第1章 併用注意の薬とは
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「それでね、この糖尿の薬なんだけど、食直前って袋に書いてあるんだけど、ほかの薬と一緒にご飯の後に飲んじゃダメなの? 食事の前はつい忘れちゃって」
ボグリボース。αグルコシダーゼ阻害薬。食事由来の二糖類を単糖類に分解する酵素であるアルファグルコシダーゼの働きを抑えて、単糖、いわゆるブドウ糖の吸収を抑えることで血糖の上昇を防ぐ薬だ。食事由来の血糖上昇を防ぐため食事の後に飲んでは意味がなくなってしまう。
「この薬はごはんに含まれる糖分が体に吸収されるのを抑える作用があります。ごはんを食べた後だと間に合わなくなってしまうので、食事の直前に飲んで欲しいんです。先生とか薬剤師がそのような説明してませんでした?」
「そう? あーたしかに言ってたかもしれない。忘れてたわー。まったく私ったらすぐ聞いたこと忘れちゃってもう困ったものねえこの前も朝の薬を飲んだのに数時間後に飲んだかどうか不安になってもう一回飲んじゃって低血糖でふらついて倒れそうになったけどちゃんとそこは薬剤師さんに言われた通りブドウ糖をばっちり食べたらことなきを得たってわけ、あこれは先生には秘密ね山本先生普段は優しいんだけど飲み間違ったとか飲み忘れたとか話したらすぐ怒るから怖いのよね。あなた普段お薬飲み忘れたりとかしない? まあ薬剤師さんだから飲み忘れたりはしないわよねいいわねえ若いって私も若いときは記憶力はいいほうだったんだけどいつのまにかこんなに忘れっぽくなっちゃってなんか記憶力良くなる薬ない? ないかあそんなのあったら世界中でバカ売れだものねあなたいつか作ってよねそれでなんの話だっけあそうそうじゃあ頑張って忘れないようにごはんの直前に飲むようにするわね」
と、老年の女性は喋るだけ喋って納得して帰っていった。さらっと血糖降下薬を倍量服用して低血糖になったことを告白されたがそのまま何も言わないで良かっただろうか。本人も間違ったことは分かっていたからいいか。
このくらいなら、調べなくてもいけるな。先輩の助けがなくても大丈夫かも。
一安心した。
いまの女性で三人目であるが、どれも簡単な相談だったので即答することができた。
今日のお昼は何にしようかな。などと考えていると、見たことのある女性が向こうから話しかけてきた。
「あら、薬剤師さんじゃなーい。ここが例のなんでも相談室? ちょっと相談したいことがあって」
「あら、柳田さん。どうしたんですか?」
柳田さん。彼女は私の担当病棟の患者である。検査入院とのことだが、もう長いこと入院している。基本的にはいい人だが、思い込みが激しいような印象がある。とりあえずここはなんでも相談室ではない。
「いやね、たいしたことじゃないんだけど。入院中、今までは毎晩ぐっすり寝られていたんだけど、最近になって急に寝られなくなったのよね。何か原因があるはずと思って先生に聞いてみても何も問題ない、気のせいの一点張りで。私としては絶対なにか原因があるはずだと思っているんだけれど。看護師さんに聞いても入院中は環境が変わったりあまり体を動かさなくなるから寝られなくなる人がよくいるのよって言われたけど、今までは寝られていたし、日中も病棟を歩くようにして、リハビリの先生とも一緒に運動してるからそれではないと思うの。そこで、ほら私結構薬飲んでるじゃない。何か最近新しく始まった薬の影響とかずっと飲んでる薬との飲み合わせとか悪いものがないかなと思ってちょっと薬剤師さんに聞いてみようと思って」
なるほど。たしかに入院中に不眠を訴える患者はたくさんいる。私も自分の部屋のベットじゃないと寝られないため気持ちはわかる。そこまで大きな問題ではないように思うが、患者の希望もあるため併用薬については確認しておこう。たしか入院時に確認したときには特に変なところは無かったはずだが。
「わかりました。また後で病棟に行くのでそのときにお薬の飲み合わせについて確認したいと思います」
「わあ、助かるわあ。もしなんかわかったらすぐ教えてね」
柳田さんは笑みを浮かべ病棟に戻っていった。
さて、戻るか。所定の時間を終えたため病棟に行くことにした。
