第5話
「谷口、西日本新人王の前に一試合挟んで調整しよか。負けたまんまじゃ良いイメージ沸かんやろ。」
トレーナーの提案を呑んだ数日後、今年も終わりに差し掛かり冬本番という時期、二試合目のリングに上がった。
「頑張りや~せいじ~。」
相変わらず母の声が響いており、押される様にまたも激しい打ち合いになった。
だが今回は気合で勝ったか、全局面でこちらが優勢に試合を運び、文句無しフルマークの判定勝ち。
リングから引き揚げる際にも母の声は響き、その内名物になりそうな気さえした。
「よ~し谷口、これで弾みがついたやろ。取りに行くで、新人王。」
少し興奮気味に話す岡田トレーナーに、俺も気合の入った返事を返す。
だが、新人王戦までもう少しという頃、母の職場から電話があり、
「……え?母ちゃんが倒れた……?」
取るものも取らずとにかく急いで病院へ向かうと、母の意識は既に戻っておりこちらに視線を向け微笑み返してきた。
意外に元気そうな姿を見て安心したが、その後、医師に別室へ案内されると母の容態に対する説明を受ける。
「ステージ4の乳癌です。数か所の骨、肝臓、そして肺への転移が見られ、完治する望みは薄いと言わざるを得ません。これからの事ですが………」
頭の中が真っ白になった気がした。
茫然とした状態のまま一通りの説明を聞いた後、母の待つ病室へ。
何と伝えればいいのか分からず、只ぎこちない笑みを浮かべる事しか出来なかった。
「そんな顔せんでええよ。分かっとるから、…ごめんなぁ、これからやのになぁ。」
一番辛い筈の母に、こんな顔をさせている自分の弱さが許せなかった。
「オカン、末期の癌やて。完治は無理やって。苦痛和らげる治療あるらしいからそれしよな。」
俺が涙を流しながら語った言葉に、母は動じる事もなく頷いた。
「それいいな。苦しないのが一番や。家にも帰れるんやろ?」
これからの事を少し話した後、取り敢えず一旦家まで着替えを取りに戻る事にした。
家に帰り着くと、言葉にしようもない感情が涌き上がってくる。
「なんでやっ!これからやろっ!俺が稼げる様になってっ…これから楽になるんやろが!くそがぁぁぁぁぁっ!」
怒りをぶつける矛先等ある訳も無く、ただ床を叩き続けていた。
「…俺がオカンの為に出来る事はなんや……勝つ事や。それしかあらへん。」
それからは基本、定期的に通院。
俺が家にいない時は近くのおばさんに頼みこんで、母を見てもらう事が出来た。
その人は紀子さんと言い、既に年金生活のため自由が利くという理由もあってか、母の世話を二つ返事で引き受けてくれた事には本当に感謝してもしきれない。
幸いな事に元々母とは仲が良かったので、嫌々ではなく楽しそうにしていた事も救いだ。
そして西日本新人王決定戦、第一回戦。
出場選手は全部で八人、シードは逃したが四回勝てば良いだけの話だ。
「岡田さん、俺は何が何でも勝ちたいです。つまらない試合でも構いません。今は勝つ事が全てです。」
俺の事情を知っているからか、いつもの軽口は叩いてくれず黙って頷いていた。
母には必ず勝ってくるからと言って、家で待ってもらっている。
ある種の悲痛な覚悟を胸に、俺はリングへと上がった。
そこからの試合は、徹底的にリスクを回避した立ち回りを意識した。
カウンターを狙えるタイミングでも、僅かに被弾の可能性があるならクリンチで凌ぐ。
だがそんな試合をしていれば、当然観客からはヤジが飛ぶ。
とても母に自慢できる試合では無かったが、それでも俺は勝ち進んだ。
元々岡田さんからも距離を取って戦うのが俺に向いたスタイルだと言われていた様に、その作戦は見事に嵌り、殆ど顔に傷を作る事もないまま勝ち星を重ねていった。
そして遂に、全日本新人王の舞台まで勝ち上がる事が出来た。
同時に、一つの覚悟を決めなければならない時も迫っていた。
「おかん、勝ったで!次は全日本新人王や。場所は遠いけど見に来てくれるか?」
この為に、一番輝く舞台で俺の姿を見せる為だけに、ヤジを飛ばされても耳を塞いできた。
医者の話ではもう半年も持たないらしく、母に見せられるのは次が最後になる可能性が高い。
「ええんか?なら、行かせてもらおかな…。」
その体は痩せこけており、見るだけで溢れそうになる何かを堪えなければならない。
「すいません紀子さん。大変かと思いますが、どうか宜しくお願いします!」
実際に一番大変なのは面倒を見る紀子さんかもしれないので、感謝を込めて深々と頭を下げた。
「かまへん、かまへん、一緒におるの楽しいから寧ろこっちから頼みたいくらいやわ。」
その晴れやかな笑顔に、俺の心は本当に救われた。
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