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私の住んでいるマンションは勤務先の病院から徒歩で十分以内にある。今日は欲しい薬もあったため、最寄りのドラックストアに寄ってから帰ることにした。
くすりのハルツ。北海道では一番有名なドラッグストアである。大学時代の同級生のちほちゃんが働いている。最近なにやら昇進したとのことであった。
「ちほちゃん」
入り口の自動ドアをくぐって右側にあるOTCコーナーで白衣を着た女性、それがちほちゃんであった。ショートヘアかつものぐさな私と違って髪も長くてつやつやしてるしなんというか大人の女性といった雰囲気が漂っている。
「あらあ、ハル。久しぶりじゃない。元気にしてた?」
「悪くはないけど、良くはないって感じかな」
「なにそれ」
「言ってみたかっただけ」
「今日はどうしたの? うちに来るなんて珍しいじゃん」
「いや、ちょっと風邪気味な気がしたから葛根湯でも買おうかなと思ってさ」
「なるほど、大学時代から漢方好きよね」
私は漢方薬が大好きである。うまく説明できないが、古き良き薬っていう感じがしてもっぱら愛飲している。特に葛根湯は数多の風邪から私を救ってくれた最強の漢方薬だと信じてやまない。
「そうね。とりあえず葛根湯ひとつと……」
ふと健康食品コーナーが目に入った。一角を占めており数えきれないほどの種類がある。こんなに出ているんだ。知らなかった。
「これ全部健康食品なの? すごい数だね」
「そう、また最近健康食品ブームが来ているらしくてさ。各社もう作りに作ってるって感じ。これがまた売れるんだわ」
「へえ、漢方薬のほうが効くと思うけどねえ。うわ、知らない名前のがたくさんある。ノコギリヤシとかはたまに入院の患者さんが持ってきてるなあ」
「ほら、かの有名なセントジョーンズワートもあるよ」
「出た」
セントジョーンズワート。薬学生、薬剤師なら誰しもが知っている名前。なのであるが実体を見たことがある者は少ないだろうと思われる稀有な存在。私も見たことがないし、何に使うサプリメントなのかも実はあまり知っていない。
ではなぜそんなに有名なのかというと、とにかくいわゆる飲み合わせが悪い薬がサプリメントのなかでダントツに多いからである。
機序としては体の中には薬物を代謝する酵素が色々存在しているのだが、その中でもチトクロムP450(CYP450)という酵素の活性を誘導する、つまり酵素が薬を処理する効果をどんどん強くして薬の効果が無くなるのを早めてしまうのである。一緒に飲むと薬の効果が落ちてしまうため、確か国からもいろいろな薬で併用に関して注意喚起がなされていた気がする。
「これって結構買う人いるの?」
「そうね、結構とまではいかないけど、根強い人気はあるみたいね。なんでもストレスの改善とか不安の軽減とか更年期障害とかうつとか、寝つきを良くする効果もあるとかないとか」
「相互作用めっちゃ多いじゃん。なんか買うときに飲んでる薬について聞いたりする?」
「いや、第一類医薬品とかじゃなくて普通のサプリメントだから、特に聞いたりはしないなーいつ買われていくのかもわからないし」
「まあそうだよね。みながみな併用に問題のある薬を飲んでるわけでもないだろうしね。」
「そうね。薬剤師としては必要以上にヒヤヒヤしちゃうけど。あとは……サプリメントのほかにハーブティとしても売っているからそれも買う人が多いかな」
「そっか、もともとはハーブのひとつらしいしね。美味しいのかな」
言いながらふと病室の光景が頭を過ぎった。
ハーブティ。ティ。お茶。紅茶。
柳田さんは最近よく紅茶のようなものを飲んでいる。
入院したころは飲んでなかったような気がする。
もしかして、もし、あれがセントジョーンズワートだったら。
持参薬で併用禁忌の薬あったっけ? そもそも何が併用禁忌なんだっけ?
