやるじゃん。さすが」
「へへへ」
褒められると嬉しいものだ。
「まあ、ハルの食べてるクランベリーも相互作用結構あるけどね」
「え、そうなの? 知らなかった」
「お、知らないのかね? 有名どころではフェニトインとかジアゼパムとか、これらはCYP2C9の基質となる薬剤ね」
「へえ」
「あとはー」
まだあるの? 柳田さんの飲んでいる薬じゃありませんように。
なぜか嫌な予感がした。
「ワルファリンとか」
頭をたらいで殴られたような衝撃が走った。柳田さんはワルファリンを服用している。
「そ、そうなの? まあ大したことはないんでしょ?」
祈るように尋ねた。
「いや、確か死亡例も出ていたはずだよ。えーとほら、これこれ」
かほちゃんはスマートフォンでそれについて調べて画面を見せてくれた。10年以上前のものであるが国立医薬品食品衛生研究所から発行されている医薬品安全性情報であった。
●Warfarin クランベリージュースと相互作用の疑い
INRの変化や出血に至った相互作用の疑いが1999年から8件報告された。患者の死亡が一症例、INRの増大や出血が四症例あった。死亡例において、それまで安定したINRを示していた患者が六週間クランベリージュースを摂取した後、50を超えた(治療域2.0〜3.0)。患者は消化管出血および心嚢内出血で死亡した。
飛ばし読みだが、だいたいこのような内容であった。INRというのは簡単に言うとワルファリンの効果を示す指標である。記事に書いてあるようにワーファリンを飲んでいる患者ではだいたい2.0〜3.0とか1.5〜2.5とかになるようコントロールすることが多い。50はその適正値を大幅に超えているためワーファリンの血をさらさらにする作用が過剰に効きすぎている状態と言える。一言でいうとヤバい。私もここまでのは見たことがない。
まさかクランベリージュースも医薬品と相互作用があるなんて。
違うウェブサイトであるが他にも果物と薬との相互作用があるものがないか調べてみると、どうもぶどうもワーファリンと相性が悪いらしく、出血を助長するらしい。
どうでもいいけど「どうもぶどうも」ってちょっと語呂が良い。
「えっとね、りんごとブドウとクランベリーとみかんと梨と、あとグレープフルーツね」
柳田さんの発言がフラッシュバックした。
目の前がクラクラする。グレープフルーツという見せかけの正解に辿り着いたせいで、ほかの選択肢があるという可能性を考えてもみなかった。迂闊だった。初日に先輩に言われたように一旦持ち帰って調べるべきだった。
未熟だ、わたし。
行かなきゃ。あれから一週間くらい経っている。
「かほちゃん、私……」
「うん。え、うそでしょ? まさか……」
「行かなきゃ!」
「やっぱり! ここから病院まで結構あるよ」
「大丈夫!」
「なら良い、走れ少女よ。こころのおもむくままに」
颯爽と駆け出していた。かほちゃんごめん。そしていつもありがとう。お金はまた今度払います。
時刻は夜の八時過ぎであった。たしか就寝時間は九時のためまだ柳田さんも起きているだろう。明日でも良い気はしたが、見えない何かが私の体を中から突き動かした。走れ、と。
線路沿いの道路をただひたすらに走った。夜風が心地よい。
走りながら、幼少期のことを思い出していた。よく弟とミステリードラマを観ていたっけ。
「わかった! 犯人は家政婦、間違いない! 凶器に指紋が残っていたのが証拠」
「ねーちゃんはばかだなあ。それはあからさまに引っ掛けじゃん」
「絶対そうよ。私ってば探偵の素質あるみたい。ほら解決編始まるよ」
『犯人は……わたしだ。凶器の指紋はカモフラージュだ』
「がーん、そんなことってある? 犯人が探偵って」
「ヒントあったしおれはなんとなく気付いたけどねー。ねーちゃんはわかりやすい引っ掛けにすぐ引っかかるから」
そうだ。わたしは昔からそういうところがあった。今と何も変わっていない。
変わらなきゃ。変わらなきゃ。くそったれ。
私だって。
三十分くらい走っただろうか。ようやく病院が見えてきた。苦しい。
