Killer Paper

あやねあすか

Killer Paper

 荷台に12ロール入りのトイレットペーパーを積んだ。

「持ち上げるとき、フィルムが破れないよう気をつけろよ」

 副店長の水野晴雄が注意してきた。

「はい」

 前田は指がフィルムに食い込まないよう、なるべく掌を広げて12ロール入りの袋を持ち上げた。12ロール入りの袋が18セット積載された荷台を前田と水野はゆっくり移動させた。

「これ全部棚に並べるんですか?」

「そう。明日の開店時には陳列されてないといけないから。今から並べる。今日は残業確定だな」

 水野は荷台を引っ張りながらボヤいた。

「社員の人はいつも残業なんですか?」

「いつもってわけじゃないよ。最近は厳しいからね。ま、残業があるのは本社から無茶ぶりがあった時と店長の気まぐれがある時くらいかな」

「残業の日は結構遅いんですか?」

「夜の一〇時くらいかな。それから帰宅してネットフリックスで映画見るから寝るのは深夜三時くらい」

「またホラー映画見てるんですか?」

「ホラーじゃないよ。昨夜見たのは『呪いのキス 哀しき少女の恋』っていうラブストーリー」

「タイトルがもうホラーじゃないですか」

「ホラーな要素もあるラブストーリー」

「もっとディズニーとかジブリとかきれいな映画は見ないんですか?」

「私にとってのきれいな映画は『オズの魔法使』だな。あれは完璧な映画だった。あんな素敵な映画にしてくれたジュディ・ガーランドを私達はリスペクトしなければならない」

 前田はスタッフ専用廊下と店内を繋ぐドアを開けた。トイレットペーパーが崩れないよう水野がゆっくり荷台を引っ張り出した。

 店内に入ったら私語は禁止。二人は黙ったまま空の棚に向かった。

 ほんの数分前やってきたお客さんがトイレットペーパーの在庫を全て買い占めたせいで、二人はこうして新しいトイレットペーパーを補充する羽目になっている。

 じつは数日前国内の製紙工場で原因不明の大事故が起きた。何が原因で具体的にどのようなことが起きたのか全く報道されないが、とにかく製紙工場で従業員が数十名亡くなったそうだ。

 そのせいで世間ではトイレットペーパーが店頭から無くなるという噂が流れている。初めは誰も気にも留めない噂だったが、昨日あたりからトイレットペーパーを大量に買うお客さんが全国で現れ始め、今日前田が働くドラッグストアでも買い占めが行われたというわけだ。

 高校二年生の前田藍には全く実感が湧かないが、ある一定の年齢より上の層にはオイルショックという経験があるらしく、その人達は今回の騒動でも大量買しておかなければ有事に対応しきれないと焦っているらしいのだ。

 店内にホタルの光の音楽が流れ始めた。もうすぐ閉店だ。

 レジではパートの岩隈がまだトイレットペーパー買い占めのお客さんの対応をしている。なにせ一人のお客が店内全てのトイレットペーパーを買ったのだ。レジ打ちをするだけでも大変だ。くわえて、岩隈はそんなにさばける方ではないから、尚大変だと思う。

