高橋晴斗 後編

成り行きでプロライセンスを取得し、一七歳になった十一月、初めてのリングに上がった。


減量はそれなりにきつかったが、トレーナーのアドバイスで取り敢えずは何とかなった。


セコンドは桐野トレーナーと会長、そして何故か話好きのおばさんだ。


初戦とは言うものの特に緊張は無く、第一ラウンドは言われた通り軽くコンコンと叩き続けた。


これになんの意味があるのか未だに分からない。


そしてストレスを溜めたまま自陣に戻ると、


「よし、晴斗。こっからは好きにやれ。ストレス溜まってるだろ?爆発させて来ていいぞ。」


全身の血が滾る。


言葉通りパンチをヘッドスリップだけで躱しながら、力任せに叩き込んだ。


そして第二ラウンドが半分を過ぎた頃には、相手は大の字でマットに転がっていた。


「よし、次は新人王戦だな。まあ、お前なら相手が相当じゃない限り大丈夫だ。」


抽選の結果俺はシード枠になり、勝ち上がってきた奴と当たる事に。


試合間隔が開きすぎるという理由から三月に一試合挟んだが、一ラウンド目から好きにやっていいと言われたので開始から一分弱でマットに沈めた。








迎えた八月一日、いつも通り緊張する事無くリングに上がり中央で気合をぶつける。


(ガキくせえ面しやがって…気合入ってんだろうな?ああっ!?)


今日は俺と気の合う仲間も応援に来ている。


(間違ってもだせえ試合だけは見せらんねえ。許可はもらってんだ。いきなりぶっ飛ばしてやるっ!)


中央でグローブを合わせた直後、最初から決める気で打って出る。


だが、相手はそれを読んでいたかひらりと躱されてしまった。


(へぇ、勘良いじゃねえか。まあ始まったばかりだ。一回捕まえりゃ…どうせ終わりだろ。)


だがその一回が意外に遠い。


(この左…気合入った良いパンチじゃねえか。気に入った。さあ…打ち合おうぜ。)


誘うが、相手は全く乗ってくる気配が無い。


その間にも的確にジャブで打たれ、早くも鼻血が伝う。


(もう少しだ。もう少し。ほうら…捕まえたっ!)


相手がコーナーに詰まったのを見て突っ込む俺を左で止めようとするが、そんなものでは止まる訳が無い。


(無駄だよっ!ここで終わりだっ!沈めおらぁっ!!)


今までの相手ならこれで終わっているはずが、どうにも決定打が入らない。


ガードの隙間から苦痛に歪む顔が覗いているにも拘らず、その目は微塵も折れてはいなかった。


手間取っている内に小さな右で打ち抜かれるが、そんな事はどうでもいい。


構わず打ち続ける。


(上堅えな。なら、腹打って悶絶させてやる!)


横殴りにボディを叩いた瞬間、同時に顔面を打ち抜かれ視界が一瞬歪んだ。


そのすぐ後ゴングが響く。


(この野郎…狙ってやがったなぁ…やるじゃぁねえかよぉ。はは。)






「良い相手に当たったな晴斗。この試合の中で出来るだけボクシングを勉強してこい。」


「意味分かんねえよ。今まで通りで良いんだろ?」


「まあな、あ、でも、最初の一発は基本通りのワンツーを見せてくれ。」


何の意味があるかは分からなかったが、取り敢えず頷いておいた。


その言葉通り開始直後に相手のジャブに合わせて踏み込むと、習った通りのワンツー。


(取り敢えず言われた事はやった。こっからは好きにやらせてもらうからな。)


ガンガン前に出るが、強烈なジャブのせいで出端を挫かれ距離を詰められない。


(マジで凄えなこいつ。だが後二ラウンドあるぞ、頑張って逃げろよ…。)


第二ラウンドが終わりコーナーに戻ると、皆慌ただしくしている。


「ちょっと黒川さん、晴斗ちゃんあんなに血が出て、大丈夫なのっ?ねえっ?」


(うっせええよおばさん、こんなの何でもねえっつうの。黙って椅子出ししてろやっ。)


