空は、海

畠壮

空は、海

凪沙なぎさ、早くしないと、ほらうしおがもう待ち切れないってさ」

「もう母さんおそーい! 兄ちゃんの〈虹かけ〉が見れないよっ!」

「ごめんっ! いま、いま行く! 全力で行く!」

 玄関先で待ちきれず身体を揺すっている娘の手を握りながら、潮幸しおゆきは空を見上げた。

 雲一つない初夏の空は、どこまでいっても青一色で、波のない海のようだ。風もなく、日差しもそれほどきつくない。どうやら今日は、お祭り日和。〈虹かけ〉の成功率は、ぐんと高まるだろうけれど、息子の凪人なぎとは緊張しやすい質だから、今頃は、先輩方に囲まれながら落ち着かない様子で出番を待っているに違いない。きっと爪、噛んでるなあ。

 その光景が目に浮かぶようで、思わずにやついていると、凪沙が慌てて家から飛び出してきた。

「お待たせっ! それじゃ、行こっか!」

 揃って町中へと歩きだす三人は、色鮮やかな浴衣で身を飾っていた。からんころんと鳴る下駄の音が、楽しげに彼らのあとをついていく。

 ここは、緩やかな山々に囲まれたのどかな田舎町だ。津々浦々の田舎町がそうであるように、若い奴より年寄りのが多い。コンビニだって一軒しかない、そんな町だ。

 町の中心部を走る大通りで、祭りは開かれる。

「やっぱり、毎年のことだけど、人が多いわね……。うっわ見てよ、しおくん。HHKが懲りずに来てるわあ。他に撮るもんないのかなあ? 鬱陶しい」

「それは言い過ぎだろ。でも、たしかにこの人だかりの中で、あんなでかいカメラとか構えられると邪魔くさいよな」

 屋台が軒を連ねる大通りは、地元の人はもちろん、観光にきた家族連れやカップルで賑わっている。不用意に手を動かせば、他人の身体にぶつかってしまうような混雑具合だ。

 その人の波の中、黒い機材を抱えた数人の男たちが、屋台を見てまわるわけでもなく、道の真ん中に突っ立っていた。HHKの撮影班たちだ。彼らは三人で、道の真ん中に三脚を立ててカメラを構え、準備万端といった感じで〈虹かけ〉が始まるのを待っているようだった。

 人の流れが彼らを避けるように二分され、また合流していく。通りすがる人々の中には、明らかに眉間にしわを寄せ、彼らを睨んでいく者もいた。

「あれ、絶対HHKに苦情入るわね」

「そうだな。何様なのか知らんけど、最低限のマナーは心得て欲しいもんだな。揉め事に発展しても嫌だし、できるだけ近づかないようにしよう。――どれ、潮は何か食べたいものとかあるかー?」

 潮幸は、屋台がよく見えるように潮を抱き上げてやった。

 すると限界まで潮が身体を捻り、父の顔から必死に遠ざかろうともがいた。

「やめてよ父さん。そのヒゲ、うしおに移ったらどうすんの? 移すなら兄ちゃんにしてよ。それにうしおはもう、抱っこされる年じゃないの」

 じろっと睨まれ、潮幸は苦笑した。なぜか潮は、ヒゲが病原菌か何かだと信じており、顔を近づけるとこうなるのだ。小学生になってから、家で三十分だけ使用許可を出しているタブレットをいじって、ネットに書かれていたことを鵜呑みにしたのだろう。

「こーら。父さんになんて口の利き方をするの。謝りなさい」

 凪沙が叱ると、潮はむーっと膨れっ面になったが、すぐに非を認めた。

「うぅ、ごめんなさい。――でも、そのヒゲは勘弁して」

「ヒゲは移らないんだけどなあ。ま、潮のヒゲに対する疑いが晴れるのを待つよ」

 そう言って、潮の身体を下ろしてやると、娘はぱっと潮幸の手を取って、ぐいぐいと引っ張った。

「ねえねえ、父さん。あれ、あの〈鯨飴くじらあめ〉が食べたいっ」

 娘が熱心に指差す先に、鯨の形をした棒付き飴が売られていた。他の屋台から流れてくる、串焼きなどの香ばしい香りに混じって、かすかな甘い香りが漂ってくる。

「好きだなあ、潮は。――凪沙、いいか?」

「はーい、私も食べたいでーす」

 三人で〈鯨飴〉を買って、屋台の後ろに回った。人気の少ない場所を見つけ、そこに陣取ると、凪沙と潮がさっそく飴を舐めはじめた。ソーダ味に微かな塩けが加わったその独特な甘さに、二人して頬をゆるめている。

