佐藤修二 後編

そしてデビュー戦から五か月後、俺はついに初勝利を挙げる。


「よしっ、今年の新人王戦、取りに行くぞ。今のお前ならいける。自信を持て。」


試合後そう語った佐藤トレーナーの顔は、ここからが本番だと感じさせる厳しさがあった。


「はいっ。やれるだけ頑張ってみますっ。」


初勝利を電話で報告し家に帰り着くと、この日はすき焼きだった。


「頑張ったんだろ。その顔見れば分かるよ。まさか…こんなに続くなんてね。」


母ちゃんは、あまり見せた事のない優しい顔をしていた。


「修二も男になったって事だ。次の試合、見に行こうかと思うんだが…どうだ?」


向かい合わせに座る父ちゃんの言葉に恥ずかしさはあったが、俺の金でチケットを買っておくと伝えた。


そして、東日本新人王決定戦一回戦の相手が決まる。


相手は、森平ボクシングジム所属の遠宮統一郎。


「このジムちょっと調べてみたが、所属選手は一人だけみたいだな。何でも二、三年前に出来たばかりの新興ジムらしい。」


やはり佐藤トレーナーも相手は気になるらしい。


「一人しかいないって、スパーとかどうしてるんでしょう?」


一人しか選手がいない環境と言うのが、俺には想像出来なかった。


ここ三原ジムでは、多い時は二十人近くの選手が同時に練習している。


その為、一人で黙々と練習を続けられる精神状態というのが、全く分からない。


「だからこそ不気味ではあるな。その一人に全てを賭けるだけの可能性があると、そういう事かもしれん。」


言われてみると、確かにそんな気もする。


だが、考えた所でどうしようもないので、取り敢えず練習に戻る事にした。






そして東日本新人王決定戦が始まった。


「新人王戦は注目されるからな。観客も多いぞ。視線を自分に釘付けにしてやるつもりで戦え。」


佐藤トレーナーの言葉に頷くと、いよいよ決戦の時。


独特の緊張感が包む中、トレーナーの背に付いて通路を歩き三度目のリングへと駆け上がる。


リングアナの紹介も終わり中央で向き合った相手は、とても幼く見えた。


(何か可愛い顔した奴だな。…セコンドは二人だけか。本当にギリギリでやってんだな。)


「いいか?いきなり出ていくなよ、まずは様子見だ。相手の射程、タイミングを計れ。」


指示に頷いた直ぐ後、第一ラウンドのゴングが鳴った。


まずは指示通り十分な間合いを保ち、ジャブを突きながら相手の出方を見る。


最初に思ったのは、ジャブの速さ、距離感に対する違和感。


同じ体勢から放たれている筈のジャブが、一発一発微妙に距離がズレている。


そして、先に捉えたのはやはり相手のリードブロー。


(痛ってっ!このジャブ…やべえな。急所にもらったら倒されるかもしれねえ…。)


思わずバックステップで距離を取ってしまい、踏み込みを警戒する。


(あれ…来ないのか?もしかして打ち合いは苦手なタイプかな…。)


好機と見て、フェイントを混ぜながら打って出る。


すると、やはり相手は距離を取ろうとバックステップした。


(やっぱり!打ち合いは嫌いか!)


そう思い、更に追い打ちを掛けるべく踏み込んでワンツー。


その瞬間、相手の鋭い左が俺の右腕内側を走る。


何とか反射的に仰け反って直撃は回避するも、背中に嫌な汗が伝った。


(何だ今の…ストレート?ジャブと見分けがつかねえ…。ちょっと不味いかな…。)


そこから切り替える様にプレッシャーを掛けてくる相手に対し、有効な反撃を繰り出す事が出来ないままゴングを聞く事になってしまった。




「引くな修二。引けば良い様にやられるぞ。」


「向こうのジャブ、あれヤバいです。」


「そうか。ならもう一度だけ差し合い試して、駄目なら覚悟を決めろ。引き摺り込め。」


リードブローが有効ではない距離に引き摺り込め、という事だろう。


ゴングを聞き、中央でもう一度差し合いを試すが、どうにも分が悪い。


押される展開でロープが背中をこすり始めた時、覚悟を決めた。


(やってやる!自慢の左が使えない距離に引き摺り込んでやるよ!)