当院では一つの病棟につき一人の病棟薬剤師が配属されている。主に入院患者が持参した常用薬の鑑別・登録や処方となった薬の配薬、服薬指導、医師や看護師からの質問応需など意外とやることがたくさんある。私は一年ほど前から消化器内科の病棟に配属となっている。一つの病棟にベットが三五床あるため一人で最大三五人分の薬を管理、把握しなければならず結構忙しい。他職種からは当然薬剤師は患者の薬についてすべて知っているものと思われている、ような気がしている。
消化器内科病棟は六階である。病棟に行くと、自分の机に処方となった薬が山積みになっていた。いつもの光景であるためそこまで驚きはしないが、ややげんなりする。柳田さんの薬は一旦後回しだ。薬もただ配れば良いというものでもなく、本当にその薬を飲んで大丈夫なのか、他の薬との併用に問題はないかなど確認すべき項目は多い。新人の頃にはよく上の人に「え、その処方そのまま通しちゃって本当にいいの?」とよく言われ、涙目になりながら調べたものだ。いまもだけど。
610号室の山本さんには胃薬が出ていた。山本さんは早期胃癌の内視鏡手術目的の入院だが、胃癌の内視鏡手術後は胃薬が二種類ルーティンで処方となる。だが、そもそもそういった患者は既に胃薬を飲んでいることが多いので得てして重複してしまうことが多い。同じ胃薬を重複して飲むことに意味はないだろうし、むしろ副作用が出てしまう恐れもあるため、処方となった分は医師に連絡して中止してもらう。
今回もやはり処方となった胃薬二種類のうちのひとつが持参して毎日飲んでいる薬と重複していたため、来棟していた主治医に連絡し、処方分は中止となった。
疑義照会。「薬剤師は処方内容に疑わしい点があった場合には処方した医師に問い合わせてそれを解決するまで調剤してはならない」といった旨の、薬剤師法第24条にも記載のある薬剤師の重要な仕事である。先ほどの鈴木先生は若い先生であり薬剤師の話もちゃんと聞いてくれる。
「あのー鈴木先生、山本さんに出た薬なんですけど」
「あ、もしかしてまた胃薬被ってる? ランソプラゾール? あちゃーじゃあ処方分、中止しときます」
といった感じでとても話しやすい(少しチャラいが)。
当院は消化器内科だけで医師が二十人近く在籍している。研修医や若い医師は比較的こちらの話を聞いてくれるが、年配になるにつれてあまり話を聞いてくれない医師が増える傾向にあるように思う(あくまで傾向であり年配でも話をきちんと聞いてくれる医師もいる)。柳田さんの主治医も話を聞いてくれいない年配医師のうちの一人で、何を言っても「それでいいです」とだけしか返答がないことが多く、極力あまり話したくない。
このことを先輩に話すと、
「まあ、疑義照会とは、ひいては人生とは得てしてそういうものであろう。話しやすい先生ばかりであれば気楽だがそういうわけでもない。だけれど、仮に間違った処方が出たときに先生怖いからいいやとスルーしたらそのまま患者さんが飲んでしまう。注射なら投与されてしまう。そうしたら最悪、死んでしまうこともあるかもしれない。言い過ぎではないよ。そういうわけだから、そういったときに患者さんを救えるのは自分しかいないって考えたら、ちゃんとしなきゃって思うことがよくある。それもまた人生である」
と、深いような深くはないような人生論でいつも返される。
それはそれとして、山積みになっていた薬もようやく片付いてきた。気分転換に柳田さんの薬について検証しよう。
柳田さんの病室に行くと、すでに自分が飲んでいる薬をテーブルに拡げていた。
「あ、やっときたー待ってたのよ」
「すみません、たくさん仕事があって。これがいま飲んでいる薬全部ですか?」
テーブルには薬が山積みになっており今にもこぼれ落ちそうだ。
「そうそう、多分入院したときと一緒だと思う。多分ね」
「ちょっと確認しますね」
こぼれおちそうな薬をざっと確認した。病棟薬剤師は入院患者の持参薬を鑑別するのが一つの仕事であり、柳田さんの薬ももちろん種類ごとに一つ一つ数を数えて、電子カルテに登録していた。そのためだいたい内服薬については把握しているはずである。ワルファリン、フロセミド、スピロノラクトン、サムスカ、テオフィリン、エスゾピクロン、ランソプラゾール、アトルバスタチン、などなど合わせて十種類以上の薬を服用しており、テーブルに出された薬も入院時と変わらなかった。