 潮幸は、何年かぶりに食べる鯨飴を見つめた。

〈鯨飴〉といっても、これはただの鯨ではない。口や胴体など、大方の部分は鯨とたいへん似通っているのだが、胸びれともいえる前肢が鳥の羽のようになっており、尾びれも同じく鳥類を思わせる。

空鯨そらくじら〉と呼ばれ、その名の通り、こいつは空を飛ぶ鯨だ。日本の固有種で、鯨とは違い、鳥類に分類されている。かつては動物園に行かずとも、ちょっと田舎へ足を伸ばせば見ることができた。全長六メートルほどもある巨体がゆったりと空を舞う姿は堂々たるものである。しかし、都市化が進むにつれ、次第にその数を減らし、いまでは積極的な保護が叫ばれるまでになってしまった。

 ぺろっと舐めてみると、懐かしい味が、じわっと口の中に広がった。

 ――こりゃあ、海の味なんだよ。

 子供の頃、初めて鯨飴を食べたとき、父に言われた言葉だ。山に囲まれた田舎町で生まれた子供たちは、もちろん海を知らない。潮幸もそうだった。いまのようにネットを自由に扱える時代ではなかったから、鯨飴が、遠い海の味なんだと信じて育った。思えば純粋すぎたのかもしれないが、友人と初めて海を訪れたとき、海の水を舐めてみてびっくりしたのを覚えている。

 そのときには、父さんはもう亡くなっていたから、この味には懐かしさやら寂しさやら、いろんな思い出が詰まっていた。

「しおくん? 何ぼーっとしてんの?」

「え? ああ、ちょっと懐かしくってね。――よく、父さんが鯨飴は海の味なんだぞって言っていたのを思い出してさ」

「へえ、そりゃまた、誰も信じないようなほらを吹いてたんだね」

「……」

「ええっ? 嘘でしょしおくん? 純粋すぎない?」

「いや、ほら、子供たるもの純粋であるべきって思ってたんだよ、きっと」

「そんなん思ってる子供は逆に不純じゃない?」

 うん、まあ、そんな気もする。でも、

「いい父さんだったんだ、ほんとに。この町からだと海、すっごく遠いだろ? 貧しい家だったから海に子供を連れていける暇もなかったし、道路だってよく整備されてなかったんだ。けれど俺が、初めて〈虹かけ〉の練習をしたときだよ」

〈虹かけ〉は、空鯨の背に跨って空を飛び、頭部の鼻孔に水をかけ、はたきで叩いて促した水しぶきで、空に虹をかけるという、豊穣を願うこの町の伝統行事だ。虹は、天の神との約束の徴で、虹がかかれば約束は果たされ、実り多き年になり、かからなければ不作の年になるといわれている。

 十歳から三十歳までの若い衆で行われ、特に先頭を飛ぶことになる最年少のものは、貢物となる〈献上歌けんじょうか〉も吟じなければならないため、乗馬ならぬ乗鯨訓練が欠かせない。その最年少が自分だった。

「仕事で忙しいはずの父さんがいきなり来て、『初日だけは俺が教える』って言ってさ。一緒に空鯨の背に乗って町を見下ろしたんだ」

 今日とよく似た青い空に、鯨と父と自分だけ。初めて、空鯨に跨って、空を飛んでいるんだという実感は不思議となかった。まだ雪を頂く、雄大な山々に抱かれた小さな町。何気ない日々を暮らしている、あの小さな町と、いま父と二人で漂っているこの空は、まったく一つの塊であり、これから先もずっと、自分の胸に抱きつづける故郷なのだと、背に父のぬくもりを感じながら、そう思った。

