第6話:心の渇きを牛乳瓶に詰め込んで

翌日の学校。教室に入り、カバンから教科書やノートを机の中に移していると、後ろから肩を小突かれた。

「なあ、消しゴム2個持ってへん?昨日消しプロでどっか飛んでったん忘れてて、ないねん。」

ドキッとした。昨日頭の中に何度も何度も響いた声。そう、飛松君は僕の後ろの席だった。

「あ、持ってへんけど、俺の消しゴムでかいから2個に割ったるわ。」

「ええん?ありがとう。」

「いいよ、はい。」

そんな二言三言の会話を僕は必死で絞り出していた。口がからっからに渇いて、頭はどうにかなりそうだった。僕の返答があまりにもそっけなかったのか、それとも事務的だったのか、消しゴムを受け取った飛松君は、「返すの6時間目終わってからでええ?」ときょとんとした顔で僕を見つめてきた。その日に焼けた顔と子犬のような目、「ごめんな」と声に出しているかのような気まずそうな表情に胸がキュンとした。実際にキュンという音が体の中に響いた感覚だったこともあり、心と体が分離したような経験に僕の頭は混乱を極めていた。そして「いいよ、いつでも…」と言って、そっけなく、急いで前を向くのが精一杯だった。


その日は驚くほどのスピードで進んでいった。自分に今起こっている現実をどう理解するべきかばかりが頭の中で交錯していた。幸運なことに飛松君は僕の後ろの席。一日中目を離せないような状況に陥ることもなかった。何度も何度も後ろを振り向いて顔を見つめたい衝動に駆られたけれども…。

給食の時間になった。給食当番で何を運ぶかは教室の掲示板に貼られた手作りのルーレットで毎日変わる。僕は心の中で「とびやん(飛松君)と一緒になりませんように」と祈り続けていた。「ボウル当番でありますように…」。ボウルは唯一1人で運ぶのを許された役割だった。班長の高木君が「回すで」と言ってルーレットを回す。僕は恐る恐る閉じた目を開けた。牛乳係だった。それが分かった瞬間後ろから、「また俺牛乳やんか~」と飛松君の声が耳に入ると同時に、僕は心から自分の運のなさを恨んだ。牛乳係は牛乳瓶の入った黄色いケースを運ぶ。僕のクラスには20個入りのケースが2つあてがわれていた。給食後は空の瓶を運ぶことになるので、1人が1ケースを運ぶ。ただ、中身が入った牛乳瓶が詰まった配膳前のケースは重すぎて1人では運べない。だから2人が協力して2往復することになる。その日の僕にとってはとんだ災難というわけだ。

茫然とたたずむ僕に飛松君が、「はよ行こうや」と声をかけてきた。僕はハッとして、うなずいた。それがやっとだった。

給食室に向かう間も飛松君が僕に話しかけてくる内容は全くといっていいほど頭に入ってこない。僕はとにかくうなずき続け、昨日見た飛松君の裸や、昨夜妄想に出てきて僕にちょっかいをかけた飛松君のいたずらっぽい笑顔を頭から振り払おうとしていた。

「今日はご飯とポークビーンズに、中華卵スープやって。それに牛乳ってありえへん組み合わせやんな」と、飛松君の熱弁は続く。

「俺たぶん今日、食べ終わんの遅くなるわ。嫌いなもんばっかやもん。先にいっぱいになった方のケース返しに行ってな。俺、残った方をあとから自分の食器と一緒に持ってくわ。」

僕は、これで少しでも2人きりの時間を削減できると思い、「うん、分かった。その方がとびやん急がんでええもんな」と言って、少しほっとした感情を顔に出さないよう努めた。

気持ちに若干のゆとりができたからか、配膳は思ったより何事もなく進んだ。ただただ飛松君の顔を見ないように、目を見て話さなくてもいいように、それだけを心掛けた。でも、声が聞こえるたびにそっちを向いて目を合わせたい衝動に駆られ、胸がぎゅっと締め付けられるように痛んだ。