職員入り口に駆け込んだところで先輩とすれ違った。
「おお貴嬢、どうしたのかね。またなにか気になることでもあったのかい」
「クランベリーです!」
「そ、そうか、クランベリーか。それは良い」
「詳細はまた!」
それだけ言い残し先輩の元を走り去った。
流石にこの時間はエレベータが空いており、すぐに降りてきた。
病棟に着いたが、なにやら騒がしい。
夢で見た光景と全く同じである。嫌な予感がした。脈が速くなる。
仲良しの看護師すーさんが近くにいたので聞いてみた。
「すーさん。何か、あったんですか?」
「あら、まだ帰ってなかったの。いやね、661号室の」
柳田さんの病室だ。
まさか。
「山下さん、せん妄になっちゃって。帰らせろって騒いでる」
「……よかった」
「いやよくないでしょうよ。とりあえずナースステーションに連れて行く」
柳田さんではなかった。ホッとして良いのかは微妙だがひとまずホッとした。
山下さんがナースステーションに移動した後に、661号室に向かったところ、柳田さんが驚いた表情でベットに座っていた。紙ジュースを飲んでいる。
「柳田さん」
「まあ薬剤師さん、こんな時間に。いやーびっくりしちゃったね」
「そうですね」
「私も帰りたくなるとき多いから気持ちわかるわあ。家が一番」
「間違いないですね。柳田さんになにかあったのかと思って焦りましたよ」
「私? 私はなにもないわよ。いつも通り。ほら、この前息子から果物もらったじゃない。それでもともと好きだった果物がさらに好きになって。今まであまり食べたことなかったんだけど、特にクランベリーがもう美味しくって。それを息子に話したら、クランベリーのジュースをたくさん持ってきてくれてね。もう毎日がぶ飲みしてるの。ほら、今も飲んでた。この前薬剤師さんがダメって言ってたグレープフルーツは食べてないし、ばっちりね」
手にしている紙ジュースのパッケージにはクランベリー100パーセントと書かれている。冷や汗が出た。私の不用意な発言のせいで患者さんに悪影響を及ぼしている。責任の重さを再認識した。
「あ、あの実はですね。調べたところ、クランベリーもワルファリンとの飲み合わせが悪いということが判明いたしまして……」
「え、そうなの? でもあのときは問題ないって言ってたじゃない?」
「あのときはクランベリーと相性が悪いとは知らず、憶測で問題ないと答えてしまいました。大変申し訳ありません」
「……そうなのね。びっくり。いいのよ、私のために調べてくれたってことでしょ。知らなかったわー。まあ大したことはないんでしょ?」
死亡例もあるとは言えなかった。
「そうですね……いま、何か以前みたいな変化はありませんか」
「うーんと、特になにも変わったことはないかしら。おかげさまでぐっすり寝られてるのよ」
「それは良かったです。ほかに血が出やすくなったりとかはしてないですか? 鼻血とか歯茎とか」
「そうね……言われてみれば、なんかね、以前に比べて鼻をかんだら鼻血が出やすかったり、歯磨きしたらすぐ歯茎から血が出たりするのよね。そんなすごくってわけじゃないから、気のせいかもしれないけど」
鼻血や歯茎からの出血はワーファリンが効きすぎているわかりやすい指標のうちのひとつである。クランベリージュースとの相互作用で薬効が過剰に出ている可能性はある。
「そうなんですね。申し訳ないのですが、ひとまずクランベリージュースはお休みしていただきたいです。それで血が出やすくなっているのが収まるかもしれません」
「血が出やすくなっているのはこのジュースのせいかもしれないってわけね。果物もあなどれないわね。わかった、もう飲まないようにするわ。棚に入れておく」
「本当にすみません。また来ますね」
ナースステーションに戻り、自分のパソコンを開いた。
院内の端末パソコンであれば、どこからでも電子カルテを開くことができる。素早くクリックし、柳田さんのカルテを開き、検査値フォルダの一番上に表示されている最新の検査値を確認した。