 ――そうだぞ、潮幸。ここが、故郷だ。

 鯨の胴体に巻き付けた手綱を握る、父の手がすごく大きかったのを覚えている。

 ――天の神との約束とか、そんなのは考えなくていい。

   空鯨の舞う空は、海だ。

   だからお前が、はじめて泳ぐ海が、この空だってことを誇りに思って欲し

   いんだ。

「空鯨の舞う空は海だ、なんてちょっと強引だけどさ。おかげで、この町が好きになったんだ」

「いい人だったんだね、しおくんの父さんは」

「ねえ、まだなの? 兄ちゃんの〈虹かけ〉は、まだなの?」

 飴をすっかり食べ終えた潮が、待ちきれないとばかりに凪沙の袖を引っ張った。

 凪沙が潮をなだめながら腕時計を確認する。

「あと、三十分ってところかな。あんまり慌てて出てこなくてもよかったかもね」

「鯨飴も食べれたし、何か他のものでも――」

 そのとき、誰かの怒号が聞こえ、潮幸は屋台の表の方を見やった。

 相変わらず通りは人であふれていたが、人々の頭の上にちらりと黒い機材が揺れたのを見て、何が起きたのか、およその察しがついた。

「このガキ! どこ見て歩いてんだよ! カメラが壊れたらどうすんだ、ええ!」

 怒号をあげているのは、HHKの撮影班の一人だった。肩から提げていた大きなカメラに、アイスクリームがべっとりと付いてしまっている。撮影班の中で怒っているのは彼だけで、他の二人はそれぞれ申し訳なさそうにしているか、ただ冷静に彼の行動を見守っているかだった。

 大人の男性に怒号を浴びせられ、完全に萎縮し、いまにも泣き出しそうになっている少年が、おそらく前を見ていなくて彼らにぶつかってしまったのだろう。

通行人たちが、心配そうに彼らを遠巻きに見守っている。潮幸は、人々の輪の間から、なおもカメラを持った男が少年に詰め寄るのを見た。

「パパとママはどこだ? あん? カメラってよ、坊ちゃん。とっても繊細なもんでな。壊れちゃったら、俺たち商売できなくなっちゃうんだよ、わかる? 壊れてたら弁償してもらわなきゃいけなくなるぜ?」

「に、西島先輩。そんな、子供に強く当たらなくたっていいじゃないですか」

 申し訳なさそうにしていた撮影班の一人が、おどおどと先輩格の男にそう進言すると、その西島と呼ばれた男が振り返り、ぎろりと後輩を睨みつけた。怒りの矛先が変わったらしい。

「おいおい、誰に口きいてるんだてめえは?」

「い、いえ、あの。僕は、なにも子供にそんな――」

「前を見てねえ奴が悪いに決まってんだろうがっ!」

 それにな、と西島は後輩の額に、人差し指をぐいと押しつけた。

「いったい誰のせいで、こんなクソも面白味のねえ片田舎に、つまらねえ行事の映像を二回も撮りに来なきゃならなくなったのか、わかってるか? てめえのせいだろうが! てめえが前回機材の点検怠らなかったらなあ、こんなとこに二度も来ずに済んだんだよ!」

 それを聞いた潮幸は、胸の底から怒りが湧いてくるのを感じた。

(抑えろ、抑えろ)

 そう自分に言い聞かせたつもりだったけれど、身体は勝手に前に出てしまっていた。

「あ? 誰だよ、なんか言いたそうだな?」

「……あんた、他の人の迷惑になっているの、気づいていないのか?」

「――迷惑?」

 西島は首をめぐらし、あたりを見た。周囲にいる人のほとんどが、非難がましい眼差しをこちらに向けている。

「……ああ、確かにちょっと、騒ぎを起こしちゃったみたいだな。悪かったよ」

 西島は肩を竦めてみせ、後輩の頭をひっぱたいてから、ハンカチを取り出し、しゃがみ込んでカメラを拭き始めた。必要以上に丹念に拭きながら、舌打ちしてる様子を見るに、どうやらここを退くつもりはないらしい。