「ちょっと痛いぞ。我慢しろ。」


そう告げた後、トレーナーが棒のような何かを鼻に突っ込んできた。


どうやら鼻が折れているらしい、道理で苦しい訳だ





第三ラウンド、俺のやる事は変わらないし変える気が無い。


(さあ、打って来いよ。お前のパンチじゃ俺は倒れてやらねえぞ。)


まるで会場の熱気を体が取り込むかの如く、気分が際限無く高揚していく。


それでも捕まらない、捕まえられない。


それ所か何度も打ち抜かれた顔面は腫れ、視界さえ塞ぎ始めた。


(…関係ねえ。近づいて振り回せば、俺に倒せねえ奴なんかいねえんだからな。)


そのまま第三ラウンドが終わり、流石に少し重い足取りで自陣に戻る。


すると、桐野トレーナーはまたも訳の分からない事を語り聞かせてくる。


「俺はあの選手に感謝してる。こうやって得難いものをお前に与えてくれてるんだからな。」


言っている事の意味が分からないまま、最終ラウンドのリングへ向かった。


相手は当然の如く、死角を利用して立ち回ってくる。


(チッ…うぜえな。どうせこの辺にいんじゃねえか?)


勘に任せて適当に振り回すと体のどこかに当たり、そのまま見える所まで強引に引き摺り出した。


それでも強烈なパンチをもらう様になってきたせいか、流石に足元が覚束なくなった気がする。


(それがなんだってんだ?どうせ一発当たりゃ終いだろ。)


ガード等一切無視して追いかける展開が続く中、一瞬相手の動きが鈍くなったのを見逃さなかった。


(ん?何だ?急にボケっとして、もう勝ったつもりなら…まだ早えぞっ!?)


一瞬の隙を見逃さず、一気にプレッシャーを掛け追い詰める。


ロープを背負う所まで下がらせると、さっきまでのダメージなど全く感じなくなった。


(やっと…捕まえた。もう逃がさねえぞ。潰れろっおらぁっ!!)


渾身の力を込めてガードを固める相手に叩きつける。


このまま終わらせてやると、骨ごと圧し折るつもりで打ち続けていた。


「…っ!?」


瞬間、目の前で火花が散った様な感覚。


打たれた事に気付き、それでも構わず強振するが何の手応えも残らない。


振り向くと、相手はもう手の届かないまで逃走した後だった。


(ははっ大したもんだ。認めてやる。今日は…俺の負けだ。)









検診が終わった帰り道、さっきまでリングで向かい合っていた奴とすれ違う。


今日は負けたという意味を込めて、軽く胸部を叩いておいた。


きっとその意味は伝わっているはずだ。


控室に戻ると、帰り支度をしながらトレーナーがぽつりぽつりと語り始める。


「お前はな、多分天才だよ。だからこそ只振り回すだけでもある程度の奴には勝てる。いや、相性さえ良ければ今のままベルトを巻ける可能性だってあるだろうな。」


つまり、今日の相手は相性が悪かったという話だろうか。


「無理に抑えれば暴発してどこかで暴れてしまいそうだったから、好きにやらせても勝てそうな相手なら好きにやらせようと思った。」


その割には今日の相手に関してだんまりだった。


「一回戦を見て、遠宮統一郎には…今日の相手な。今のお前ではあの子には勝てないと思った。だから打たれない事の重要性を知ってもらおうと思って、好きにやらせたんだ。」


最後の方は体が動かなくなった。


あれが効くという事だったのだろう。 


「それでもお前は全然堪えなかったな。お前は何でそんなに自分を傷めつけたがる。お前は俺の…俺達の夢だ。頼むから…あんまり打たれないでくれよ…。」


只、聞いていた。


懇願する様な細々とした声だった。


一人で戦っているつもりだったが、そんな事があろう筈は無い。


誰でも分かる事、俺だけが分かろうとしなかった事。


「悪かった…。」


これからは変わるという意味を込めて、その一言だけを伝えた。







後日、何の気紛れか自分でも分からないが、実家を離れてから初めて電話を掛けてみた。


「母さん?今年の年末には一回そっち帰るから。あ?…何もないって…それだけだから、じゃあな。」

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