翌日、僕はまだ、『愛(I)』を知らない
自覚もなく、六年越しに実った僕の『恋』は二段ほどステップを超えてしまった感じがする。
彼女―――瑞樹さんとは、手を繋いだこともない。
理科の実験とか家庭科とか、小学校の授業で体が触れる、ことはあったかもしれない。
だけど、男女の仲として触れる、なんていうことは一度たりとて無かったのだ。
手紙を送ったその日の晩は、緊張と興奮、不安で眠れなかった。
自分が眠れなかった、と自覚したのはカーテンから差し込む日差しが眩しいことに気付いてからだった。
ああ、もう朝なのかと。ぼんやりした頭で考えていた。
ベッドからのそのそと抜け出し、回らない頭でお母さんに「おはよう」と声を掛ける。
お母さんは「眠そうね」なんて言ってるけど、寝起きの僕と大して変わらないからか特に気にした様子もない。
僕もお母さんのいつもの対応を気にもせず。いつものように出されたトーストを機械的に咀嚼して牛乳で流し込んだ。
歯磨きをして制服に着替える頃にやっと意識が覚醒し始め、玄関でスニーカーの靴紐を結び始めてやっと、僕は思い出したのだ。
「あ、お母さーん」
洗い物をしていたのか水道の音が途切れ、お母さんが玄関へ姿を見せる。
「どうしたの?何か忘れ物?」
「ううん。そうじゃないんだけどね」
一応、言っとかないと。
「僕、今日結婚するらしいんだ」
「———は?」
「それじゃ。行ってきます」
お母さんは口を開けていたが僕はいつもと変わらない調子で学校へと歩き出す。
———なんか。おかしなこと言ったかな。
「…………思いっきり言ったわ」
学校に着いてから僕は自分のしたことのとんでもなさに頭を抱えた。
何が『結婚するらしい』だよ。他人事か。僕の話だよ。
「朝から百面相してどうした?」
声を掛けてきたのはクラスで唯一といっていいオタク友達の桧山君だった。
「え、ああ。おはよう」
「おはよう」
僕の挨拶に桧山君は顎に手を当てて考える仕草を見せる。
桧山君は、僕と違って端的に言えば美形だ。
垂れ気味の目と泣き黒子。身長は180cm近くある。体形もすらりとしていてそうしているとモデルのような男だ。
そんな彼と僕が何故仲良くなったのかと言うと、去年の修学旅行でロボットアニメの話で非常に盛り上がったのがきっかけだった。
『好きなものを好きと言い張れるなら俺はオタクで良い』と言い切る気風の良い男なので、僕としては憧れですらある。
「ところで桧山君、スピーチって得意?」
「どうした藪から棒に」
「いや、ちょっと」
「お前も知っての通り俺にスピーチなんてやらせたらオタク特有に早口構文になるし最後は『立てよ国民!』で締めるぞ」
———そういえば彼は根っからのジ〇ニストだった。
「OK。別にモノアイと流線型がもたらすデザインの素晴らしさについて議論するつもりはないよ」
「違うのか」
「残念ながら」
僕はバイザー型のカメラアイもカッコいいと思うのだが。
「ともかく。もしかしたら頼むかもしれないから。その時はよろしく」
「どういうことだ」
「申し訳ないがいくら君でもここから先は言えない」
「俺が信用ならんというのか。自分で言うのもなんだが口は堅いぞ」
そうじゃない。そうじゃないんだ桧山君。
「この件は僕自身まだ現実感がないんだ……だから妄想なのかもしれない……」
『六年間文通のみの交流を続けていた初恋の相手から彼女の名前が書かれた婚姻届けが送られて来た』なんて話、誰が信じるというのだ。
いくら桧山君でも『美少女ゲームのやりすぎか?生憎俺はそちらの方には疎くてな。婦女子に興味が無いとは言わんがこう―――俺はもっとこう。熱く燃え上がるものが欲しいんだ』と言われかねない。というか言われた。なので目下、『ストーリーの熱い美少女ゲーム』を僕の持っているオタクネットワークを駆使してセレクションしている最中―――ってそうじゃない。
「ふむ……言いたくないなら構わんが」
何かを察したのか桧山君は食い下がらずにいてくれた。
この距離感の取り方が僕にとっては心地よかった。
「但し気を付けた方が良いぞ。俺はともかく、周りが不審がっている」
「えっ?」
周りを見ると、教室にいた何人かが僕の方を伺いながらひそひそと話をして―――目が合うとあからさまに嫌そうな顔をして逸らされた。
「俺は周りがどう言おうと気にせんが―――お前はその。少し、その辺が繊細な男だからな」
「……気を付けるよ」
少なからずショックを受けている精神面の脆さを自覚しながら僕はため息を付く。
「自信を持て。周りが何と言おうと。お前はお前だ。だから―――」
「『お前を信じるお前を信じろ』だろ?」
「うむ」
お互い拳をぶつけてにやりと笑う。今のもロボットアニメの台詞だ。
「分かっているならそれでいい。何かあったら話くらいは聞くぞ。ではな」
桧山君はそう言うと振り返り、真っすぐに自分の席へ戻っていく。
「分かっては居るつもり、なんだけどなぁ……」
再びため息を付くと、担任の藤田先生が教室へと入ってくる。
先生はいつもと変わらぬ平坦な口調で生徒の出欠を取る。
僕は自分の番まで少しだけ目を瞑っていようと思い―――、そのまま意識を落としてしまった。
「言葉というのは所詮、振動だ」 釈乃ひとみ @jack43
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