「なあ、道の真ん中でカメラを構えるのはどうかと思うぞ。迷惑と言ったのは――」

「お前、この祭りの主催者か何かか?」

 こちらも見ずに、西島がぶっきらぼうに訊いてきた。

「いや、違うが、どう考えても道の――」

「おい、いいか?」

 西島がこちらの言葉を遮って、ぎろりと睨みあげてくる。

「俺らはなあ。ここの主催者の町長さんから許可もらって取材してんの。お前にとやかく言われる筋合いはねえよ」

「許可がどうこうじゃなくて、撮影する場所選びに問題があるって言っているんだ。あんたらがここに陣取ってなきゃ、この子がぶつかることもなかったし、あんたの大切なカメラも汚さずに済んだんじゃないのか?」

「面倒くせえな、お前。カメラマンの場所選びにケチつけるならよ、許可を出したときにでも言ってほしいもんだ。町長に道の真ん中で撮っちゃダメなんて言われてねえぞ?」

「常識ってもんがあるだろう。あんたは子供か? 立派な大人だろ?」

 そう言うと、西島はカメラを置いたまま、すっと立ち上がった。その目には明らかな怒りの色があった。

「……別に、一日中ここに居座るわけじゃねえよ。〈虹かけ〉の映像が撮れたらすぐに退く。それでいいだろ?」

 押し殺した声で、西島がそう提案しても、潮幸の胸にわだかまった怒りは治まらなかった。それどころか、怒りの熱は抑えようもなく膨れあがり、なおも図々しく居座ろうとする西島に向かって、その熱をぶつけていた。

「いいわけ、ないだろ。……謝れよ」

「あ? 今なんつった?」

「謝れって言ったんだよ。つまらねえ行事とかぬかしやがって……! あんたに撮影する権利もなければ、この町に来る資格もない! いいから謝れ!」

 かっとなりすぎて、周りの風景が白くぼやけたみたいになる。視界の中央で、西島の目が吊りあがり、激しい形相で掴みかかってきた。

「てめえ! 人が下手に出りゃあいい気になりやがって! 誰が謝るかよっ!」

 途端に取っ組み合いの大喧嘩になり、静観していた周囲の人たちが、慌てて二人に駆け寄っては、その腕を掴んだり、服を引っ張ったりして二人を引き剥がそうと試みる。てんやわんやの大騒ぎの端で、凪沙が潮を抱き寄せたまま、心配そうに事態の収束するのを見守っていると、

「そこまでだっ! 西島っ!」

 野太い大音声が響き渡り、その場にいた全員が動きを止めた。

 撮影班の一人で、静かに様子を見ていた男が、西島に近づいていく。西島のそばにいた人たちはそっとその場から離れた。

「……金井さん、俺は……」

 ぼそりと呟く西島の前まで来ると、金井と呼ばれた男は周囲の人たちを見渡し、潮幸に目を止めると、深々と頭を下げた。

「皆さん! この度は、私どもの手前勝手な行動により、大変なご迷惑をお掛けしまして、誠に申し訳ございませんでした!」

 その場の反応は冷ややかなものだったが、彼は頭を下げたままつづける。

「私は西島の上司の金井と申します。本日は、西島の進退を見定めるために、彼に撮影の一切を任せ、静観しておりましたが、ここまでの騒動になるとは、思っておりませんでした。ご不快な思いをさせてしまい、申し訳ございませんでした。この中で、怪我をされた方はいらっしゃいませんか?」