なんなんこれ…。俺、好きなんかな、とびやんのこと…。

何度となくこんな思いが僕の頭をかすめては消えていった。いや、頑張って掻き消していた。そんなはずないやん。そんなんおかしいやん…。

大嫌いだったポークビーンズも、その日は気にならなかった。ただただ黙々と給食を平らげた。食べることにあまりにも没頭する僕を班のみんなが見つめているのを感じて、少し居心地が悪くなった。けれども取り立てて何も言ってこなかったので、僕は下を向いたまま食器を重ねると教室の前の配膳台に向かった。そんな僕に佐藤先生が、「もう食い終わったんか、お替りあるから食えよ」と言ってきた。僕は「今日はやめとくわ」と言って、うつむいたまま手洗い場に急いだ。顔をあげるとなぜか涙が出てくるような気がしたのだ。とにかく、ここで泣いたら大変なことになる…それだけは確信していた。手洗い場で少し落ち着いてから教室に戻ると、みんなぞろぞろと配膳台に向かい、使い終わった食器を各々片づけ始めていた。僕が席に着くと高木君が「腹でも痛いん?大丈夫?うんこしたいんやったらカバーしたろか?」と班長面で聞いてきた。当時の小学校では「男子の大便所=うんこ=冷やかしの対象」と決まっており、基本暗黙のご法度。一度でも見つかった人間は、どんなに人気があっても地に落ち、ひどい思いをする。高木君もカバーするとか言いながら、僕が入った途端にみんなを呼び込んで冷やかすだろう。僕は無理に笑顔を作って「大丈夫、ありがとう」と返した。そうこうするうちに日直の男女が教室の前に立ち「手を合わせてください。ごちそうさまでした」と言った。続いて教室のみんなが「ごちそうさまでした」と斉唱した。

僕は立ち上がると飛松君に少し視線を移した。宣言通り、もたもたもたもた、半分以上の食べ物が残っている。そんな飛松君に高木君が、「とびやん、食べ終わったら自分で食器持って行きいや。とびやん以外はみんな食器運び開始!」と命令した。そしてクラスで数名食べ終えてない人に「食べ終わってへん人、給食当番は片づけ始めますから、自分で配膳室に持ってってください」と偉そうに言い放った。

そんな高木君にイラっとしたけど、僕は満杯になった方の牛乳ケースに駆け寄るとそれを持ち上げてそそくさと教室を後にした。配膳室にケースを返し、教室に戻ると、飛松君はまだ食べていた。ほかの数名は食べ終わったのだろう。昼休みの教室には数名の女子とゲーム系男子、それに飛松君しかいなかった。僕は仕方なく、「とびやん、もう一つのケース運んであげようか?」と声をかけた。飛松君は、「ほんまにええの。ごめん!マジでポークビーンズ無理やねん…捨てたろっかな…」と本気に悩んでいるようだった。飛松君と話すことはおろか、その日は見つめることも難しかったので、僕はもう片方のケースを持ち上げ、「俺もポークビーンズむっちゃ嫌いやねんで!貸しやからな!」と言った。自分から提案したのに…と若干恥ずかしい気持ちもあったが、飛松君は「ほんまありがとう!あ、牛乳飲み終わったから、持って行ってくれへん?」とケースの最後の1区画に瓶を入れた。僕はギョッとしたが、顔を見られないように、わざと冷たく「厚かましいやっちゃな」と言って教室を出た。

配膳室への道すがらドキドキが止まらなかった。僕は新たな衝動に今まさに負けそうになっている。歩きながらも目線は一点に集中していた。それはもちろん、飛松君の飲み終えた牛乳瓶。縁に少し白い牛乳が溜まっている牛乳瓶。普通なら「汚い」とされるもの。特に小学生にとっては誤って手に付いただけで、「菌」呼ばわりしかねない危険性に満ちたもの。でも僕の頭はその牛乳瓶を持ち上げ、口に運びたい欲望に支配されていた。すでに「舐めるべきか」と悩む段階は越え、「どこでどのように舐めるか」に課題は絞られていた。とにかく見つからないように実行しなくてはならなかった。

指に付けて、舐める…?いや、それじゃ間接の間接になる。納得できなかった。僕は教室のある3階から、4階の屋上に向かう階段を誰にも見られていないことを確認して駆け上がった。屋上は勝手に入れないように鍵がかけられているため、基本階段には誰もいないはずだった。その日に限って誰かが「告白」の場所にそこを選んでいないことを猛烈に祈った。猛スピードで死角になる場所に身を隠し、ケースを下に置くと、飛松君の飲み終えた瓶に手をかけた。そして唇に激しく塗りつけた…。