 レジにはもう一人お客さんが並んだ。トイレットペーパーを買い占めたお客とは別。何か商品を探しているようだ。

 はやくお客様対応をしないとまずい。クレームにつながるだけではなく、閉店作業も遅れてしまう。

 岩隈はまだもたもたしている。

 音井という大学生がすでに締めを終えたレジを再開した。

 二人目のお客さんは音井のレジに向かった。お客さんは音井に何か説明しているようだった。お客さんの手には薬の箱が握られている。

 音井は放送で「業務連絡。業務連絡。大須賀さん、至急一番レジへ来てください」と流した。

 大須賀が来る気配がない。

 前田は音井と目が合った。音井は口を動かした。

「呼んできて」

 音井はそう言っている。

 前田は水野に「すいません。大須賀さん呼んでくるんで、離れていいですか?」と訊いた。

「いいよ。どこかわかる?」

「あそこしかないですよ」

 前田は駆け足でスタッフ専用廊下へ向かった。

 前田は廊下を抜けて事務室を横切ろうとした。事務室では店長の山口が事務椅子に座ってスマホを弄っていた。

「お、藍ちゃん頑張ってるね」

 前田は山口の前をさっさと走り去ろうとしたのに、それよりはやく山口が話しかけてきた。

「あ、はい。頑張ってます」

「夏休みの宿題はどう? 忙しい?」

 はやく去りたいのに続けて話しかけてくるのが鬱陶しかった。

「あ、はい」

「藍ちゃん理系だよね? 女子で珍しいよね」

「あ、はい」

「俺もさ理系の大学だったからさ、宿題わからないところあったら教えてあげられるから」

「あ、はい」

「理系の大学のこととかもさ、教えてあげられるから」

「すいません。お客様対応中なので」

 前田は裏口から外へ出た。

 山口店長は三〇代後半の独身のおっさんだ。いつも汗と皮脂のニオイがしているし、しゃべると使用済みの糸ようじみたいなニオイがする。噂では高校時代大学の薬学部を受験したが落ちて、滑り止めの理系の学部へ入学した。卒業後は薬学部への未練を忘れられずドラッグストアを展開している会社へ入社したそうだ。

 山口は用もないのにいつも執拗に話しかけてくる。女子高生と仲良くなりたいという下心が見え見えなのだ。以前品出しの時に制服のポロシャツのボタンの隙間からブラを見ようと覗き込んできたから、前田は制服の下に厚手のTシャツを着るようになった。

 大須賀は職員用駐車場の喫煙所で一人タバコを吸っていた。

「すいません。お客様対応お願いできますか?」

「え、今?」

「はい。急ぎでお願いします」

 大須賀はため息を付いた。鼻から煙が出る。

 急ぎ足で建物の中へ向かう大須賀。

「っていうか、大須賀さん。まだ勤務時間中なんだから外でタバコ吸わないでくださいよ」

「中で吸ったらスプリンクラーが作動するだろ」

「いや、そういう意味じゃなくて」

「俺、ファブリーズしてからいくわ」

 大須賀は事務室の隣のロッカー室へ向かった。

 前田は先に店内に戻ろうとした。

「藍ちゃん藍ちゃん」

 ああ、まただ。面倒くさい。

「なんかレジの方が騒がしいけど、なにかあったの?」

「いえ、薬剤師を求めるお客様がいらっしゃったので、大須賀さんを呼んできました」

「音井さんもレジやってるよね? 一番レジってさっき締めたでしょ?」

「えっと、トイレットペーパーを買い込んだお客さんがいて。二番レジはそれの対応で追われてます」

「二番レジって誰?」

 前田は答えたくなかった。

「藍ちゃん。仕事ではほうれんそうが大事。報告して」

「岩隈さんです」

 山口は露骨に嫌そうな顔をした。

「また、あの人か」

 山口は立ち上がった。

「注意が必要だな」

 だから前田は言いたくなかったのだ。

 山口は嫌な足音を鳴らしながら廊下を進んだ。前田も後ろをついていかざるを得なかった。

 店内に入った山口はまっすぐ岩隈のところへ向かった。

 山口の叱る声が聞こえた。

 突然説教が始まったのでお客さんも驚いているようだった。

 山口は岩隈を叱りつけ、トイレットペーパーを買い込んだお客さんと大須賀から薬の説明を受けているお客さんに頭を下げさした。

 前田はそれを遠くから見ていた。どうすることもできなかった。

 蛍の光が流れる中何度も頭を下げさせられる岩隈。

 会計を終えたお客さんはトイレットペーパーを買い物カートに積んで駐車場に向かった。大須賀から説明を受けたお客さんは、結局何も買わずに店の外に出た。

 店内にお客さんが残っていないことを確認すると、山口はスタッフ全員を集めた。

 副店長の水野だけは見当たらなかった。どこにいったのだろうか。

「皆さんにお知らせがあります。皆さんご存知の通り世間ではトイレットペーパーの買い占めが相次いでます。まあ、売上が上がるのはウチにとっていいことなんですが、倫理的にまずいってことですので、明日から当店ではお客様お一人につき12ロールの袋一つのみまでしか販売しないことにします。えー、そこで今からトイレットペーパーの制限販売のポップ貼りをしてもらいます。それと、レジ周りにもポップを貼ります。それと並行して閉店作業もしてください。後、明日からレジするときは気をつけてください。トイレットペーパーを大量に買ってるお客さんがいたらちゃんと注意すること。えー、今日は残業にはなりますが、残業代は出せませんので、皆さんちゃっちゃと仕事片付けて、はやく帰宅するように」

