02:まずは父親と分かりあいましょう




 ベッドの上で、十分ほど考えた結果。

 とりあえず13年の時間があるので、少しずつ物語を変えていこうという結論を俺は出した。


 幸い時間はあるし、一番好きな小説だったから、細かい設定も覚えている。

 本筋は変えなくても、俺が破滅しないように行動していくことは出来るのではないか。

 そういうわけで、必死に俺は作戦を立てた。



 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈



 その第一弾を、これから決行しようとしている。

 考えを整理した俺は、ベッドから抜け出して、広い屋敷の中をパジャマ姿で歩いていた。


 目指す場所は、ただ一つ。

 そこは今までの俺だったら避けていたところで、今も進もうとするたびに足が震えている。

 部屋に戻って、ベッドの中で安心したい。

 何度もそう思ってしまうが、逃げることはしなかった。


 ここで逃げてしまったら、たぶん俺はトントン拍子に破滅の道に進んでいく。

 まずはこの壁を乗り越えて、幸せな人生を歩むための第一歩にするのだ。


 そしてようやく辿り着いた扉は、5歳の俺にとっては見上げるぐらい高いし、中にいる人のせいで、とんでもない威圧感があった。


 体の震えは止まらず、こめかみを汗が流れた。

 この部屋の中で怒られたことや、折檻を受けたことを、昔の俺の記憶が訴えてくる。

 今まで、いい思い出なんて一つも無かった場所。

 そんなところに今から入り、そして父親と話をしようとしているのだ。無謀としかいいようがない。


「……よし」


 そうかといって、ずっと扉の前にいれば、何かが変わるわけもない。

 俺は何度も深呼吸をして、部屋の扉をノックした。


「……誰だ?」


 向こう側から聞こえてきた、父親の静かな声。

 決して声を荒らげたりしている訳ではないのに、俺は恐怖を感じた。

 何かを言おうとして、でも何も言えなくて、口をパクパク動かしていると、今度は少し苛立った声がした。


「誰だ? さっさと用件を言わないか」


 その声は、さらに俺の動きを止めるものだった。

 頭がくらくらして、視界が暗くなって、そのまま意識を手放しそうになる。

 それでも何とか耐えたのは、幸せになるためだった。


「……あっと、あの、お父様。帝です。入ってもいいですか?」


 つっかえながら、俺は服の裾を握りしめて声を出した。


「…………入りなさい」


 向こう側が少しだけ静かになり、しばらくしてから許可が出る。

 入れてもらえない可能性もあったので驚いたが、待たせると機嫌が悪くなってしまうと思い、ゆっくりと扉を開けた。


「失礼します」


「何の用だ」


 部屋に入ると、父親は書類に目を向けながら、こちらを見ようともせずにそう言った。

 どう考えても、5歳の我が子に対する接し方じゃないけど、これがこの家の普通なのだ。


 俺の父親である一之宮いちのみやはじめは、一之宮グループの代表である。

 俺の18歳の時の姿に、大人の色気と冷酷さを足したような容姿は、ものすごく格好いい。

 それを眺めて喜んでいる余裕が無いので、とても残念であるけど。


「帝、見ての通り私は忙しいんだ。さっさと用件を言いなさい」


 色々と考えていたせいで、父親の機嫌が悪くなった。

 眉間にしわを寄せて、それでも書類からは目線を外さず、淡々とした口調で急かしてきた。



 それにしても、もう少し優しくしてくれてもよくないか?

 確かに会社の仕事や母親の葬式など、手続きや何やらで忙しいのは分かる。


 でも、目の前には誕生日に母親を亡くした、5歳の息子がいるんだぞ?

 今は俺が中にいるから、ある程度理性的に行動しているけど、普通だったらショックで立ち直れない。

 そういうふうに、育ててきたのかもし、れない。育ててきたのかもしれないが、今は優しく慰めることぐらい出来ないのだろうか。


 小説の中で、俺と父親の関係は他人に近いものだった。

 一之宮グループの跡取りとして、全てを完璧にするように求めた父親は、生徒会長をリコールされたと知ると真っ先に勘当した。

 一之宮グループに不良品はいらない。

 きっと、そういう理由での勘当だったのだろう。


 その後に悲惨な運命が待ち構えると分かっていて、俺を捨てた。

 あまりに冷酷すぎる。

 そんな冷たい人間に対して、話し合えば分かり合えると期待するのが、間違いだったのかもしれない。


 意気揚々とした気持ちがしぼんでいって、俺は部屋から出ようと、父親に謝るために自然と下がっていた顔を上げた。

 ちょうど父親も、しびれを切らして俺に何かを言おうとしていたところだったようで、視線がバッチリ交わる。


 その時、俺に衝撃が走った。

 決して、父親の容姿の良さのせいではない。

 その目が、真っ赤に充血していたからだ。


 明らかに先程まで泣いていただろう様子に、それを俺に悟らせまいとする姿に、恐怖の気持ちがどこかに吹っ飛ぶ。

 この人でも泣くのだ。

 妻を亡くしたのだから当たり前のことなのに、俺は父親が悲しむなんて、全く予想していなかった。


 いつも厳しく、無表情、弱みや弱点なんて一つも無いと思っていた。

 でも、一人の人間なのだ。

 悲しくて涙を流すことだって、普通のことだ。



 俺は初めて知った父親の別の一面に、頭が真っ白になった。

 それでも何かをしなきゃいけなと思って、作戦も何も無く近付く。


「……何だ?」


 部屋に入ってから一言も話さない、いつもなら絶対に近づくことは無いせいか、困った様子で問いかけてくるのを無視して、俺は座っている足元まで来た。


 そしてそのままの勢いで、腕をめいいっぱい広げて、足に抱きつく。

 上の方から、父親の息を飲む音が聞こえた。

 そして腕が伸びてくる気配を感じたので、引き剥がされる前に、気持ちを素直に口に出した。


「お父さん、だいじょうぶだよ、だいじょうぶ。帝はずっと一緒にいるから、だいじょうぶ。だから、たくさん泣いてもいいんだよ」


 支離滅裂な言葉だったけど、引き剥がされることは無かった。

 何も言わずそのままにされ、俺は気の済むまで抱きついた。


 上から雨のように雫がたれてきたけど、顔を上げて確かめることは無かった。




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