佐藤修二 前編

「修二っ!あんたゲームばっかしてないで仕事探しな!」


「…分かってるよ。この間だって、ちゃんと面接行って来ただろ…。」


「この間って…一体何か月前の事言ってるの?お母ちゃんご近所に恥ずかしくって。隣の健司君は……」


「だからっ、分かってるってっ!煩いなっ!」


母ちゃんといつものやり取りを繰り返し、用事は無いが取り敢えず家を飛び出す。


言ってる事は正論だし分かってもいるのだが、面と向かって言われるとどうしても反発してしまう。


因みに俺は『修二』という名だが長男だ。


それにも何か意味はあるのだろうが、尋ねた事はない。


昔から飽き性で長続きしたものはなく、そのせいもあってか、高卒で就職した会社は二か月も持たず辞めてしまった。


あれからもう一年、働く事もせずこうやってぶらぶらとしているのだ。


家にも帰りづらい、金も無いしで、取り敢えずコンビニで立ち読みをしていると、ガラスを隔てた向こうをスウェット姿で軽快に走っていく人の姿が見えた。


出てきた方向に目をやると、地元では有名なボクシングジム。


今思えば何故興味を持ったのか分からないが、ふらっとそのジムのある方向へ足が向いた。


しかし、扉を開けられるかと言われれば話は別で、やっぱり無理だと思い引き返そうとした時、


「おっ、見学か?いいぞいいぞ、ほら、早く入れ。」


後ろからやってきた、ガタイの良い五十歳前後だと思われる人物に捕まった。


「え?あ…いや…その…見学だけでも良いですか?」


「おう、いいぞ。いいから早く入れ。」


中に入ると今流行りのロックが流れており、思ったより明るい雰囲気だ。


バァンッ!ズバンッ!


いきなり大きな音が響き何事かと視線を向けると、一人の男が一心不乱にサンドバッグを叩いていた。


この人の事は知っている。


世界を狙えるボクサーだと、この間テレビで紹介されていたからだ。


確か今は日本チャンピオンで、二度防衛したばかりだったはず。


食い入る様にその姿を眺めていると、あまりの迫力に思わず腰が引けてくる。


(やっぱり俺なんかじゃ無理だ…。そもそも、何で俺こんなとこにいるんだ…。)