 岩隈が恐る恐る手を上げた。

 山口は見えないふりをした。

 岩隈は「あのぅ」とか細い声を上げた。

「なんですか!?」

「娘を保育園に迎えにいかないといけないので、残業ができないのですが」

「はぁ!? 知りませんよそんなこと。わがまま言わないでください」

「いゃ、でも」

「でもじゃありません。仕事なんですからきちんとやってください」

「娘が待ってるんです」

「あなたが預けてる保育園は夜遅くまで見てくれるんでしょ? だったら良いじゃないですか。あなたより一生懸命夜まで働いてるお母さんだっているわけでしょ?」

「せめて、保育園に電話させてください」

「いいかげんにすろぉぉっ!!!!!」

 山口は怒りすぎて呂律が回ってなかった。

「お前がレジをとろとろやってるから遅くなったんだろ!!!! お前みたいに義務は果たさないのに権利だけ主張するやつはムカつくんだよ!!!!!!!」

 岩隈も含めて、皆黙って作業を始めた。

 雰囲気は最悪だった。前田は夏休みの間だけの短期バイトだったが、はやく辞めたかった。

 山口は前田に近づいて来た。

「藍ちゃんは残業しなくていいよ」

「え、いや、そういうわけにはいかないですよ」

「高校生だし、遅くなると親御さんが心配するよ。それに藍ちゃん可愛いから夜道に気をつけないと」

 前田は働いてる皆を横目で見た。

「私も、残ります」

 山口は少し不機嫌な顔になった。

「大人の優しさは素直に受け取るもんだぞ」

 いやいや、そういうのが鬱陶しいんだって。

「大丈夫です。がんばります」

 山口は態度を変えてニコッと笑顔になった。

 そして突然前田の両肩に手を置いて肩もみをしてきた。

「うん。じゃあ、藍ちゃんにも任せようかな」

 前田は背中がゾッとして腕に鳥肌が立った。

 山口は事務室に戻っていった。

 最悪だった。まさか体を触られるなんて。

 音井がすぐに前田の元に近寄ってきた。

「大丈夫?」

 触られたことを言っているのだろう。

「はい。大丈夫です」

「私と一緒に陳列整理やろ」

「はい」

 前田は音井についていった。

 陳列整理とは棚に並んでいる商品の向きを揃えたり、置き場所が間違っているところを正したりすることだ。

「あのセクハラ店長には気をつけたほうが良いよ」

 音井は陳列整理をしながら前田に話しかけた。

「私も昔セクハラされかけたから」

「音井さんもですか?」

「そ、『大学生はお金ないだろ? 一緒に晩ごはんでも食べに行く?』って誘われた」

「え、気持ち悪い」

「前田さんって短期バイトでしょ?」

「はい」

「いやならすぐに辞めていいからね。ここ、ほら、雰囲気悪いし」

 音井は岩隈に視線を移した。

「はい」

「セクハラがあまりにも酷いなら副店長の水野さんに相談したら良いよ」

「でもなんだかぽやっとしてますよね」

「うん。でも、店長より年上って副店長だけだからね。本社に言ってくれたら店長も替わるだろうし」

 スタッフ専用廊下の扉を開けて店長が現れた。

「藍ちゃん。整理中? 手伝おうか?」

「だいじょーぶでーす。もう終わりまーす」

 音井が代わりに答えた。

「あ、そう。大須賀君。水野君どこ行ったか知らない?」

「知らないっすー」

「そう」

 山口は扉の後ろに引っ込んだ。

 再び山口は扉を開けて顔を出した。

「あ、藍ちゃんさ。残業してもらって悪いからさ、今日車で送っていこうか?」

「あ、いや、大丈夫です」

「あ、そう。もし車必要なら言ってよ」

 山口は事務室に引っ込んだ。

 前田と音井は顔を見合わせた。

 やっぱりこのバイトは辞めよう。


 トスッ。


 なにか物が落ちる音が聞こえた。

 前田は音井の側を離れて音のした方へ向かった。

 音がしたのは、トイレットペーパーのコーナーのすぐ近くだった。

 だが、なにも落ちていない。

 気のせいだったかなと思い、前田が踵を返しかけた時、棚の陰から白い物が転がってきた。