「いや、特に怪我とかしてないし、大丈夫ですよ」

「それより、もうすぐで〈虹かけ〉が始まるからさ、どっか行ってくれたほうが助かるよ。みんなそう思ってるんじゃないかな?」

 巻き込まれた人たちが口々にそう呟くと、金井はかしこまりましたと言って、部下に指示を出した。

「平松、機材を片付けて、撤収するぞ。――それと、西島。本社に戻ったら、わかっているな?」

「……わかってますよ」

 平松という後輩と一緒に、てきぱきと機材を片していく西島の表情は、どこか不満げで、結局潮幸には目もくれずにその場を去っていった。

 騒ぎが収まり、祭りの賑やかなざわめきが戻ってくる。

 まだその場に残っていた金井が、潮幸に近づき、頭を下げてきた。

「これほどの騒動になるまで傍観していたこと、重ねてお詫びいたします」

「いえ、私も少し冷静さを欠きました」

 顔をあげた金井が、困ったような笑みを浮かべて、頬を掻いた。

「西島についてですが、あれでいて、カメラの腕前は相当なものなんですよ。昔から、気性が荒くて、礼儀を弁えなくって、幾度となく正そうとしたんですがね……」

 すっと細められた金井の目には、諦念めいた光が浮かんでいた。

 では、いつまでもいてはご不快な思いをさせるだけですので、失礼いたします。

 そう言って金井は一礼してから去っていった。

「しおくん、あんまり子供っぽい喧嘩はダメだよ?」

 潮の手を引いた凪沙がそばにきて、潮幸をひじで小突いた。

「抑えようとはしたんだけどさ。――あんなこと言われたら、やっぱ抑えられないよ」

 誰だって、故郷を馬鹿にされるのは、嫌なものだろう。たしかに凪沙のいうとおり、ぐっと堪えるのが大人の対応だったかもしれない。けれど、虹掛けが行われる日に、外からきた人間に馬鹿にされたというのが、潮幸にとっては到底我慢ならなかったのである。

 ため息をこぼす潮幸の服を、ちょんちょんと潮が引っ張る。

「なんだ? 潮?」

「ねえ、あの怒ってた人、明日には手からヒゲが生えてくるわ。だって父さんの襟首掴んだときに触れちゃってたもん。ヒゲに。きっと後悔してると思うわ」

「ぷふっ、そうね。ジョリジョリして手洗いするのに苦労するわね」

「だからヒゲは移るもんじゃないってば」

 なごやかな笑いが、三人を包む。潮幸の心はもう随分と軽くなっていた。

 そのとき、大通りに影がさした。おっ、と思って顔をあげると、ふたたび太陽があらわれ目がくらんだ。慌てて手で庇をつくると、空には無数の黒い影が舞っていた。V字の編隊を組み、ゆったりと漂う影は、見慣れた鯨の形をしていた。空鯨だ。

 大きく弧を描きながら降下してくる空鯨の群れを、人々は喜びの声とともに迎えた。

 空鯨は、扇子の形をした長い尾で宙空をあおぎ、通りの正面から泳いでくる。屋台や民家の屋根上近くをゆく彼らの背には、はっぴ姿の鯨乗りたちが、水の入った容器を背負い、手綱を握って跨っていた。

「あっ! 見て! 兄ちゃんだ!」

 先頭の空鯨に跨った凪人が、緊張した表情で、編隊を人の歩行速度ぐらいに減速させる合図をだしている。小さな手が振られ、後続の空鯨たちの速度が落ちた。

「おお、上手いうまい! ちゃんと乗れてるじゃないか」

「もう、本当に、……あっという間に成長しちゃうんだから」

 手綱を手放した凪人が、空に向かって両手を差し出すように伸ばし、〈献上歌〉を吟じはじめる。

〈献上歌〉は、旱魃に苦しむ人々のために、空鯨の背に跨って、天界へと旅立った一人の青年の物語を歌っていた。神と約束した虹をこの空にかけ、旱魃を救う雨を見事に降らした一人の鯨乗りの物語を。

 わずかに震えのある、けれど精一杯吟じる凪人の声は、彼を見上げる人々の間に沁み渡り、それぞれの胸に、どこか清廉な思いを灯していく。

 やがて献上歌を吟じ終えたころには、凪人たちは通りの最後にまで達し、ふたたび上空へと舞い上がっていく。

「ずっと、つづけばいいな」

 ぼそりと呟いた潮幸の声に、凪沙が彼の手を取って応える。

「そうね。ずっと、ずっとね」

 見上げる先、凪人の合図で一斉に吹き上げられた水しぶきが、大空に、美しい虹をかける。恵みの徴、約束の虹。大昔にかけられた虹は、いまも大事に引き継がれ、この町の象徴として輝きつづけている。

 この光景が、ただ、つづいていけばいい。

 空鯨の舞う、この空のように。

 父が海と呼んだ、この空のように。

 大役を務め終え、降下をはじめた息子が、人々に拍手を送られながら、安堵した笑顔を浮かべてこちらに手を振っている。

 潮幸も、笑顔で手を振り返してやった。

 成長した息子の姿に、じん、と目の奥があつくなった。

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空は、海 畠壮 @hatanotakeshi

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