Chap.9-2

「わかった。一平、男でも出来た? 男が出来るとだいたいみんなソワソワするものね」

 とリリコさんが言う。

「ウソ、そうなの一平くん?」

 ユウキが驚く。僕はため息をついた。

「根拠もなく、何でそういう結論になるんですか」

「根拠ならあるわよ」

 リリコさんがテーブルに無造作に投げられていた郵便物から一枚の絵葉書を取って、指先でピラピラとさせた。

「なんです、それ?」

「へえ、キレイな虹の写真だねえ。町並みがちょっと薄暗いけれど」

 ユウキがソファから立ち上がって覗き見る。虹を写真に撮るなんて、相当技術が必要なことだ。

「拝啓、一平くん元気にしていますか」

 リリコさんが急にそんなことを読み始めたので、びっくりした僕は慌てて絵葉書を奪い取った。戦場カメラマンの源一朗さんから送られて来たものだった。タカさんの周年パーティーで知り合い、今はまた仕事のために海外へ戻ってしまったのだが、この二ヶ月くらいの間に何枚か絵葉書を送ってくれていた。

 雨上がりの写真。散りぢりになって流れ去る厚い雲の隙間から陽光が差しこんで、瓦礫の町に大きく虹がかかっていた。灰色の空にかかる虹をひとりの少女が見上げている。後ろ姿なので顔はわからない。あまり小奇麗とは言えないすすけた色のワンピースを着ていた。もともとは真っ白な服だったのかもしれない。現地に住んでいる女の子なのだろう。

「素敵な写真じゃない、これ?」

 リリコさんがニヤニヤとする。

「ちょ、ちょっと勝手に見ないでくださいよ、人のもの!」

「勝手に見るなと言われても、こんな堂々とテーブルの上に置かれていたら、見ないほうが難しいわねえ。これゲンイチから送られて来たんでしょ?」

 リリコさんは源一郎さんのことをゲンイチと呼ぶ。

「そうですけど……」

 スマホのメッセージやメールではなく、自分の撮った写真で源一郎さんは絵葉書をくれる。郵便受けに届いた光熱費の口座振替通知やダイレクトメールに混ざり、テーブルに放置してしまった。

「やっぱりねえ。周年の時、怪しかったもの、あんたたち」

「リリコ姐さん、それどういう意味?」

 ユウキが眉をピクピクとさせた。

「一回くらいやっちゃってるって意味よ。ステディな関係でもなければ、わざわざこんなの送って来ないでしょ」

「ちがう、ちがう! ちがいます。そんなんじゃないんですから」

 慌てて否定をしたものの、ユウキは目を丸くして棒立ちになってしまうし、リリコさんはしてやったりの顔つきだしで、とうとうタカさんまで、

「なるほどなあ。俺のとこに写真なんて送ってきたこと一度もないもんな」

 と言い出すしまつ。

「そんなんじゃないなら、いったい何なのさ?」

 ユウキが疑いの視線を向ける。

 源一朗さんのことは格好いいと思うし、僕を気に入ってくれているとも思う。だからこそ、タカさんやリリコさんの大事な友人のひとりとして、僕は源一郎さんに接しているつもりだった。タカさんのお店が火事になってしまい大変な時に日本にいれないことを源一郎さんは悔やんでいた。僕にできることは、絵葉書が届く度にお礼も兼ねた近況報告をメールで返すことだった。

「根無し草のゲンちゃんにもいい人ができれば、もうちょっと落ち着いてくれると思うんだがなあ」

「タカさんは、僕に港で船乗りを待つ女みたいになれっていうんですね」

 わざとタカさんから目をそらして、ちょっとケンのある声を出す。

 あの日……、雨の日に僕の手を握り返してくれたタカさん。その手の温もり、少し乱れた息づかい。雨が止みませんようにと願った。ぎゅっと握り返してくれたことの意味に、僕は期待をしてしまった。だけど……もうこの世にいない人がライバルなんて、どうしたらいいのかわからないのも事実なわけで。会ったこともない死んでしまったタカさんの恋人に、僕は「ズルイよ」と小さく嘆いたのだった。

「戦場にも虹はかかるんだね。あたり前のことだけどさ」

 絵葉書を手にしたユウキがぽつりと言う。源一朗さんから送られてきた写真に、人物は女の子しか写っていない。だけど、その瓦礫の町には人々が営んでいる気配があった。ニュースで流れて来るような凄惨さを前面に出したショッキングな映像ではなく、戦地にも虹はかかるといった僕たちの日常ともつながっている光景。最近考えることが多すぎてオーバーヒート気味だった頭の中にも、鮮やかに七色の架け橋が延びてくるように感じられた。

 周年パーティーのときに源一郎さんが話してくれたことを思い出す。

『ほんの少しでいい。写っている人のことを、その土地のことを想像してくれたら。興味本位でもいい。世界の人がちょっとずつ想像をして、自分の人生に重ねてくれたら、きっと何かが変わると思う。ソマリアや中東は変わらなくても、その人の手の届く範囲の人たちがきっと幸せになるはずさ』

 漠然と源一郎さんの言葉が繰り返される。

「ねえ、いっぺいくん」

 チャビがこちらを見上げる。ビーズクッションを引きずって来て、いつの間にか僕の足下で携帯ゲームをしていた。

「ホンモノの虹って、見たことある?」

「虹? ああ、あるよ。まあ、数えるくらいしかないけどね」

 おぼろげではあるものの、幾つか虹の光景が記憶にある。雨上がりの公園や高校の通学路、修学旅行で行った日光、華厳の滝にかかった七色の光。電車の車窓から見たビルとビルの間にかかった虹が、特に印象に残っていた。それこそ山手線に乗っている時に見たのかも知れない。

「ボク、ホンモノの虹って見たことない。死ぬ前に一度くらい見てみたいなあ」

 チャビが縁起でも無い言い方をした。

「死ぬ前って、チャビはこの中じゃ一番若いでしょ。いつもゲームばっかして部屋に閉じこもってるから発想が暗いのよ。外に飛び出せば虹なんてすぐに見れるわ」

 酔っ払ったリリコさんがチャビをたきつけた。

「そういうリリコさんは見たことあるんですか? リリコさんが外に飛び出すのはたいてい夜でしょ」

 チャビに代わって援護射撃をしてやる。

「あるわよ、虹くらい。そうねえ……校庭のスプリンクラーにかかっているのとか」

「それ、ホンモノの虹って言える?」

 ユウキがプッと吹き出した。

「うるさいわね。虹は虹よ」

 僕はどちらかというと校庭のスプリンクラーという発言から、リリコさんの学生時代を想像してプッと吹き出しそうになった。きっと今とあまり変わっていないのだろう、リリコさんのことだから。

 源一郎さんが送ってくれた絵葉書のおかげで久しぶりにみんなと普通に話せたような気がした。この数週間、ずっとギクシャクとしていたから。どうしたらいいのかは、わからないままだが、もう少し肩の力は抜いてもいいのかもしれない。

 タカさんが雑誌から顔を上げた。

「虹は『さあ、見よう!』と思って見れるものでもないからなあ。急にかかるんだよ、虹は。俺の故郷は、竹富島というところだが、夏には激しいスコールに見舞われる島でね」

 タカさんが遠い記憶をたどるように、ぽつりぽつりと生まれ故郷の話を始めた。自然と僕らの意識もタカさんの話す景色に見せられていった。

 沖縄の竹富島は八重山諸島の一部で、すぐお隣の石垣島の方が観光地としては有名だが、沖縄の原風景の残る島として最近注目を集めるようになった。ただ、タカさんが住んでいた頃は、めったに観光客の来ることのない島民中心の暮らしだったのだという。

 スコールの後、島に現れる途方もなく大きな虹の架け橋は、エメラルドグリーンの海から伸び、島の上空を大きく横断して反対の青い海の底に消えていく。懐かしそうに話すタカさんの言葉の端々から虹の様子だけではなく、夏の気配や草の香り、赤茶けた瓦屋根に並ぶシーサーや砕けた珊瑚の白い砂道、ガジュマルの木や真っ赤なブーゲンビリアを渡る島風、背後に広がる大きな空と雲の存在を感じた。