そう思ったが、そのひたむきな姿からどうしても目を離す事が出来ない。


ビーっとブザーが鳴り、どうやら休憩に入るらしい。


すると、先程サンドバッグを叩いていた松本選手がこちらに歩み寄ってくる。


「どう?ボクシング。興味出てきた?迷ってるなら取り敢えずやってみれば良いよ。誰かに強制されるもんでもなし、嫌になったら辞めれば良いんだしさ。」


先程の姿からはとても想像出来ない言葉を投げ掛けられ、少し呆然としてしまった。


だが、何故だろう。


自分と比べるべくもないほど努力している人が、それでもいいと言ってくれる。


それだけで何だか、やってみようかという気になっていた。






入会届をもらい家に帰った後、


「母ちゃん。あのさ…ちょっとお金貸してくんない?」


『ボクシングをやりたい』等とは切り出せず、用途を明言せず一月分の月謝をねだってみる。


「…いくら?……1万2000円?…何に使うの?」


やはり理由を伏せたままでは無理らしく、仕方なく話す事に。


「はぁ?ボクシング?あんたが?…やめときな。また直ぐに投げ出すよ。」


思った通りの言葉が返ってきて、それでもやると言える程の情熱は無い。


「そう…だよな。うん、変な事言ってごめん…。」


そう伝えた後、部屋に戻って漫画でも読もうと思い引き返すが、何故か襟首を掴まれた。


何事かと思い振り向くと、母ちゃんが財布を取り出している。


「ちょっとお待ち。…後で返すんだよ?それと毎月掛かるんならバイトでも良いからその位は稼ぎな。」


何の気紛れか、財布から二月分の月謝二万四千円を差し出してきた。


はっきり言って母ちゃんはケチだ。


それなのに、こんな大金をポンと出すなんてとても信じられなかった。


俺はその行動の意味が分からず、首を傾げてしまう。


「あんたはあんたなりに変わろうとしたんだろ?だったら、頑張ってみな。」


母ちゃんは、取り出したお金を押し付ける様に、早く取れと催促している。


「…ありがと。母ちゃん。」


お礼を言うなど何時以来だろうと考えながら、お金を受け取った。


その夜、帰ってきた父ちゃんにも話したが、別に良いんじゃないかとの事。


そしてなけなしの貯金を使って運動着とバンテージを買い、次の日もう一度ジムへと足を向けた。






「おおっ、来たか。入会届と月謝。確かに頂戴致しました。名前、俺と同じ佐藤なんだな。」


提出した入会届を見ると、ガタイの良いトレーナーがそう語った。


「あ、はい。佐藤修二っていいます。よろしくお願いします。」


「よろしくな。じゃあ先ずは、バンテージ持ってきたみたいだし、それの巻き方教えるか。」


そう言った後、丁寧に説明しながらゆっくりと俺の手にバンテージが巻かれていく。


そんな自分の手を眺めていると、それだけでボクサーになったみたいでカッコいい。


「よし、じゃあこっち来て。ますは、構え。利き腕は?右利きね。」


大きな姿見の前に案内され、トレーナーの構えを真似て俺もファイティングポーズを取った。


テレビの試合でよく見る基本通りの構えを教えてもらった後、ジャブの打ち方へと入る。


「そう、脇は締めてな。じゃあ、暫くはそれ続けてて。」


佐藤トレーナーはそう言い残した後、他の選手の指導に向かった。


このジムは比較的大きいジムであり、当然選手も大勢いる。


その為、素人の俺ばかりを見ている訳にも行かない様だ。


トレーナーも数人いるが、それでも間に合わず色々な選手を代わる代わる見ているらしい。


その後も言われた通りの打ち方を一人で延々と繰り返していると、


(何か…つまんないな。俺もサンドバッグとかやりたいんだけどな…。)


元来飽き性な為、まだ三ラウンドもやっていないと言うのに早くも嫌になってきた。


それを見越してか、佐藤トレーナーが戻ってきてアドバイスをしてくれる。


「つまんないかもしれないけど、これが出来ないと始まらないから、もう少し頑張って。」


そんな風に優しくされると、飽き始めていた自分が恥ずかしくなってきた。


更に数ラウンドほど繰り返した後、ワンツーの打ち方を教えてもらう事に。


「そうそう。もう少し、グッとこう、肩と腰を、そうそう良いね。」


恐らく、俺の様な奴に教えるのも慣れているのだろう。


佐藤トレーナーの指導は、あまり褒められ慣れていない者にとって非常に気持ち良いものだ。


その甲斐もあってか、俺にしては珍しく数か月経っても続ける事が出来ていた。


だが毎月母ちゃんに月謝をねだる訳に行かず、せめてその位稼ごうと思い週に二回土日だけだがコンビニでのバイトも始めた。






そして半年ほど経った頃、佐藤トレーナーからある提案を持ち掛けられる。


「修二君さ、どうせならプロ目指してみない?本気でやると苦しいけど、その分、達成感もあるからさ。」


正直迷った。


こうやって身近で練習を見ているからこそ、その厳しさも分かっている。


只の憧れや勢いだけで務まる様なものではないと、理解してしまった。


答えは保留にしてもらい、帰ってからゆっくり考える事にした。


風呂に入った後、自室で胡坐を掻き昼間の話を思い出す。


(俺がプロボクサー…出来るのか?あんなに走れるか?減量に耐えられるか?)


自分の性格や可能性と照らし合わせて現実的に考えていく。


(でも…変わりたい。今の俺には何も無い。それで何かが変わるなら…やってみようっ!)


次の日、佐藤トレーナーに答えを伝えた。


「どこまで出来るか分かりませんけど、宜しくお願いしますっ!」


その日から練習メニューもがらりと変わった。


佐藤トレーナーも、今までの優しいだけではない厳しい一面も覗かせる様になり、毎週のように心の中では弱音を吐いていた。


(苦しい…もう辞めようかな?いや、どうせなら来週まで頑張ってみよう…。)


そうやって刻みながら少しずつ耐えていき、ジムに通い始めて一年が過ぎた頃、俺はプロテストを受け何とかライセンスを手に入れる事が出来た。


そしてプロボクサーになって四か月後、デビュー戦のリングに上がるが、結果は緊張のせいかよく分からないうちに終わり、判定負けだった。


それは俺の心を沈ませるには十分な出来事で、辞めようかと考えていた時、


「デビュー戦残念だったな。でも、まあ気にすんな。俺もデビュー戦負けてるしな。」


インターバル中に声を掛けてきたのは、松本選手だった。


「そんな意外そうな顔すんなよ。別に珍しくもねえぞ。世界チャンピオンだって負けてる奴いんだから。」


今やジムの看板選手になり、世界へ飛び立とうという選手でさえ初戦で躓く事がある。


そう思うと、俺にとって雲の上の存在であった彼らが、急に身近に感じられた様な気がした。


(諦める前に、もう一度だけ、もう一度だけやってみよう。)


この日から走る距離と回数を増やし、自分の至らない点等をトレーナーに積極的に聞く様に心掛け、日々の練習の中で修正していく。


俺なりに出来る事を精一杯積み重ねたつもりだ。


これで結果が出なければ、はっきりと諦めもつくだろう

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