「うーん、そうですね。入院のときと変わらないですね」
「そうでしょうそうでしょう」
「眠剤を飲んでますが寝られないのですね。入院前は特に問題なかったのですか」
エスゾピクロンは眠剤である。最近の流行りだろうか、持参薬で飲んでいる入院患者が多い。
「ああ眠剤ね。これを飲むともーばっちり寝られるのよ。逆にこれがないと寝られないけどね。入院してからも変わらず飲んでて最初の頃は寝られてたんだけど、なぜか最近寝にくくなって」
「飲む錠数とかは変わらないですか?」
「それはもう一回一錠で飲むように言われているからちゃんと守ってるのよ」
「同じように飲んでいるのに寝られないのですね」
「そうなのよー。飲み合わせとかは問題ないのよね。いっそ別の眠剤を出してもらおうかしら」
併用是非については入院時に確認したが、特に大きな問題となる点はなかった。
「それもいいかもしれないですね。ほかにも何か気になっていることはありませんか?」
「んー強いて言えば最近ちょっと息苦しくなることが多いかしら。リハビリ頑張っているからかしらね。病棟も自分で十周くらい歩いてるのよ」
「それはいいことですね」
「そうでしょうそうでしょう。眠剤はもう少し様子をみて耐えられなさそうだったら先生に変更してもらうようにお願いするわ。話聞いてくれてありがとうね」
そのまま病室を後にした。入院中寝られなくなり眠剤をあれこれ試す患者は多い。今回もその対応でいい気もするが、何かはわからないがわずかに胸に引っかかるものを感じた。
「と、いうことがあったんですけど、先輩どう思いますか?」
薬剤部に戻り、机に座ってのほほんとしていた先輩にさっきの件について聞いてみた。
「うーむ、妙だね。突然原因不明の不眠に陥るマダム、その真相やいかに」
「ふざけないでください」
「すまないすまない。ただ、貴嬢の言う通り入院中は環境の変化やらなにやら要因が重なり寝られなくなるという患者さんはけっこう多いからなあ。そんなに問題視することでもないとは思わるるよ」
「やはりそうですかね。そうであれば私のこの心のモヤモヤはなんなのでしょう」
「ぬぬ、恋煩いか。そうにちがひない」
「ふざけないでください。私はマジメです」
「すまぬすまぬ。まああるときふとしたきっかけでモヤモヤが晴れるという話もよく聞く。しばらく胸にモヤモヤを留めて思う存分モヤモヤしてヤキモキすると良いぞ」
「ヤキモキしたくはないのですが……。薬の相互作用も問題なかったですし、そこまで薬剤師の出る幕ではないのでしょうか」
「ほう、薬は全部調べたのかね」
「全部調べましたよ。調べても問題ありませんでした」
「病院から出てる薬以外にも?」
「ん、つまりどういうことですか?」
「患者さんが薬を得ることができる場所はなにも病院だけではない。薬局やドラックストアなどではいつでも薬を手に入れることができる。それこそ風邪薬とか痛み止めとか、そうそう、健康食品とかもね」
OTCや健康食品については確認していなかった。特に健康食品は患者さんは薬だとは思っていないことが多いため、薬の確認の際にも出してくれないことが多い。その反面、薬との相互作用は無視できないものがあるため注意が必要だよと、以前先輩から教えてもらったことがあった。
「すぐに確認してきます」
病棟に向け駆け出した。薬剤部は地下一階にあるが、消化器内科病棟は六階にあるため移動は普段はエレベータを利用している。しかし、患者さんも使用するエレベータであるためなかなか来ない。じれったい、が六階まで階段を登るのはたいへん疲れるためおとなしくエレベータを待ち六階に上がった。
「え、ドラックストアで買った薬とか健康食品とかは特にないわよ。ねえ、サトル」
柳田さんは紅茶を飲みながら微笑んでいる。どうやら息子さんが来ており談笑していたようだ。息子さんは二十代前半といったところか、今時の若者といった風貌をしている。
「そうですか……ご歓談中に失礼しました」
当てが外れた。やはり薬は関係ないのだろうか。それはそれで良いことなのだが。しょぼくれてその日は帰路についた。
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