04:弟は天使、優しくしましょう



 まだ5歳だった俺は、深く考えずに、母親の死を弟のせいだと決めつけた。

 それは考えようによっては間違っていないのだが、行なったことは完全に間違っていた。


 物語の中の俺は、ショックを受けている弟に、出会って第一声にこう言い放ったのだ。


「お前のせいでお母様が死んだんだ! お前が死ねばよかったのに!」


 どう考えたって、自分を責めている幼い弟に向かって、言ってはいけない言葉だ。

 でも俺にも、少しだけ同情するべき点があったのも事実である。

 俺だってまだ5歳だった。


 愛情を受けている時期に、その母親が死んでしまったのだ。

 混乱して、誰かに当たってしまうのも、子供だから仕方がないことではあった。

 それでも、そこからの未来を考えたら、絶対に言うべきじゃなかったのは確かである。



 小説の中で弟は、俺の言葉を引きずり、ずっと母親の死を自分のせいだと責め続けていた。

 俺との関係も冷えきっていて、家でも学校でも、話すことも顔を合わせること無かった。


 そんな状況の中で、転入生は弟の寂しさに付け込み……いや違う。寄り添って癒した。

 人の優しさに飢えていた弟は、全てを許した転入生に心を開いたというわけだ。


 はっきり言ってしまうと、ちょろい。

 逆に考えれば、俺の言葉がそれぐらい深い傷をつけてしまった。



 でも、今ならまだ間に合う。

 未だに布団にくるまり、すすり泣いている妖怪みたいな塊に向かって、俺は静かに近づいた。

 刺激すると何が起こるか分からないから、優しさが前面に出るように意識する。


「正継……」


 優しく穏やかに名前を呼べば、塊が一瞬震えた。

 俺の言葉は届いているらしい。

 それなら、まだやりやすくて助かる。


 ゆっくりとベッドまで行くと、布団の上の方を軽く叩いた。


「正継。勝手に入ってごめん。でも、心配なんだ。顔を見せて?」


 泣き声は聞こえなくなっていて、俺の様子を伺っているようだ。

 今まで仲が悪かったわけではないけど、別に仲良しだったわけでもないので、不審に思っているのかもしれない。


 それでもめげずに、俺は優しく叩き続ける。


「急に入って驚いたよね。でも本当に心配なんだ。正継が悲しいなら、お兄ちゃんは、その悲しみをとりたい」


 まだ返事はない。

 でも嫌がっている感じもしないから、説得を続ける。


「お母様……お母さんが死んで、辛いよな。悲しいよな」


「……おにいちゃんに、なにがわかるの?」


 ようやく、布団の中から声が聞こえてきた。

 とても弱々しくて、しかもこもっているせいで聞き取りづらい。

 それでも話をしてくれたのなら、こっちのものだ。


 俺は焦ることなく、更に話しかける。


「そうだな。俺が何を言っても、正嗣の気持ちを完全に理解出来ないよ。ごめん。正嗣の方が、ずっとずっと辛いし、悲しいよな。……だから、あのな、お兄ちゃんに全部ぶつけていいよ。辛くて悲しい気持ち、全部全部お兄ちゃんにぶつけて」


 布団がもぞもぞと動き出し、丸まっていた布団に隙間が出来た。

 そしてその隙間から、涙で顔をぐちゃぐちゃにした弟の顔が出てくる。


「……おにいちゃん」


 物語の中では、高校生になった姿しか見たことの無かった弟。

 子供特有の丸い頬。つぶらな瞳。布団の中にいたせいで乱れているけど、さらさらの髪には天使のわっかがある。

 とりあえず何が言いたいのかというと、とにかく可愛い。


 可愛すぎて、見た瞬間心臓が止まるかと思った。

 これは確かに、成長したら男前になるはずだ。

 こんなにも可愛い弟に酷いことなんて言えないし、もしも嫌われたらショックで死ぬ。


「……おにいちゃん?」


 弟の顔に衝撃を受けすぎて、しばらく固まっていたらしい。

 不安そうな顔をした弟は、首を傾げた。

 その小さな動きでさえも、可愛いとしか思えないのだから末期だ。


「あ、えっと。あの、そうだな。ととととりあえず、おいで……?」


 慰め方なんて知らない。

 だから腕を広げて、なんとなく笑ってみれば、弟はパチパチと瞬きをした。


 今の言い方は、もしかして変質者みたいだったか?

 とてつもなく素晴らしい攻めの幼少期を間近に見られて、完全に興奮してしまった。

 自分がどんな表情をしているのか、全く分からない。

 でもたぶん、とんでもなく気持ち悪い顔をしていそうだ。


「……ん」


 それでも、弟には関係なかったらしい。

 少しぶっきらぼうに、俺に体を預けてきた。


 良い匂いがする。柔らかい。

 まさか本当に抱き着いてくれるとは思っていなかったから、俺は嬉しさから昇天しそうになった。

 それでも不審に思われないために、背中を優しく撫でてあげる。


 ここで、間違った選択肢を選んだら、俺の運命は決まってしまう。

 最初の言葉は言わなくて済んだけど、これから何が地雷になるのか分からない。

 とにかく優しく、男だけど聖母のように包み込まなくては。


「大丈夫だよ。正嗣。正嗣のせいじゃないよ。大丈夫だから。今はいっぱい泣きな」


 背中と、ついでに頭も撫でながら、俺は弟をこっそりと堪能した。

 何でこんなにお日様のような、ミルクのような、良い匂いがするんだろう。


 はたから見れば、5歳と3歳の兄弟の、可愛らしい抱擁の場面なはずなのに。

 俺の考えが不純なせいで、申し訳ない気分だった。


 それでも俺に必死にしがみついて、大きな声で泣き出した弟を見て、不純な気持ちは彼方に吹っ飛ぶ。


「おにっ、ちゃ、ぼく、ぁさんっ、みっ、うえっ、ごめっ」


「うん、うん……うん。大丈夫、お兄ちゃんはずっと一緒にいるから。正継とずーっと一緒にいる」


 興奮しすぎて何を言っているのか分からなかったけど、相づちを打って撫でる手は止めなかった。

 泣いている姿も可愛いと思ったのは、ここだけの秘密だ。


 これが、ただただ小さい弟を守りたいと、俺が決意した記念すべき瞬間である。

 天使は、こんなにも身近にいた。





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