「よく、のんびりと牛車に揺られて近くの浜まで出かけたよ。別に何をするわけでもないんだ。時間はたっぷりあったからね」

 目を閉じたタカさんが懐かしそうにそんなことを言う。十代の頃のタカさんはまだちょっとだけ身体の線が細くて、真っ白なTシャツとハーパンから突き出した浅黒い両足を牛車に腰掛けてぶらぶらとさせている。そんな様子を思い描いた。

「知ってる、それ。竹富島の牛がでっかい糞してるのテレビで見たよ」

 ユウキの言葉にタカさんが苦笑いする。

「すごいでかかかっただろ? いやいや糞じゃなくて、水牛の方だよ。食用の牛やホルスタインではなくて、本物の水牛なんだ。節の大きな角と太い蹄を持っている」

 タカさんの思い出話を聞きながら、僕らは離島にかかる大きな虹のイメージに包まれていた。七色の光。ふと洗面所に並ぶハブラシを思う。ひとりひとり違う色のラインが入っている。僕はオレンジ色で、ユウキは黄色、タカさんは青、リリコさんは赤、チャビは緑色。みんなその色が好きなのかどうかもわからない。だが、自然と色で誰のハブラシか識別するようになったのでいつも同じ色のものを買ってくる。まるで虹のようだと思っていた。トイレから出た時や、風呂場の戸口からでも洗面所の鏡越しにその色彩はよく目についた。思えば、ハブラシのレインボーカラーは、見た目も性格もてんでバラバラの僕らが共同生活をしている象徴のようなものかもしれない。

「いつかみんなで虹を見に行けたらいいなあ。タカさんの生まれ故郷に」

「ほんとね」

 ユウキのつぶやきに珍しくリリコさんが同意をする。虹を見たことがないと言うチャビはずっと眩しそうにタカさんの話を聞いていたし、タカさんの目にも暗い色はなく、虹を望む明るさが宿っていた。

 虹を見に行こう。

 それは近い将来に実現しそうな、僕らのささやかな約束に思えた。

 ただ、ひとり。僕だけがタカさんの話に途中から集中できないでいた。虹、レインボーカラーのハブラシ。七色の色彩がチカチカと脳裏にチラついて、僕の思考を惑わせる。何かがわかりかけていた。

 以前、感じた違和感の正体。停電の夜のこと。鏡に映ったひげ短髪の幽霊。その可能性に思い当たり、僕の身に衝撃が走った。激しい雨の中で、カミナリに打たれたように。見慣れた洗面所の光景、リリコさんの乳液剤やプロ仕様のドライヤー、鏡の前に並ぶレインボーカラーのハブラシ達。その日常的な風景に黒い大きな染みが広がり、滲みだした大きな人型が、僕に覆いかぶさって来た。

「どうしたの? いっぺいくん……なんか顔色が悪いよ?」

 チャビが心配そうに僕の顔を見上げていた。

 目眩を覚えた。

「やだ、どうしたの。真っ青じゃない」

 そう言うリリコさんの声が遠のく。

「すみません……ちょっと貧血かも」

 こんなことがあっていいはずがなかった。

 心配をして駆け寄って来たタカさんを思いのほか強く押し返してしまう。

「ちょっと横になれば大丈夫ですから……本当に」

 救急車を呼ぼうかというタカさんを手の平で制する。ユウキの肩を借りて、自分の部屋へ何とか足を進めた。

 こんなことが真実だとしたら。こんなことが本当だとしたら……もう迷ってはいられなかった。何とかしないと、きっともっと取り返しのつかないことになってしまう。

 ――寝不足かしらね。それとも……やっぱり最近ずっと様子がおかしかったから、何かあったのかしら。

 ふすま越しのリビングから、リリコさんの声が聞こえる。

 ――どうだろうか。店のことも気にかけてくれて、心配をさせたかもしれないが。一平は人のことを気にかけすぎる。あれでは自分が参ってしまうだろう。

 タカさんの声。

 僕の呻きは声にならず、心配したユウキに支えられながら、意識は深い闇に閉ざされていった。


第9話 完

第10話「容疑者X」へ続く

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虹を見にいこう 第9話「虹を見にいこう」 なか @nakaba995

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