第3話

北の入り口の駅


 やがて電車は路線変更する大きめの駅に着いた。少女は

「ここがお兄ちゃんの故郷?」

と聞いてきたので、まだまだ先であると伝えた。その次の駅でも、そのまた次の駅でも同じ事を聞いてきたので、僕は目的の駅までまだ二十もの駅を通り過ぎなくてはいけない事を伝えた。

 窓の外の雪は激しさを増し、次第に少女はオーバーコートの上から胸の上でしっかりと腕を組み寒さに震える程になった。

そしてついに少女は

「もうこれ以上ウチは行けんから。ここでも寒くて無理やから少し逆戻りせんと」

と少し弱気な感じで呟いた。本当に蒼ざめ具合の悪そうな少女を前にして心配になった僕は一緒に次の駅で降りる事にした。大きくないその駅に降りると反対側のホームにすぐ逆方向に向かう電車が到着したので、少女を促し僕もその電車に乗り込んだ。今度は南に向かう電車で、このままさっきの路線変更する大きな駅に着いたらすぐ暖かい待合室で少女の気分が回復するのを待とうと思った。その待合室には暖炉をかたどった大きなヒーターがあるのを知っていた。でも少女は鉛色の空を見上げて首を横に振った。

「もっと南やないと」

「建物の中は暖かいんだよ。僕の故郷の街も同じさ」

「いや、外が寒いのがいけんの」

僕はよく意味が分からず、例の温度の分岐点となる北の入り口の駅が近付いた時、

「雪が降り始めたあの駅を通り過ぎれば暖かくなるからね」

と言った。すると少女は寒がりのくせに

「いや、ウチは雪が振り始めた所がいい。働くのはあの町にする」

と頑なだった。

「外の寒さがどうこうい言う割には頑固なんだな。あの北の入り口の駅で降りても彼処は田舎町だからろくに仕事なんかないに決まってるのに」

と僕は少し強い口調で言った。それでも結局彼女の意思に折れるしかない。元々見知らぬ少女だし、自分が口出しすべき問題ではない。ただあまりに無防備な様子が頼りなく感じられ、この北の入り口の駅で僕自身も降りて、彼女が突飛な行動に出ないか見守ろうと思った。

 北の入り口の駅は案の定冷え冷えとして、雪がちらついていた。少女は寒さに震えながらも雪に魅入っていた。まるで空から降って来るのが雪なんかではなく桜の花びらか何かのようだった。

「ちょっと待ってて。何か温かい飲み物でも買って来るから」

と僕は言い残し、小さな駅の自動販売機に向かって走った。そして自分の分と少女の分と二本温かいココアの缶を買って戻った。あの少女にはココアが似合いそうだな、とふと考え、マグカップを抱えている姿が目に浮かんだりした。

 電車から降りた辺りのベンチ近くに戻った時、少女はいなかった。僕はコートについた雪を振り落とそうと手で軽くコートをはたいた。雪と一緒にぱらりと何かちっぽけな黒っぽい物も落ちた。多分午前中過ごした湖畔で付いた花の種子。少女は寒さを凌ぐため建物の中に入ったのだろうと駅舎を探したけど何処にもいなかった。

 僕という人間を胡散臭い人物と恐れ、逃げて行ったのだろうか。それにしてはあまりに気さくにさっきまで話しかけていたではないか。もしそうだとしたら僕は裏切られた気分だった。はっきり言って知らない誰かが見たら、本当の兄妹だと勘違いしたに違いない位のレベルで彼女は僕になつき、話し続けていたのに。

こうして多分一、二時間はホームや駅舎を行ったり来たりで少女を探していた気がする。こう書くと危ない人間のようだけど、心配だったし、兄が妹を探すような気持ちだった。知り合ったばかりの娘がごく身近な存在に感じられていた。駅を離れ、仕事先を探しているのかとも考えたけど、駅を出て見る街の風景は雪の中にいくつかの商店が軒を連ねているだけの寂しい風景で、何だか温かな雰囲気の少女がその風景の中にいる気がしなかった。

 僕が諦めて電車に乗ったのは積もった雪に夕焼けのオレンジ色が淡く映り出した頃。刻々と暗くなっていく風景、見慣れているはずの車窓からの風景が見知らぬ場所のように通り過ぎていくのを僕は複雑な思いで眺めていた。あの軽やかに話し続ける少女がいれば違った空間となっただろう故郷も、今ではまた精彩を欠いた退屈な風景に僕の心の眼には映っていた。それにしても寒がりのあの少女があの侘びしく寒々とした街でたった一人きりで心細くないのだろうか。これから都会で暮らす自分はこんなにも心細いのに。



…………



 それから僕は故郷で暮らすという選択肢は捨て、三十年近くずっと都会で生きてきた。広告代理店という厳しい業界の風当たりにも何とか耐えてきたし、意外にも普通に結婚し一人の息子を育てた。広告代理店の方は働き始めて二十年経って先の人生がぼんやり見え始めた頃に辞め、その時の人脈で画廊カフェを細々とだけど始めた。都心から離れた土地で地元の画家や写真家を中心に展示や販売を行い、好きな本格コーヒーの香りに囲まれて過ごしている。そんな職業も都会では珍しがられるわけでもなく、平凡な核家族としてマンション住まいを続けている。その間、年に一、二度の数日の帰省を除けば実家のある田舎に戻った事もないし、また戻りたいという願望も不思議となかった。あの秋の一日の出来事はずっと心に残っている。特に思い出して考えるわけではないけど、ずっと心のどこかに残って大切な役割を果たしている気がする、と言った方が正しいかもしれない。正直、ここ十数年あの日の出来事が頭の中を蘇った事は一度もなかった。

それが突然思い出されたのは一ヶ月程前に画廊で催した写真家の個展で一枚の写真を見たからだ。

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