95:反抗期は嘘だったのです
抱きついたまましばらく経ち、少し恥ずかしさというのを感じてきたので、俺は弟からゆっくりと離れた。
「……えーっと、ごめん」
「なんで謝るんだよ」
「いや、ずっと抱きついていたから、嫌だっただろう」
「そんなことないよ」
名残惜しげに見えるけど、さすがにそれは俺の気のせいだ。
照れるのを誤魔化すように、俺は部屋の中にあるキッチンに向かった。
「紅茶でも淹れようか。それともコーヒーの方がいい?」
「久しぶりに、兄さんが淹れた紅茶が飲みたいな」
「あ、そ、そう。すぐに用意するね」
部屋に来てから、弟がおかしい。
俺の知っている弟は、抱きしめてくるはずがないし、傷の心配をするわけないし、俺の紅茶を飲んでくれるわけないし、こんな甘い表情を向けてくるわけがない。
もしかして夢でも見ているのだろうか。
そう思うぐらいに、いつもと違う。
紅茶を蒸らしながら、俺は頬をつねってみる。痛かったので、夢じゃないと分かった。
香りに癒されながら息を吐けば、紅茶を淹れている俺の元へと弟が近づいてくる気配がした。
「兄さん」
「今蒸らしているから、もう少し待ってな」
「紅茶の匂いがすると、兄さんの元に来たって感じがする。すっごく落ち着く」
「そ、そうか。それなら良かった」
いつもと違うせいで、調子が狂ってしまう。
俺は背中を向けて出来る限り姿を見ないようにいていれば、さらに近づいてくる。
「ま、正嗣!?」
「久しぶりに、兄さんに会えて良かった」
急に後ろから抱きしめられて、驚きすぎて紅茶の入ったポットを倒しそうになってしまった。
何とか持ちこたえたが、それでも心臓はうるさいぐらいに騒いでいる。
「ど、うした? もしかして甘えたい時期なのか?」
軽口を叩いてはみたけど、声は震えてしまっているし、動揺は弟にも伝わっているはずだ。
俺の肩にあごをのせて、くすくすと笑ってきた。
馬鹿にしている感じではなく、可愛いものに対する笑いだと、自意識過剰かもしれないが思った。
「そうかも。甘えたい時期なのかも。だからいっぱい甘やかしてよ、兄さん」
肩にグリグリと頭を押し付けてくるから、息や髪が当たって、ものすごくくすぐったい。
俺は耐えきれずに笑い、腕を伸ばして頭を撫でる。
「本当に甘やかしていいの? それなら、いっぱい甘やかそうかな」
もしかしたら気まぐれかもしれないけど、甘やかしてもいいのなら、遠慮なく甘やかすだけだ。
しばらく撫でて、そしていい時間になったので、カップに紅茶を注ぐ。
さらに香りが広がり、俺は口元をほころばせ、2人分を注ぎ終えた。
「ほら、ずっとここにいたら冷めちゃうよ。あっち行こう」
「……ん」
トレイにのせて、弟に話しかければ、そのままの状態で歩き出す。
俺の腰に手を添えてくるから、むずがゆくてトレイを落としそうになるのを必死に我慢した。
「ほら、危ないから離れる」
テーブルの上にトレイを置いて、未だにくっつき虫だった弟に離れるように言えば、ようやく後ろの存在が無くなった。
行ったのは自分だけど少しだけ寂しくなったのは、兄の威厳にかけて内緒である。
「……やっぱり、兄さんの紅茶は美味しいなあ」
紅茶を一口飲んだ弟は、目を細めて笑う。
そんな顔だって久しぶりに見るし、褒められて俺はさらに嬉しくなった。
「いつも通りだよ。それに家の使用人の方が、美味しく淹れられる」
例えば、御手洗とか。
その名前を無意識に口にしようとして、俺は言葉に出来なかった。
もう随分と御手洗の姿を見ていないし、話もしていない。
一之宮家をまだ辞めてはいないけど、もしかしたらそれも時間の問題かもしれない。
弟に甘えてもらえて嬉しかった気持ちが、みるみるしぼんでいく。
それを誤魔化すように、俺は紅茶を飲むと、わざとらしいほどに明るく話題を変えた。
「そういえば、今日はどうしてそんなに優しいの?」
変える話題としては、あまりいいものじゃなかったかもしれない。
これで元の弟に戻ってしまったら、後悔しそうだ。
でもそれよりも、御手洗の話をしていたくなかった。
弟には、俺の気持ちが伝わってしまったらしい。
少し怖い顔をしてきて、俺は視線をそらした。
「……遠ざけるだけじゃ、意味が無いと分かったからね」
その声は感情を押し殺していて、低く響いた。
何かを耐えている。
その何かを俺は分かりそうで、でも知るのが怖くて考えないふりをした。
「兄さん、御手洗さんはとても元気だよ」
「そ、そう。それは良かった」
「うん。今は俺の面倒を見てくれているんだ」
「……そうなんだ」
御手洗は俺付きではあるけど、俺が学園に来ている今は、他の仕事をするしかない。
その他の仕事が弟の世話になることだって、ありえないことではなかった。
でも俺は、その事実に衝撃を受けた。
カップを持つ手が震えて、戻す際に大きな音を立ててしまった。
「御手洗さんに会いたい?」
「…………会いたいのかな。会いたいのかも……」
ぽつりと呟いた言葉は、自分が思っているよりも、切実な響きを持っていた。
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