そして強引に前に出るが、相手の左が弾幕の様に張られ、中々距離を詰める事が出来ない。


(何でこんなに打ってんのに疲れねえんだっ…くっそっ、残り十秒かよっ。)


拍子木の音に焦りが出て、当たらないと分かりながらも振り回した所で、第二ラウンド終了。




「修二、開始直後だ。油断してる所…ぶちかましてやれ。」


はっきり言って、もうそれくらいしか活路を見出せない。


指示通り、ゴングを聞いた直後、猛然と対角線上にダッシュ。


だが、意外な事に踏み込んできたのは向こう。


意表を突かれ一瞬動きが止まるが、すぐ我に返るとフックを強振。


しかしそれを躱されると、クリンチでこの場を凌がれてしまった。


(くそっ、駄目だったか。こうなれば…被弾覚悟で突っ込むしかない!)


そして多少の被弾は覚悟の上で足を前に出し、取り敢えず臨んだ距離に引き摺り込む事には成功した。


(こいつのパンチは俺と大差ない…下のガードは捨てて上だけ気を付ければ…。)


近距離での打ち合いになるが、どちらも得意とは言えない展開。


決定打を打ち込む事が出来ないまま、第三ラウンドが終了した。




「はぁっ…もう一度…はぁっ…行きます。」


指示に耳を傾ける事無くそう伝えると、無言のまま頷き返してくれた。


ラウンド開始直後、先程と同じ様に突っ込むがどうやら今度は迎え撃つ様相。


そして右を思い切り叩きつけた瞬間、フックを引っ掛けながらくるりと体を入れ替えられてしまった。


(まだだっ!逃がさねえぇぇっ!!)


逃げる相手に追い縋る為振り返った瞬間、全身に痺れる様な衝撃が走った。


「…っ!?」

(…効いちまった…けどっ!まだまだぁ~っ!)


歯を食い縛り、下がる相手の左を受けながらも前に出続ける。


相打ちを狙い思い切り右を放つが、冷静にバックステップで躱された。


更に追い打ちを掛けようとした打ち終わり、


「…っ……っ!?」


綺麗にワンツーが俺の顔面を打ち抜いた。


何とか立っているという状態、恐らく軽く突かれただけでも倒れてしまうだろう。


(もう駄目だ…。こいつは強すぎる…。俺なんかじゃとても…。)


心が折れそうになっていた時、耳に馴染みのある声が届いた。


「修二~。頑張れ~。」


それは、両親の声だった。


(そうだよな…。このまま終わったら…何も………変わらないだろっ!!)


もう細かい事をする力は残されていない為、ただ力一杯、全力で振り回す。


「フゥ~フゥ~フゥ~~ッ…っ!…くぅっ!シィッ!!」


相手の猛攻に晒され、意識は朦朧となりながらそれでも力一杯打つ。


そして拍子木の音が響き残り十秒となった時、一瞬相手の気が逸れたのが分かった。


(……今っ!!)

「……シィッ!!」


体全体の力をこの一発に集約した、右ストレート。


当たる等とは思っていなかったが、それでも最後の意地を見せたかった。


だが、頑張っていれば幸運とは舞い込むものの様だ。


(当たった!?よく…分からんけど…倒せるっ!)


何も考えず打っただけの右が何故か相手を捉え、一気に攻勢に打って出る。


しかし、ダウンを拒否する様にしがみ付く相手を振りほどく力は既に無く、そのまま試合終了を告げるゴングが鳴った。






検診後、遠宮選手とすれ違った時、精一杯の強がりで挨拶を交わすと、


「彼、強かったですね。才能の差かな…。」


控室で、思わずそんな言葉が漏れてしまった。


「あの選手の強さは左に支えられたものだな。そして、一番才能とは関係ないのが、そこから繰り出されていた、ジャブだ。」


佐藤トレーナーの言葉に、悔しさで涙が止まらない。


「確かに彼はちょっと特殊な感じだったが、あの形はたゆまぬ努力の成果だろう。」


会場を出ると、目に涙を溜めた両親と鉢合わせた。


「修二っ、よく頑張ったねっ。お前のあんな姿、母ちゃん初めて見たよっ。」


「でもっ…負けたっ…勝てなかったっ。努力でも負けたっ。」


そう言いながら涙を流す俺に、父ちゃんも語り掛けてくる。


「まだ続けるんだろ?ボクシング、次やったら勝てる様に、頑張れば良いさ。」






それから少し経った後、俺はバイトを週二から週五に増やした。


フリーターである事には変わりないが、少しマシなフリーターには成れたのではないだろうか。


勿論ボクシングは続けており、今は次戦に向けて調整中だ。


ほんの僅かではあるが、俺は変われた様な気がする。


「修二、スパーするぞ。リング上がれ。」


トレーナーに促され、また今日もリングに上がる。


いつかまた、あの選手とリングで出会ったら、今度は勝てると自分に言い聞かせながら。

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