PT–INR、ワルファリンの効果を示す指標である検査値は2.0と正常値であった。
良かった。大丈夫だった。
いや、そうであれば血が出やすくなっているといっていたのはなんだったのだろう。本人の言うように気のせいなのだろうか。気にしてなくてもいいだろうか。
そう思いながらふと最新の検査値の日付を確認すると、かなり前の日付であった。これは柳田さんが入院した時に採られた採血だ。それから三週間は経過している。
当てにならない。いますごく悪化している可能性だって大いにある。
クランベリージュースでの死亡例の記事が頭にちらついた。
検査を依頼しなくては。主治医の森先生はいつも夜遅くまで残っているらしいが、いま電話しても大丈夫だろうか。怒られるかもしれない。あまり電話したくはない。明日でもいいだろうか。しかし一刻を争うかもしれない。柳田さんのことを思うと電話せずにはいられなかった。
院内の電話番号帳から森先生の番号を探し、電話をかけた。10コールくらい鳴っただろうか。出ない。もう帰ったのかと諦めかけたときにコール音が途切れた。
「はい」
出た。聞くからに不機嫌そうな声であった。自己紹介をしても反応がない。
「夜分遅くに申し訳ありません。いま大丈夫でしょうか」
「大丈夫じゃないけど、なに?」
「柳田さんの件で、入院時依頼血液検査が採れらていません。INRの変動も気になりますし、検査を依頼したいのですが」
「ええ、なんで?」
「ワルファリンを服用していると思いますが、最近鼻血が出やすくなったり、歯茎から血が出やすかったりするらしくて」
「そんなのよくあることだろう。入院時採血では問題なかったし、特にそれから状態変化していないから」
「で、でも、クランベリージュースもたくさん飲んでいて」
「は? なに言ってるのかわからない。いま何時だと思っている。忙しいから」
一方的に電話を切られた。
なんでそんなに機嫌が悪いのかと思ったが、たしかに言い方が悪かったかもしれないしこんな時間に検査依頼するべきではなかったのかもしれない。
「なに? 薬剤師さんもしかしていま森先生に電話したの?」
椅子に座って途方にくれていたら、鈴木先生がニヤニヤしながら話しかけてきた。どうやら当直で他患対応のために来棟していたらしい。
「そうです……」
「めっちゃ落ち込んでるじゃん。ウケる」
手を叩いて笑っている。なにがそんなに面白いのだろう。
「いやー最近森先生この時間は大抵論文を執筆していて、あまり上手くいっていないらしくて期限も近いらしく機嫌が悪いのよ。おれらもめったなことがなければ接触しないようにしてるし」
「そうなんですね。でも森先生日中でもいつも機嫌が悪いような気がします」
「それは一理ある。まあ患者を想ってのことなんじゃない? 知らないけど」
また手を叩いて笑っている。
「元気だしなよ。彼はいつもああだから、一々落ち込んでたらきりないぜ」
「こっちが丁寧に話してるのにぶっきらぼうに対応されると落ち込みます」
「まあそこは当たって砕けろだ。なにも暇つぶしで電話したわけじゃないんだろう。なにか伝えなきゃならないことがあって、落ち込むの覚悟で電話したんだろう? 君は間違ってない」「たぶん」
たぶんかい。でも少し元気が出た。医者がみんな鈴木先生みたいだったらいいのに。
「ありがとうございます。とりあえずどうするかまた検討します」
「がんばれー今度飲みに行こうぜ」
「前向きに検討しますね」
「それ行かないやつ」
鈴木先生はサッと立ち上がりどこかへ消えていった。たぶん医局に戻るのだろう。フットワークが軽い。
とりあえず、推測ではあるがクランベリージュースにてワルファリンの作用が増強されていたのだとしたら、摂取をやめることで作用は徐々に元に戻っていくだろう。そう考えると緊急性はないかもしれない。そう思うことにした。
夜も遅い。これ以上なにも起こらなければいいが、と思いながらその日は帰路に着いた。
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