太田聡 前編
「聡、お前本当に身長伸びたな。昔はあんなに小さかったのに。」
親父が洗面所で顔を洗う俺に、後ろから声を掛けてきた。
その言葉通り俺はとても小さかった。
中学に入った時の身長は百三十二センチとクラスの一番前が定位置。
当時はその事をよく揶揄われては俯きながら帰ってきた記憶がある。
中学三年間で三十センチ以上伸び、高校に入る頃には百六十半ば。
去年大学に入学した時には百八十近かった。
そして今は百八十三cmある。
「こいつは私の伸びしろ全部持ってったのよっ。」
姉は男二人を邪魔そうに除けると、ドライヤーを掴みのっしのっしと歩き去った。
因みに姉の身長は百四十五cmだ。
大学に入学して直ぐ、好きな女性が出来た。
その女性は俺と同学年で、すらっとした体型のとても綺麗な人。
何度か同じ授業を受けている内に話す機会があり、いつの間にか惚れていた。
何とか彼女の気を引こうと趣味や好きな物を共通の知人に聞いて回ると、近くにあるボクシングジムで体を動かしているらしいとの事。
ボクシングには全く興味が無かったが、少しでも近づく為、なけなしのバイト代を使って入会した。
「トレーナーの丸井です。君、背高いな。プロ志望か?」
その言葉を聞いて自分がプロなど冗談では無いと首を振る。
喧嘩一つした事が無いというのに。
「い、いえ、ちょっと運動不足なので、体を動かそうかと…。」
俺の答えに特に感慨もないといった表情で男は返す。
「そうか、良い事だ。じゃあボクササイズだな。こっち来て一緒にやろうか。」
そうして始めたボクササイズだったが、直ぐにやる意味が無くなってしまった。
彼女に付き合っている男が存在すると分かったからだ。
それでもケチな俺は払った月謝分だけでも利用しようと通い続けた。
「兄ちゃん大丈夫か?あんまり無理すんなよ?」
そう声を掛けてくれたのは練習中の小学生。
今まで運動は体育の授業くらいでしかやって来なかった為、体格はともかくスタミナに関してはこんな子供にさえも負けている。
その事が悔しく意外な負けず嫌いを発揮し、せめてこいつらには勝ちたいと、そんな思いを抱いたまま何故か半年経ってもまだそのジムに通い続けていた。
「聡君頑張るね。ちょっと本格的に練習してみない?物は試しだよ。」
そんな丸井トレーナーに促され、初めて滝の様な汗を掻いた。
だがそれが意外に気持ち良く、そこから徐々にのめり込む事になっていく。
大学二年になって直ぐ、彼女が出来た。
相手は以前好きだった女性ではなく、知人の紹介で何となく付き合い始めた子だ。
しかし付き合うというのは思っていた以上に面倒で、程なくして亀裂が入った。
原因は自分でも意外なのだが、彼女よりもボクシングの練習を優先してしまっていたのだ。
まあ、元々そこまで好きではなかったというだけの事かもしれないが、これまでの人生で何か一つに打ち込むという経験が無かった為、へとへとになるほど自分を追い込む今の生活には満ち足りた何かを感じていたのも事実。
だが本格的なスパーリングが始まると、痛さと怖さで一度逃げ出してしまった。
そうして家に帰り着くが、心がモヤモヤして晴れず何故かまたジムに顔を出してしまう。
(結局、俺は何がしたいんだ?本気でやりたいのか…そうじゃないのか。自分でも分からん。)
そんな悩みを抱えながらも、練習だけは続けプロライセンスを取得出来た。
自分が初めて手にした努力の結晶。
それを手にするだけで誇らしい気分になった。
「聡、試合決められそうだけど、やるか?お前の気持ち次第だぞ。」
「そう…ですね。やってみます。」
怖さはあったが、今までやってきた練習を無駄にしたくないという気持ちの方が強かった。
「お前、今何キロだ?ちょっと乗ってみろ。」
言われた通りに秤に乗る。
「六十五,五か。身長の割に軽いな。その内階級上げる事も考えてスーパーフェザーで行ってみるか。」
減量は苦しいと言えば苦しかった。
しかし先輩達の大袈裟な体験談を聞いていたせいか、思っていた程では無かった気がする。
それでも食事自体はかなりの制限が必要になったが、水分を完全に断つほど過酷なものには至らなかった。
元々食が細かった事も楽に感じた要因の一つだろうが
そして遂に迎えた初めての試合の日。
「いいか?練習通りやれば大丈夫だからな。距離取って左から右の打ち下ろし、潜り込もうとして来たらアッパー。」
試合の開始が近づくにつれ、急に怖さが増してきた。
(やっぱ止めといた方が良かったかも…痛えだろうな。怖えな…。)
ついに入場してリングに上がると、情けない事に足ががくがく震え始める。
「大丈夫だ、落ち着いていけ。お前は強い。そう自分に言い聞かせろ。」
その言葉に頷き、ゴングを聞いてリング中央へ。
そうして向かい合うと、相手がまるで自分を殺しに来ているようで更に怖くなった。
「聡っ、練習思い出せ!」
トレーナーの声が聞こえ、左を突くと言うよりも押し付ける様にした後、思い切り右を打ち抜く。
肩まで響く手応えがあった。
見ると相手は今のパンチが効いたようで、足取りが覚束ない。
(やれる!俺はやれる!俺は強いんだっ!)
まるで念じる様に心の中でそう繰り返しながら戦い、フルマークの判定勝ちを収めた。
そして迎えた二試合目、三ラウンドTKО勝ち。
東日本新人王決定戦一回戦目となった三試合目、二ラウンドTKО勝ち。
そして、新人王トーナメント第二回戦、
「相手との身長差かなりあるからな。潜り込もうとしてくるから、アッパーで突き上げて右。いつも通りだ頼むぞ。」
その指示に従い、二ラウンドKО勝ち。
(俺マジで強いんじゃ…いや、強い!このまま行ける!もしかして世界とか…行けたり…。)
今までの弱気はどこへ行ったか分からないほど、自信が満ちていた。
自分の可能性を感じ、日々の練習にも力が入る。
「よ~しっ、いいぞ聡。しっかり腰を入れて打ち抜け。リーチはお前の方が絶対あるんだからな。」
「はいっ!分かりましたっ!」
最早、自分の勝利を疑っていなかった。
「丸井さん、次の相手ってどんな選手なんですか?」
「うん?名前は遠宮統一郎、オーソドックスのアウトボクサータイプだな。左のリードブローを主軸として戦うタイプだから、お前のリーチが特に活きてくるはずだ。」
トレーナーのお墨付きをもらい、更に自信が漲ってくる。
「ジャブがやけに上手いが、特徴はそれくらいだな。一回戦の様子を見ると少なくとも打たれ強いって事は無いと思う。」
「分かりました。これまで通りで良いって事ですね。」
次の試合もいけそうだと思った時、無性に今の自分を誰かに見てもらいたくなった。
家に帰り着き両親に試合の事を話したが、仕事があって来れないらしい。
念のため姉にも声を掛けたが、面倒臭いの一言で却下。
大学の知人も誘ってみたが、浅い付き合いしかしてこなかった為、態々高い金を払ってまで応援に来てくれる様な者は、一人もいなかった。
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