 白い物は床に白線を伸ばしながらコロコロ近づいてきて、止まった。

 トイレットペーパーだった。

 前田はトイレットペーパーを拾った。

 さっき運んだ時に、袋から溢れたのだろうか。

 前田は地面に伸びた紙を巻き上げて、とりあえず棚に置いた。

 後で副店長に報告しよう。

 そういえば水野はどこ行ったのだろうと店内を見渡すと、二番レジで焦っている様子の岩隈が目に入った。

 岩隈はレジのお金を何度も数え直していた。さっきも小銭を数えていたのにおかしいなと思った前田は岩隈の元へ行った。

「岩隈さん。大丈夫ですか?」

「え、あ、ええ」

 声をかけられると思ってなかったのだろう。岩隈は驚いた顔をしていた。

「さっきも小銭数えてなかったですか?」

「え、ええ。そのー、数が合わなくて」

 レジに記録されている残高と実際のお金の数が合わないということだろう。お釣りの受け渡しミスなどがあると、たまにこういうことになる。ちなみに店長はこういうミスが心底嫌いで、特に岩隈がミスをすると二〇分は叱り続ける。

 前田は岩隈と場所を替わってお金を数えた。

 岩隈の証言だと五〇〇〇円足りないそうだ。

 前田は一〇〇〇円札と五〇〇円玉を丁寧に数えた。数え終えた後、岩隈がレジに入力した数字を確認した。

 五〇〇円玉の数を二〇枚と入力しないといけないところを一〇枚と入力している。

「ほら、ここですよ。ここを間違えてます」

 前田は正しい数字を入力した。これで計算が合致した。

「あー、良かった」

 岩隈は心底安心したようで、大きなため息をついた。

「ありがとう。前田さん。私、ドジでよくミスするので」

 それは知っている。

「寝不足もあるのよ。子どもを寝かしつけた後は、夜遅くまで起きてるから」

「早く寝ればいいのに。面白いドラマがあるとか?」

 岩隈は微笑んだ。

「恥ずかしいけど。資格の勉強をしてるの。就職したいと思って」

「えー、すごい!」

「子どものためにもちゃんと稼ぎたいと思って。いつまでもパートってわけにはいかないから」

「岩隈さん」

 大須賀が話しかけてきた。

「ポップ、はやく貼っちゃいましょ」

「はい」

「前田」

「はい!」

「入り口のシャッター閉めてきてくれる?」

「はい。わかりました」

 前田はフック棒を持って入り口に向かった。ここのシャッターは少し錆びついているので、閉めるのが一苦労なのだ。

 ふと、前田は駐車場に放置されている買い物カートが目に入った。

 暗い駐車場の中で車の赤いランプがぼうっと浮かび上がっている。

 トイレットペーパーを買い占めたお客さんのものだ。

 シャッターを閉める前に買い物カートを店内に戻さないといけない。

 前田は大須賀に一言断ってから、駐車場に出た。

 前田は駆け足で近づいた。ショッピングカートのカゴは空だが、もう積み終わったのだろうか。

 だとしたらはやく返却してほしい。時々駐車場にカートを置きっぱなしにする人がいるが、あれはほんとに迷惑だし大人として品がないと思う。

 前田は車に近づいて「すいません」と声をかけた。

 運転席にお客さんの姿はない。

「あのー、すいません」

 前田は買い物カートに手を伸ばした。

「このカート、戻してもいいですか?」

 車の陰から人の脚が伸びていた。

 前田は小さな悲鳴を上げた。

 お客さんが地面に倒れているようだった。

 心臓発作?

 前田は恐る恐る脚に近づいた。

 地面に大の字に倒れている人影が端から順に見えていった。手…腕…腹…胸…首…顔。

 顔を見た前田は立ち止まった。信じ難い光景に目を閉じた。

 見間違いかと思いもう一度目をそっと開けた。

 さっき見た光景が見間違いであって欲しかった。

 だが、違った。

 お客さんの鼻の上に直径3.8cmの穴がぽっかり空いていた。穴が空くときに巻き込まれたのか眼球は姿を消して、顔は穴に引っ張られるように少し陥没していた。後頭部から赤黒い血液が溢れ、重油のようにアスファルトの上に拡がっていた。

