第5話:ファーストラブは突然に

小学5年生で初めて同級生に恋をした。

いや、恋ではなかったのかも。単に性欲があふれたと言った方がいいかもしれない。

この恋を語る前に、大人の階段を昇った話をしておいた方がいいだろうか。それこそH2Oの歌がぴったりな、あだち充の漫画のような胸キュンの話…ではもちろんない。単純に物理的に「イッタ」のだ。小学4年から5年に上がる頃だろうか。いつものように獣のような狂おしい時間を大いに満喫していると突然、下半身に今まで感じたことのない「絶頂」が訪れた。そしてその数秒後に生まれて初めて精液の存在を確認した僕は、この上ない快感が人生最大の恐怖に代わっていくのを感じていた。

「何?病気?それとも俺は実は宇宙人とか?マジでばい菌が入ったとか…」

とにかく頭は大パニック。いつもの小さな背徳感と罪悪感は一気に絶望感に支配されたが、「悪いことをしている」と感じている人間は、まずは証拠を隠すものである。僕も例に漏れず何とかその場をきれいに片づけ、何事もなかったかのようにその日をやり過ごした。しかし、のど元過ぎれば何とやら。病気かもしれない…という恐怖は翌日になると、「きっと昨日は体調がおかしかったんや…」になっており、いつもの通り自慰行為を始めた。

その日は少し様子が違った。今までなら体が興奮に覆われる前に頭の中でストーリーの流れを楽しむ余裕もあったのだが、その時は一気に波が押し寄せ、股間から噴き出した。まるで今まで堰き止められていた川が瞬時に決壊したかのようだった。10歳になったばかりの僕の脳にはあまりに刺激的で、もう処理できる範囲の代物ではなく、涙が止まらなくなった。「俺はやっぱり悪いことをしてたんや。こんなことしちゃいけなかったんや」と胸が締め付けられた。それからしばらくの間、以前よりさらに強くなった欲求を必死に抑えながら生きていた。時には頭がおかしくなるくらいの衝動に駆られたが、「いけないことをしたら罰が下る」と自らを律し、必死に耐えた。

それから3か月経って、セミが激しく鳴きわめく夏が訪れた。それまでは大好きだった水泳の時間。しかし5年生になったその年は億劫で仕方なかった。欲求の波を何とか乗り越えながら生きていた僕にとって、性的な刺激は禁物だと悟っていたからだ。幼いながらにその夏は何となくある種の危険性を感じていた。ただ、その危険な香りはてっきり、担任の佐藤先生から発せられているとばかり思っていた。先生は年齢26歳(今思うと相当偉そうな若者だった…)で、それなりにキリっとした顔の熱血教師だった。女子に非常に人気があり、先生も女の子が好きなようだった(今思うとあれはロリコンではなく、単なる女好きだった…と思う)。そんな先生が体育用の海パンを履くのだから、僕は自分が無事に体育の時間を乗り切れるか、気が気じゃなかった。

そしてついにその日は訪れた。給食前の4時間目が体育の時間で、雨が降らなければ水泳をすると前日に告げられていた。前日の夜は逆さテルテル坊主を作りたい気分を噛みしめながら、心の中で雨乞いをした。親には水泳が大好きだと思われていたので、無理やり楽しみにしている顔を作った。そんな願い空しく、当日は太陽がギンギン降り注ぐ夏日になった。まさに絶好の水泳日和。

朝から緊張していたせいか、あっという間に4時間目になった。恐る恐る水着に着替えていたら、周りのソワソワにも気が付いた。その日はみんなが生まれて初めて、「性」を実感した日だったのだ。去年までは一緒の教室で水着に着替えていた女子生徒が、この年から隣の多目的教室で着替えるようになった。何となく、自分たちに起こっている変化に対する大人の事情を、みんなが理解していた。もちろん僕はそんなことはどうでもよかった。この薄いブリーフ水着を通して僕の興奮が誰かに伝わることだけを恐れていた。

なるべく佐藤先生の水着姿のことを考えずに着替え終えると、平気なふりをしながらクラスメイトとプールに向かった。とても暑い日だったのでみんな急ぎ足で水場を目指した。プールに入り、消毒液の手前に先生が立っていた。中肉中背、何の変哲もない体。締まってもいなければ、鍛えられていもいない、普通の体。競泳用ブリーフの膨らみも想像とは若干異なっており、いたって普通だった。恐れおののいていたこともあり、正直拍子抜けしたのをよく覚えている。しかも頭にはメッシュ地の水泳帽がおかしな感じで乗っかり、いつもはキリっとしゃれているべっ甲柄の眼鏡には水滴がついていて、その表情も何かとても滑稽だった。「大丈夫やんか…」と僕は自信を持った。自信と一緒に、抑えられていた水泳好きも手伝い、その日は25メートルの向こう岸が近く感じられるくらい泳ぎそのものが楽しかった。天気が良かったこともあり、25メートルを泳ぎ切った人から「甲羅干し」の時間が与えられた。つまりプールサイドでくつろぐ時間である。僕は普段は取り立てて仲がいいわけではないものの、この日はほぼ同時に25メートルをクリアした池野君と雑談することにした。

「女は生理が来る時期やから、着替えも別やねんな」と池野君は知ったような口で言った。そうや、この偉そうで、知ったかぶった口調があまり好きちゃうねん…と僕は心の中で思った。生理ってものが何なのかもあまりよく知らなかった僕は、「そうなんや…」と答えた。