へんな汗が出てきた。
別に、もしそうだったら緊急事態というわけではないだろうが、薬剤師として当然考えるべき点を見逃していた自分に対してもどかしさを感じた。
やばい、行かなくちゃ。今も飲んでいるかもしれない。止めなくちゃ。
「かほちゃん! ごめん、私行かなくちゃいけない!」
「おお? また何か思いついたの? 昔からいつもハルは突然思いつくねえ。葛根湯は買わないでいいの」
「いい!」
「そうか、なんかよくわからないけどがんばれ少女よまた会おう」
気付いたら駆け出していた。外に出ると辺りはすっかり暗くなっていた。
走りながら柳田さんの薬について考えた。
彼女がいま飲んでいるのはワルファリンとサムスカとランソプラゾールと……頭上に薬品名が現れ傍らをびゅんびゅん通り過ぎていく。
セントジョーンズワートと併用してはいけない薬も国家試験の勉強である程度覚えたはずだ。頭の中の引き出しを漁ったところ、奥にほうにしまわれてあった。
エスゾピクロンはおそらく大学時代まだ販売されていなかったためかわからなかったが、類薬であるゾピクロンはCYP450の基質であったはずだ。そうであればゾピクロンのS体であるエスゾピクロンも多分CYP450の基質であり、セントジョーンズワートと併用することで代謝が促進されて効果が減弱しうるだろう。そのため今まで寝られていたけど寝られなくなったというのは一応理にかなっている。
突然、「息苦しくなることが多いかしら。リハビリ頑張っているからかしらね」という柳田さんの発言がフラッシュバックした。彼女は喘息で吸入薬に加えテオフィリンを服用している。頭上に浮かんでいるテオフィリンという文字が赤く点滅している。そうだ、テオフィリンはCYP1A2の基質であるが、セントジョーンズワートはCYP450のほかにCYPP1A2も誘導する。そのためテオフィリンの代謝も誘導し血中濃度を低下させてしまう。これは確か添付文書の併用注意の項目にも載っていたはずだ。そのせいで息苦しくなるようになったというのであれば納得がいく。
胸のモヤモヤはこれだったのか。今はモヤモヤの代わりにドキドキが胸を覆っている。
同時に、ワルファリン、サムスカなど他の薬の名前も同じように点滅していた。それらもまたセントジョーンズワートとの併用で血中濃度が下がってしまう薬であった。いわゆる血をさらさらにする薬であるワルファリンは効果が落ちると血栓ができてしまい脳梗塞など危険な状態にも繋がりうるだろう。
そんなことを考えながら走っているうちに病院の入り口に着いた。ちょうど先輩が帰宅するところだったようですれ違った。
「おお貴嬢、どうしたのかねこんな時間に」
「ハーブティーですよ!」
それだけ言ってびゅんと傍を通り過ぎた。先輩はぽかんとした表情を浮かべていた。先輩にはまた明日説明しよう。
六階までのエレベータはこの時間なのですぐに到着した。
「柳田さん!」
「あら、薬剤師さん。どうしたの、まだ帰ってなかったの?」
昼間と変わらず紅茶を飲んでいた。息切れする胸を抑えつけ、ゆっくりと尋ねた。
「その紅茶、なんていう、名前ですか」
こんな時間に必死の形相で紅茶の名前を尋ねる私に柳田さんは驚いた表情を浮かべた。それもそうだろう、側から見れば意味がわからない。
「え、ええ? この紅茶の名前? ええと何だったかしら。これを飲むとなんだか心が落ち着いて不安がなくなっていく気がするのよね。確か、なんとかかんとかなんとかって名前なんだけど」
「セントジョーンズワート、ではないですか?」
「なんとかかんとかなんとか、セントジョーンズワート。ああーそんな名前だったかしら。最近息子が買ってきてくれたのよねー。眠れるようになる効果もあるらしいんだけど、あんまり寝られてないね、まだ効果に時間がかかるのかしら。でも落ち着くから良いのよー。それで、この紅茶がどうがしたの?」
やはりそうであった。悪い予感というのは的中するものだ。
「あのですね、最近寝られなくなっているというのはまさにその紅茶のせいかもしれません」
「え? 紅茶のせい? どういうこと?」
「そのハーブティはたしかに精神を安定させる効果や寝付きを良くする効果があるとされています。実際、柳田さんは飲むことで心が落ち着いているとのことなので、その効果が出ているものと思われます。ただ、それには飲み合わせが悪い薬がとっても多いんです」
「飲み合わせ? 薬じゃないのに飲み合わせが悪いとかあるの? ただのお茶よ」
「ええ、飲みものや食べものも薬との飲み合わせが悪いものも中にはあるんです。セントジョーンズワートは飲み合わせが悪い薬の効果を落としてしまう、効きにくくしてしまう作用というのがあり、いま柳田さんが飲んでいる眠剤とも飲み合わせが悪いです。それで眠剤の効果が出にくくなってしまったため、眠りにくくなっているんじゃないかと思われます」
「寝付きを良くする作用もあるのに?」
「たしかに寝付きを良くする作用もありますが、その効果は先生が処方してくれる医療用医薬品のほうが強いです。なので、結局トータルとしての効果はセントジョーンズワートを飲むことでマイナスになったのではないでしょうか」
「そうだったのね」
「さらに、眠剤だけではなく、柳田さんがいま飲んでいる他の薬とも相性が悪いものがたくさんあります。特に血をさらさらにする薬とも相性が悪いのでこのまま続けていると最悪血の塊ができて詰まってしまうという可能性もあると思います。本当に最悪の場合ですが」
「まあ怖い。良かれと思って飲んだ、しかも薬ではなくお茶のせいでこんなことになるなんて」
「セントジョーンズワート自体は古くから親しまれている良いハーブティなのだと思います。ただ、柳田さんみたいにたくさん薬を飲んでいる人は飲み始める前に是非、薬剤師に確認してほしいです」
「そうするわ。薬剤師さんありがとう。これで今日は寝られるかしら」
「まだセントジョーンズワートの効果が残っているかもしれないのでわからないですが、いくらかは寝られるんじゃないでしょうか」
「それを期待するわ。これは息子から貰ったものだからもったいないけど捨てることにするわね」
セントジョーンズワートがゴミ箱に捨てられたのを確認して安心し病棟を後にした。外から駆けてきて良かった。
これにて一件落着。
このときの私は安易にもそう思っていたが、事態はそんなに簡単ではなかったことに後に気付かされることになる。
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