40:闇堕ちはさせません
「どう? 落ち着いてきた?」
「……ん」
布団から出てきた弟に、俺は特製のココアを淹れてあげた。
それをゆっくりと飲んでいる姿を見て、落ち着いたと判断する。
まだ目は赤いけど、それも時間が経てば治るだろう。
「うーんと……ココア甘すぎない? 隠し味を入れたんだけど、加減が分からなかったから」
「だいじょうぶ。おいしい」
「そっか。良かった。それで、えーっと」
布団の中から出てきてくれたのは良いが、まだまだ取扱注意である。
俺は刺激しないように、どう会話を始めるか迷った。
「……おにいちゃんはさ」
「えっ!? 何!?」
そのせいで向こうから話しかけられた時、大げさな反応をしてしまう。
「そんなに、おどろかないで。ひどいことしているみたい」
「ご、ごめん」
「おにいちゃんは、ぼくがこわい?」
「そんなこと……」
完全に無いとは言い切れなかった。
弟が好きなのも本心だけど、同時に恐怖も抱いている。
それは、これから先、敵になるかもしれないという未来を想像してしまい、どんなに慕われても裏があるんじゃないかと疑ってしまうのだ。
そんな自分が嫌になるけど、考えを変えることが出来ない。
「ぼくは、おにいちゃんがすき。だいすきだよ」
「……うん」
「さっきおにいちゃんは、ずっとかぞくだっていった」
「……うん」
「でもぼくは、それだけじゃたりない」
飲んでいたココアのカップを置いて、弟は俺に近づいてくる。
「ま、まさつぐ?」
「おにいちゃん、だいすき」
そう言って顔が近づいてきて、そして。
「んむっ」
俺は弟の口を、何とか手で受け止めた。
またキスをするつもりだったのか。
口を押えられて不服そうな顔をしている弟に、俺は必死に言う。
「それは、駄目だよ。駄目なんだ。家族は口にキスはしない」
2年も経てば、いくら5歳でもキスの意味ぐらいは知っているはず。
それなのに今しようとしたのは、もしかしてそういう意味なのだろうか。
「正嗣、お願い。俺達は、家族だろう?」
もう一度言い聞かせるように言うと、ようやく引いてくれた。
「わかった」
嫌そうな顔はしているけど、もうキスをする気は無くなったようだ。
俺は安心して息を吐く。
「おにいちゃんは、ずるい。そんなことをいわれたら、きらわれたくないからあきらめるしかない」
悲しそうに笑う弟に、俺が慰めるわけにもいかず。
「いいよ。いまは。ぼくたちはかぞくで。でも……」
自分に言い聞かせるように口にしたかと思うと、おでこに柔らかい感触がした。
「ずっとはむりだからね」
「……分かった」
随分と大人びた弟に、俺は顔を真っ赤にさせて頷くしかなかった。
「そういうわけで、弟の機嫌は直った」
「しかし、完全に家族以上の好意を抱かれているわけですね」
「……信じたくないけど、そうみたい」
部屋に帰ると、御手洗に報告するのが一連の流れになっていた。
父親の時といい、弟の時といい、色々と起こりすぎである。
俺は頭が痛くなりながら、御手洗と話をする。
「どうぞ。疲れているようでしたので、特製のハーブティーを淹れてみました」
「ありがとう。……いい香りだね」
「恐縮です」
御手洗特製のハーブティーは、何が入っているのかまでは分からなかったけど、とても美味しい。
俺は肩の力が抜けるのを感じて、ほっと息を吐く。
「……俺、これから上手くやっていけるかな」
「不安になってしまったのですか?」
「色々ありすぎて。高校生になるまで、何とかなるとも思えなくなってきちゃった」
これは、御手洗にだからこそ吐き出せた弱音だった。
俺の状況を理解していて、それでもなお協力してくれているのは彼だけだ。
返ってくるのは冷たいものだと分かっていても、話を聞いてもらいたかった。
「それは、ここから逃げ出したいということですか? 物語が始まる前に」
「そうかもしれない。お金なら少しはあるから、一之宮の名前を捨てて、こんないつ駄目になるか分からない場所から逃げ出したいのかも」
「お坊ちゃまは、それでよろしいのですか?」
「時々、思うんだ。どうして、こんなにも気を張って生きていかなきゃいけないんだろうって。この世界は、少しでも隙を見せたら、選択を間違ったら、奈落の底に突き落とされる。……辛い」
西園寺兄弟や弟の件もあり、気づかない間に心が参っていたみたいだ。
いつもなら、ここまでネガティブに陥ることは無い。
寝てしまえば、不安な気持ちも落ち着くのに。
俺の口は止まってくれない。
「俺がここにいなければ、全て上手くいくんじゃないかな? 美羽だって、匠だって、朝陽だって、夕陽だって、父親だって、弟だって、俺がいたせいで面倒なことになった。そもそも俺がいなければ、みんな幸せになるんじゃないかな。俺がここにいる意味って何? 結局は、自己満足でしかないんじゃないの?」
両手で持ったカップの中に、しずくが落ちていく。
それを止めることが出来ず、俺の視界は歪んだ。
「もう……もう、こんなところに、いたくない……」
飛び出した悲痛な言葉は、音となりすぐに消える。
隠していた不安や恐怖を、全て聞いた御手洗は、その場から動かない。
近づく価値すらないと言われているみたいで、涙がさらにあふれる。
「……お坊ちゃま」
「な、なに?」
「お坊ちゃまが望むのであれば、私はここからあなたを連れ出すことが出来ます」
「……え?」
御手洗は動かずに、そのまま続けた。
「一之宮家を捨てたとして、お金を多少持っていたとしても、あなたはまだ子供なのです。一人で生きていくなんて、到底難しいでしょう。だから私が、お坊ちゃまの面倒を見ましょう」
「御手洗が?」
「ええ。成人するまで、全ての面倒を見ます。そうすれば、お坊ちゃまは人並みの幸せというものを手に入れることが出来るのでしょう。ですが、」
そこで区切ると、一音一音をはっきりと言う。
「それで、お坊ちゃまは本当によろしいのですか?」
その言葉に、息をのむ。
「きっと後悔なさるでしょう。ここから逃げ出したことを。しかし、やり直すことは出来ない。捨てたものを取り戻すことも出来ない。それで、あなたは幸せになれるのか? 絶対に無理だ」
丁寧な口調が抜けていることにも気づいていないようだ。
それが、本音を言っているのだという証拠だった。
「逃げ出すのは簡単だ。私以外にも協力してくれる人はいる。でも逃げ出して、楽になれると思うな。幸せになりたいなら、ここで自分の力で掴み取るんだ」
俺の背中に、そっと手が置かれる。
「辛い時は、いつでも話を聞くから。助けるから。絶対に逃げるんじゃない。分かったか?」
「……ゔん゛」
撫でる手に、涙が止まらなくなった。
でもそれは悲しいものでも辛いものでもなく、ポカポカと心が温かくなったから、自然と出てきた涙だ。
御手洗のぶっきらぼうな優しさは、俺の心に染みこみ、そして傷を癒してくれた。
「……これからもお坊ちゃまの慌てる姿を見れなくなるのは、楽しみが無くなってしまいますからね。逃げられてしまうと、面倒なだけですから」
あとから付け足された言葉は御手洗らしさ全開で、俺は泣きながら笑ってしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます