松田隆文 後編

試合当日、会場入りは予定よりも早い時間になった。


本日の興行はこちらのジムが主催している為、色々やる事があるらしい。


メインイベントを張るのはうちの日本ランキング三位の選手で、もういつタイトルを狙っても良い位置につけており、佇まいからもその緊張感が垣間見える。


控室では言わずもがな、この試合に勝てばいよいよ上が見えるという状況、ピリピリしない訳等無く真一文字に口をつぐみ集中しており空気がひりついていた。


それでも自分は自分と心の中で念じ椅子に座り瞑想に耽った後、その時に備え体を動かし始める。


そして本日の第一試合の開始時間、つまり自分の出番が到来した。


「緊張しすぎんなよ。柔道の試合と同じだ。勝者がいて敗者がいる。それだけだ。」


山本トレーナーのアドバイス通り、今までの練習を思い出しながら深呼吸して入場する。


だが、照らされるライト、近い距離の観客、それら全てが俺の経験してきた舞台とは別物だった。


それでもリングに上がればやるしかないと覚悟が決まり、自然と落ち着きを取り戻す事が出来た。


畑違いとは言え、幼い時分より戦いの世界に身を置いて来た事が活きているのかもしれない。


「おい、見ろ隆文。相手舞い上がってるぞ。開始直後から思いっきりプレッシャー掛けてやれ。」


そう言われ相手を見やると、分かりやすい程に地に足がついていない。


闘争において相手の弱みに付け込まないなど有り得ず、第一ラウンド開始直後から攻勢を仕掛け、終了間際にはダウンを取る事さえ出来た。


「よっしゃ、良いぞ隆文。行けるぞ。決められるなら次で決めてこい!」


上出来と言っても良いだろう出足に、自陣からも強気な発言が飛び出す。


山本トレーナーの言葉を頷きながら聞いていると、相手コーナーからパチンッ!と言う音が響いた。


(何だ?気付けの張り手でもしたのか?)


相手トレーナーが影になって分からなかったが、多分そんな所だろうと推測した。


そして第二ラウンド開始直後から押し切るべく真っ直ぐに突っ込んでいく。


目標の獲物が視界に入った時、先程迄の浮足立った雰囲気が消えている事に気付いた。


だが臆せず踏み込むと、そこから鋭いジャブが放たれ、グローブが肌を弾く乾いた音が会場に響く。


「…っ!?」


最初の一発をもらった瞬間、そのあまりの痛さに体の動きを止めてしまった。


(なんだこれは…。ジャブなのか?なんて痛さだ。拳が固い…。)


異常だったのはそれだけではない。


先程迄はがむしゃらに打ち返してきた相手が、軽快にリングを広く使い我が物顔で動き回り、今では触れる事さえ難しい。


そのあまりにも一方的な展開に、コーナーに帰った時俺は見るも無残な姿になっていた。


見た目だけではなく異常な息苦しさも感じており、厳しい戦況である事を己に悟らせる。


「隆文、まだ行けるか?向こう、さっきまでとはまるで別人だな。」


トレーナーの表情も幾分か強張っていた。


「松田先輩っ!まだまだこれからっすよっ!!」


観客席から響く後輩の声援も聞こえている現状、このままでは終われないという覚悟が沸き上がってくる。


第三ラウンドが始まると、相手から何故か先程迄あった威圧感を感じない。


それでも軽快な動きはそのままで、終始相手ペースのまま最終ラウンドに入った。


コーナーに戻ると、相手のあまりの変貌ぶりにトレーナーさえも困惑しているようだ。


「何なんだあの選手はっ、不安定にも程ある…。あれじゃどう作戦立てりゃいいんだか…とにかく向こうがさっきの出来なら勝負にはなるな。」


そう語るトレーナーの言葉に、頷きながら今一度気合を入れ直した。


(そうだっ。迷うなっ。俺に出来る事等多くない!)


そう覚悟を決め進み出ようとした時、先に距離を詰めて来たのは相手の方、そしていきなり右を放ってくる。


それはまさにこちらがやろうとしていた事であり、出端を挫かれる形となった。


そこから強烈なボディをもらい、この試合初めて後退を余儀なくさせられる。


相手はここを勝負所と見たようで、その拳に強い意志を乗せ連打を纏めてきた。


今までの経験から、追い詰められた時それが逆にチャンスにも変えられる事を知っている。


ガードの隙間から覗き込んで相手を睨み、その機が来るのを只々耐え続けていた。


(溜めろっ。溜めて爆発させる機会を待つんだっ。………今っ!)


間隙を縫い放たれた渾身の左フックは、相手の鼻先を掠めるに留まった。


(まだだっ!!)


まだ勝負はついていないと、力一杯返しの右を振る。


「…っ!??」


瞬間、体から力が抜け、天地が引っ繰り返る様な感覚に襲われた。


何が起こったのか分からず困惑しながら周りを見渡すと、レフェリーのカウントが聞こえ、初めてダウンした事を悟った。


耳には様々な声が聞こえてくる。


トレーナーの声、後輩の声援、ざわめく観客の声。


「まだ終わってないっすよ!松田先輩っ、ガンバ!」


その声が聞こえた時、意志だけでもう一度力を振り絞り立ち上がった。


(まだだっ。まだ終われないっ!)


後輩達の声援に後押しされ、歯を食いしばって相手を睨む。


向こうはここで決める気らしく、その目は先にある決着を見据えていた。


(来るなら来いっ!最後まで立ち続けて迎え撃ってやるっ!)


残り時間、意識も途切れ途切れになりながら、それでもこのまま負ける訳には行かないと強い意志を込め打ち続ける。


判定の結果は覚悟していた。


それでもいざ結果を聞くと、今までの人生では無かった程の悔しさが込み上げてくる。


リングを降り医務室へと向かう途中、自然と涙が溢れ、己への情け無さでどうしようもなくなった。


検診の結果、鼻の軟骨が折れていたらしく、息苦しさはそのせいであったらしい。


「まだまだこっからだ。お前はこれから強くなる!」


山本トレーナーの言葉に、歯を食い縛りながら震えた声で返事を返す。


その後、パワーをより生かすため階級を上げる事を提案され、俺はその方がより自分の力を活かせるのならと思い承諾した。


心残りがあるとすれば、もう一度あの選手と試合をし強くなった自分をぶつけてみたかったという事だろう。


彼には本当に感謝している。


自分がボクシングという競技に対し、これほどに本気である事を気付かせてくれたのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る