僕は頬が紅潮していくのを感じた。何とも言えぬ快感だった。ひとしきり舐め終わった瓶の縁には、もう牛乳はなかった。僕はドキドキする胸の鼓動を他に聞かれるのではないかと怯えながら立ち上がり、階下に人気がないのを確認すると、一目散に配膳室のある2階に駆け下りた。先生がいたら「お前、牛乳瓶ケース持ちながら階段走るなや!」と怒鳴られていただろう。でもその時の僕はそれどころではなかった。誰にも見られていないはずなのに、とんでもない罪悪感と満足感、それに何とも言えない快感を噛みしめていた。配膳室にケースを返すと一気に力が抜けた。普段ならそこから運動場に出て、好きでもないドッジボールに入れてもらおうとするところだが、その日は気が引けた。さっきまでは目を見ることもできなかった飛松君の顔を、そして唇を見たくて仕方なかった。教室に戻ると、女子もみんないなくなり、例のゲーム系男子数名だけが、お手製のアナログRPGを「敵の攻撃!バボボボ!」などと言いながら楽しんでいた。今思い出すと、すごく凝ったゲームを作っていたなと感心する。それはさておき、僕が教室に入るとみんなの視線を感じたので、「とびやん、食い終わった?」と聞いた。するとゲーム系の足立君と東君が、「もう無理って言ってポークビーンズ残したまま、食器持ってったで」と答えてくれた。「そうなんや~」とぎこちない笑いを浮かべて、さてどうしようと思っていると、東君が「次、やる?」と聞いてきた。僕は「ほんならいっぺんやってみよっかな」と加わることにした。

本当によくできたゲームだったが、当然のことながら僕の頭は全く別のことを考えていた。「どうする?戦う?」とか、「武器買うん?買わないん?薬草は?」と何度も確認されたことだけ覚えている。


昼休みがあと5分で終わるという一回目のチャイムが鳴り、少しずつみんなが戻ってきた。僕も席に戻り、5時間目の教科書とノートを用意していると、後ろからポンと肩をたたかれた。振り向くと飛松君が満面の笑みを浮かべて、「なんでドッジこうへんかったん?それより、給食当番任せてごめん!今度なんか代わるから!」と言った。僕は既に顔が紅潮し始めるのを感じていた。もう、さっきまでの飛松君と僕の関係じゃない…。それだけは確実だった。だから何も言えなかった。すると飛松君は「なー、怒らんといてや~」といたずらっぽく言ってから、突然僕の頭にヘッドロックをかけてきた。心臓がもう口から出ていたかもしれない。とにかく頭がくらくらするくらいの緊張と恐ろしいほど大きな興奮が押し寄せた。できればそのまま身を委ねたい気持ちを何とかこらえ、僕は咄嗟に飛松君の手を払った。そして上ずった声で、「ほんまに貸しやで!」と、やっとの思いでいら立ちを演出した。飛松君はニヤッと笑うと手を合わせて「おおきに~」と口を動かした。


昼からの授業のことはあまり覚えていない。紫式部がどうとか、百人一首を年明けに向け少しずつ覚え始めろ、のようなことを言われていた気がする。とにかく、考えないようにしても、飛松君と誰も知らない秘密を持ったような感覚に陥り、一人でドキドキしていた。戸惑いと歓喜が入り混じる、小学生には複雑過ぎる感情を人知れず噛みしめていた。


その日の夜、夢には飛松君が出てきた。逃げ惑う僕に、半分に割られた消しゴムを口に入れた飛松君が、にこにこしながら僕の体に当てようと追いかけてくるという何ともおかしな、そして若干恥辱的な夢だった。僕は「やめてや~」と嫌がりながらもじゃれるように飛松君に抱きついた。飛松君は座り込むと自分の膝を指さし、僕に頭を置くように命令した。僕は嫌なそぶりを見せながらも従い、頭を預けた。飛松君は僕の顔を上に向け自分の顔と向き合わせると、今度は消しゴムでなく唾を少しずつ僕の顔に向けて垂らし始めた。僕はその唾から顔を背けるそぶりをしながら最終的には飛松君が強制的に僕の口を開けて唾を垂らしてくるのに身を任せていた…。あまりにもリアルな夢だったため、今でもその夢で目を閉じたまま唾を垂らしてくる飛松君の表情をよく覚えている。

飛松君の関係が、僕の中で完全に崩壊した夜だった。


翌朝僕は、生まれて初めて「夢精」していた。

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コリガン家の花婿 朝野珈琲 @RooinBath

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