 前田は大声をあげた。

 買い物カートなんかほっぽりだして、全速力で店内に戻った。

 前田の叫び声を聞いた店内のスタッフはびっくりしていた。

「どうした?」

 大須賀が近づいてきた。

 前田は息を整えながら、答えた。

「駐車場…お客さん…死んでた…顔…穴…空いてた…たぶん…殺された」

「え?」

 大須賀も岩隈も音井も外を見た。

 外は赤いランプのついた車しかない。

「殺されてた…ほんとに…血…たくさん…ほんとに…殺されてた」

 大須賀は振り返って前田の顔を見た。

 前田はジェスチャーで自分の顔に丸を描いた。

「顔…くり抜かれてた」

 大須賀も岩隈も音井もお互いの顔を見た。

 しばしの間。

 音井が前田の掌を見た。前田も見た。掌には血がべっとりついていた。カートのハンドルについてたのだろう。

「いやぁぁぁああああああああああーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!」

 音井が大声で叫んだ。

 大須賀はフック棒でシャッターを閉めた。錆びついたシャッターはうまく動かなかったので、大須賀はフック棒を引っ掛けたまま飛び上がって全体重をかけてシャッターを下ろした。自動ドアも閉めて、鍵もかけた。

「岩隈さん、ブラインドも閉めて!!!」

 大須賀と岩隈は急いで窓ガラスをブラインドで覆った。

 皆が前田の元に集まった。

「きっと殺人鬼だ。通り魔が現れたんだ。警察を呼ぼう」

 大須賀が青ざめた顔で言った。

「電話は?」

「事務室だ」

「なんだやかましいぞ!!」

 山口が現れた。

 大須賀は走って山口の所へ向かった。

「店長ヤバいです。殺人です。犯罪者です」

「なに言ってんだお前?」

 前田も走って大須賀を追いかけた。

「ほんとなんです。駐車場でお客さんが殺されてたんです」

 前田が両掌の血痕を見せると、山口は目をひんむいた。

 大須賀がハッと気づいた。

「まずい。裏口の鍵が開いてる。閉めないと」

 大須賀は急いで事務室に向かった。前田も追いかけた。

 大須賀は事務室の椅子を掴んで武器代わりに構えながら裏口の扉に向かった。

 だが、大須賀が施錠するよりも数秒早く裏口のドアが開いた。

 大須賀も前田も固まった。

 現れたのは水野だった。

 水野は椅子を構えている大須賀と目を丸くしている前田を見て一瞬リアクションに困った後苦笑いした。

「なんだよ。ジェイソンでも目撃したみたいな顔だな。ジェイソンって言ってもジェイソンボーンじゃないぞ」

 大須賀は「まさか、副店長が殺人鬼…?」とつぶやいた。

 水野は顔をしかめた。

「…なに?」

「副店長今までなにやってたんですか?」

「店の外ののぼりを片付けてたんだよ」

 店内から女性の悲鳴が聞こえた。

 前田も大須賀も水野も事務室を出て廊下を走って扉を開けた。扉を開けると困惑した山口が立っていた。

 山口は「レジの方から声が」とだけ言った。

 全員でレジに向かった。

 そこには腰を抜かした岩隈とひざまずいて腹部から血を流している音井がいた。

「なんだこれ! おい! なにがあったんだ!!」

 山口は誰に向けるでもなく大声で叫んでいた。叫ぶことで自分の不安を払拭しようとしているみたいだった。

 山口は岩隈を無理やり起こして、「お前! 音井になにやったんだ!!」と怒鳴った。

 岩隈はパニックで顔を横に振りながら「違う違う違う」と唱えるようにつぶやいた。

「お前がやったんだろ!!!!」

「私じゃない。トイレットペーパーが音井さんを」

 山口は笑いながら怒鳴った。

「はぁあ! お前バカか!!」

 山口は岩隈を床に突き飛ばした。

「この社会不適合者の犯罪者め」

 山口は踵を返した。

「俺は警察に電話してくるぞ。お前らはこいつを見張っとけ」

「うぅ」

 山口が歩き出す前に、音井が呻いた。音井のお腹の傷口から内臓が溢れた。

 岩隈は音井に駆け寄り、素手で内臓をお腹の中に戻し、傷口を押さえた。

 皆岩隈の大胆な行動に呆気にとられた。

「応急処置をして、はやく病院に連れて行かないと」

「店長!」

 水野が店長に声をかけた。

「はやく救急車を!」

「お、お前にそんなこと言われなくてもわかっとる!」

「おい! あれ!」

 大須賀が音井の背後を指差した。トイレットペーパーが近づいてきて、アナコンダのように音井に巻きついた。トイレットペーパーは巻きつく力を強め、岩隈の手元から音井を引き離した。