池野君は得意気に更に続けた。「知ってた?男にも生理あんの。夢精っていうんやで。」

僕はもう何の話をしているのかよく分からなくなって、ただうなずいていた。そんな僕の戸惑いをよそに池野君は話を続けていた。

「夜に夢見るやんか?その中でやらしいシーンが出てきて、ちんこが寝てる間にビンビンになんねんて。でな、朝起きたら白いドロドロの液がちんこから噴き出してて、それが固まってパンツの前がカピカピになんねんて…、って聞いてる?」

「あ、うん」

鼓動が無茶苦茶速くなっていくのを感じた。僕は、池野君に悟られていないか心配になるほど活発に動き始めた左胸にそっと押さえた。「やらしいシーン、ちんこがビンビン、ドロドロの白い液、パンツがカピカピ…」

その後に池野君が何を話していたかは全く覚えていない。頭の中は、今初めて耳にした情報の処理でいっぱいいっぱいだった。それなら僕にも思い当たることがあり、「夢」という以外は完全に当てはまる。悪夢であることに変わりはないけど…。でも本当にそうなんか?

「へーそうなんや。池ちゃん(池野君のあだ名)はその、なんやっけ、それが起こったことあんの?」

「俺はないけどな、高木があんねんて。俺が夢精の話したら、そんなん知ってるしやって。しかも夢だけじゃなくて、ちんこを手でこすって気持ちよくなったら同じことが起こるんやって威張ってた。中学生の兄ちゃんが何でも教えてくれんねんてさ。」

心がスカッと晴れる爽快感を、僕は生まれて初めて味わった。そっか…、僕には生理が来ただけなんや…。悪いことしてたから罰が下ったわけちゃうかった…。

男性を思い浮かべて股間を擦り付けることの背徳感は遠の彼方へ押しやられ、病気かもしれない、罰が当たったのかもしれないという恐怖が一瞬にして拭い去られたことで心が躍っていた。

「…て言ってたらしいで、あいつの兄ちゃん。って聞いてる?」

「あ、ごめん。そうなんや!男にも生理あんねんな!」

池野君の顔ははっきり覚えていないのに、彼のきょとんとした表情がぼんやり記憶に残っている。きっと僕の返答が全く的を射てなかったのだろう。

先生にも興奮しいひんし、病気でもなかった。ほんま、何に悩んでたんやろう!

僕の心は晴れ晴れとして、急に空腹を覚えた。水泳の授業のあとはなぜかいつもより腹が減る。そうこうしているうちに佐藤先生が、「じゃあ整理体操するから集合!そのあと給食当番の班は先に目洗ってシャワー通って教室で着替え。終わったらすぐ準備してや」と言った。

その当時の僕は給食当番ほど面倒なものはなかったが、その日はそんなことどうでもよかった。僕の班には例の高木君と田口君、吉野さん、小池さん、それに朝黒でサッカー少年の飛松君がいた。吉野さんと小池さんは多目的教室に入って行くのを高木君がいやらしい目で見送ると、田口君が「ほんま、高木はエロいな~」と言ったので僕と飛松君は大笑いした。吉野さんと小池さんは、「あんたら、あほちゃう!」と言って、そそくさと多目的教室に消えていった。

僕たちは教室に戻ると、履いていた海パンを脱ぎ体を拭いた。その時一人だけタオルを腰に巻いて着替えようとしていた高木君のタオルを、裸のままの田口君が引きずりおろすと、「あ~こいつチン毛生えとんねん!」と叫んだ。海パンを脱いだ僕と飛松君も「わ~!チン毛ボーボーやん、高木!」とはやし立てた。高木君は、「お前らほんまウザイな!俺は体がでかいからお前らよりも成長速いねん、クソガキ!」と顔を真っ赤にしながら股間を手で押さえた。なおも裸ではしゃぐ田口君と飛松君に交じっていると、僕は一瞬ギョッとした…。何や?このドキドキ…。

そんな時、吉野さんと小池さんが教室のドアの向こうから、「ちょっと男子、はよ着替えてや!先生にチクるで!」と叫んできた。僕らはすぐに着替え、自分の班の机を給食の隊形にすると、給食エプロンとマスクをつけて、そそくさと給食室に向かった。

給食中の話題は高木君のチン毛のことで持ち切りだった。照れながらも、嫌そうではない高木君に向かって、佐藤先生も「高木はみんなより大人なだけやんな~。ガキどもに黙れって言ってやれや」と楽しそうだった。しかし、みんながはしゃいでいる中、僕だけは今まで感じたことのない胸の高鳴りと格闘していた。

何やねん、これ。何でこうなんねん…。

説明のつかない初めての感情に押しつぶされそうになる僕の視線は、高木君を冷やかす友人たちの群れの中の一点を捕えていた。僕が目を離せなくなった相手…、それは色黒の飛松君だった。

その夜も僕の脳裏には、裸で高木君を冷やかす飛松君がこびりついていた。そして寝床に就くと、3か月ぶりに股間をベッドに擦り付けた。裸の飛松君が僕を冷やかすのを頭の中にイメージしながら、何度も何度も力が果てるまで続けた。ようやく自慰行為を終えて、息を切らしながらも満足した僕の頭は、今度は不安に支配されていた。

「明日から、飛松とどうやって話したらええんかな…」。幼い僕にも、この気持ちが許されるものではないことがはっきりと分かっていた…。

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