150:一緒に逃げませんか?




「逃げるって……」


「そのままの意味ですよ。逃げたいとおっしゃっていたではないですか。だから、私と一緒に逃げましょうという相談です」


 冗談を言っていると最初は思ったのだけど、その表情はどこまでも真剣だった。

 本気で、俺と逃げようと言っている。


「そうはいっても、どう考えても無理でしょ。俺も、御手洗も。逃げるなんて、不可能な話だ」


「不可能ではございませんよ。お坊ちゃまのおっしゃるとおりであれば、私達2人が消えたところで、誰も本気を出して探すことはないでしょう。あまり人の来ないような場所に行けば、今なら海外でもいいでしょう。逃げてしまえば、後はどうにでもなります」


 御手洗が言っていることは、夢物語ではない。

 俺と御手洗2人がいれば、どんな場所でも生活することは出来る。


 海外もいいけど、人里離れた田舎で自給自足の生活も魅了的に思える。


「帰ったところで、お坊ちゃまを待っているのは、裏切りや孤独だけですよ。それなら逃げてしまっても、誰も文句を言いません」


「そう、だね」


「どうでしょう。私と一緒に、このまま逃げてしまいませんか?」


 御手洗の提案は、俺にとっては良い選択肢だった。

 絶対に裏切ることの無い御手洗と逃げられるのであれば、こんなにも幸せなことなんて他に無いだろう。


 俺は自身の手を握り、そして心臓の上に置いた。

 ドクドクと一定のリズムを感じ、そっと目を閉じる。


 ちゃんと生きている。

 俺はここで生きている。


 それを感じ取ると、俺は目を開けた。



「今は、まだ止めておく」



「……それがお坊ちゃまの答えですか」



「すっごく魅力的な誘いだけどね。もう少し、何とかしてみようと思う。もう少し頑張ってみて、それでも駄目だったら、その時は一緒に逃げてほしい」



 まだ、俺には出来ることがあるはず。

 ここまで来ておいて説得力が無いかもしれないけど、逃げ出すのには早い。

 これは小休憩、ということにしよう。

 それか、慰安旅行。


 自分の中で言い訳をして、俺は御手洗に手を伸ばす。


「都合のいいことを言っているのは分かっている。でも、御手洗にしか頼めないことなんだ。……駄目、かな?」


 そっと頬に触れて、体温を感じ取る。

 俺よりも少し冷たいぐらいだけど、とても心地よかった。


 こんな風に、御手洗に触るのは初めてな気がする。

 あまりにも自然に触れられたから、ちょっと驚いてしまう。


「そうですか。まあ、確率は半々でしたから、仕方が無いでしょう」


 俺の手を払うことなく、御手洗は目を細めて受け入れる。

 特に俺の答えに関して、気にした様子は無さそうだ。


「お坊ちゃまが待っていてほしいというのであれば、私は待ちます。あなたのお世話係なのですから。最後まで責任を持って、あなたに付き従いますよ」


「俺が言っておいてなんだけど、本当にそれでいいの?」


「こういう時は、俺様としてふるまってしまえばよろしいのですよ」


「あはは、そっか。……それじゃあ、これからも一緒にいろよ。命令な」


「かしこまりました」


 御手洗は柔らかい表情で、俺と視線を合わせる。

 この言葉だけで、最後の悪あがきが出来そうだ。



 俺は御手洗とのやりとりに満足をしていて、この体勢が恥ずかしいことに、人が来るまで気が付かなかった。




 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈




 明日は帰らなくてはいけない。

 それなら全力で休んで、全力で楽しむが勝ちだろう。


 俺は浴衣に着替えて、畳の上に寝転んでいた。


「あー、このまま畳と一体化したい」


 叶うはずもない欲望を口にしながら、そのままゴロゴロと転がる。


 顔に跡がついたとしても、今は見せる人はいないから、どうでも良かった。

 むしろ取り繕う必要が無いので、やりたい放題である。


 御手洗は今何をしているのかというと、部屋に隣接された露天風呂に入っていた。

 だからこういう状態の時に真っ先に何か言われそうだけど、いないので好きなように出来る。


 あんなに生徒会の仕事を頑張っていたけど、実際の俺は面倒くさがりの怠け者だ。

 こうして何もせずにだらけている方が、本来の俺に近い姿である。


「眠くなってきた……寝ようかな……」


「車で寝ていたばかりではないですか。これから夕食なのですから、我慢して起きていてください」


「うーん、分かったよ。みたら……い」


 独り言に返事があったので、のろのろと声がした方を見れば、そこには衝撃の光景が待ち構えていた。


 今まで、御手洗と言えば執事服。

 それ以外の格好を、見たことすらなかった。


 でも今の御手洗は、温泉に入ったからなのか、俺が着ているのと同じ浴衣を身にまとっている。

 湿り気を帯びてへたっている髪、ほてっている肌、いつもは後ろに撫でつけている髪を前におろしているから、いつもより雰囲気が若い。



 つまり総合すると、ギャップが凄い。


「……お坊ちゃま? どうかなさいましたか?」


 タオルで髪を拭いている御手洗は、固まってしまった俺に話しかけてくる。


「だだだ大丈夫だよ。露天風呂、ちゃんと楽しんだ? 今日は俺の世話とか考えないで、ゆっくりしていいんだからね」


 俺は直視出来なくて、顔をそらしながら早口でまくし立てた。


「かしこまりました。もし気分がすぐれないようであれば、早めにおっしゃってくださいね」


「うんうん。分かった分かった」


 全く分かっていなかったけど、いつもと雰囲気の違う御手洗に慣れなくて、食い気味に返事をした。

 そんな俺の態度を不審に思ったようだけど、それ以上は何も聞かれなかった。


 その後も御手洗のせいで俺は心臓が騒がしくて、料理も温泉も集中することが出来ず、俺のつかの間の休息は終わりを迎えた。




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