「助けないと」

 水野が叫んだ。

 だが近寄ってきたトイレットペーパーは1ロールだけではなかった。二つ、三つ飛びかかってきて音井をミイラのようにぐるぐる巻きにした。トイレットペーパーはロールを蛇の頭のように持ち上げて、音井の頭に近づいた。

 音井は意識が遠のきそうな中、横目でロールを見やった。

 ロールは音井の頭にぴったりくっつくと、芯をドリルのように高速で回転させた。髪の毛がぶちぶちぶちと抜ける音が聞こえ、頭皮がぐちゃぐちゃに破れる音が聞こえた。

 頭蓋骨の表面が削れる音が響いて、カルシウムのニオイが辺りに充満した。

 まるで歯医者で歯を削っているような、頭にガンガンくる音だった。

「ああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああ」

 音井の叫び声が聞こえた。

 音井の頭は左右にぶるぶるぶると震えて振動で眼球がぐりんと回転して白目をむいた。

 やがてトイレットペーパーの芯はボーリング調査のドリルのように音井の頭蓋骨を貫通して、芯の反対側から粉々に砕け散った脳みそが吹き出した。

 脳みそを失った音井は膝から崩れ落ちて、顔面から床に倒れ込んだ。

 皆唖然としていた。

 目の前で何が起こっているのか認知できなかった。

 切り取り線で音井に巻き付いていた紙を切り離したトイレットペーパーは皆に襲いかかってきた。

 そこで初めて前田含めた皆は自分が襲われているのだと認識した。

 皆ダッシュで回れ右をした。

 商品棚の間を駆け抜けながら、皆散り散りになった。

 前田は体を何度も棚にぶつけながら全速力で走った。後ろを振り向くとトイレットペーパーが一個回転しながら追いかけてきていた。

 前田は冷凍食品が並ぶ冷凍庫に追い詰められた。

 トイレットペーパーが飛びかかってきた。

 前田はとっさに冷凍枝豆の入った袋を手にしてトイレットペーパーを弾き返した。弾き飛ばされたトイレットペーパーはドリンクの棚に突っ込んだ。

 床にドリンクが散乱してミネラルウォーターのペットボトルが破裂して、トイレットペーパーにかかった。

 水に濡れたトイレットペーパーは瞬時に湿ってしまい、ぐちゃぐちゃになって床に横たわってしまった。

 前田は濡れたトイレットペーパーを眺めた。

 そっと近づいて足の先で蹴ってみた。

 ぐちょっと音がしてトイレットペーパーは凹んだ。

 死んでいるようだった。

「大丈夫!?」

 突然声をかけられて前田はビクッとした。

「ごめん。悪かったよ。無事かい?」

 水野だった。

「これ見てください」

 前田は濡れたトイレットペーパーを指差した。

「やつらは水に弱いのか」

 前田と水野は互いの顔を見た。

「裏口から逃げよう」

「他の人は?」

「まずは逃げられる人から行こう。残りの人は必ず助ける」

 前田はうなずいた。

 二人は扉を開けて、スタッフ専用廊下を進んだ。

 するとそこに床に座り込んでいる山口がいた。

「どうしたんですか?」

 水野は山口に近づいた。

「足を捻挫した」

 水野は山口に肩を貸した。

「裏口から出ましょう。そして助けを呼ぶんです」

 山口は水野の腕に捕まりながらゆっくり立ち上がった。

「藍ちゃん。君も助けてくれ」

 前田は恐る恐る山口に近づいた。

 山口はいきなり前田の肩に腕を回してきた。山口の手の指が胸に触れるか触れないかくらいの辺りにある。前田はこういう時でもこんな態度をとる山口がほんとに不潔だと思った。

 事務室の椅子に山口を座らせた後、水野は裏口の扉を開けようとした。

 しかし開かなかった。

 水野は解錠されていることを確認して、もう一度ドアノブを回した。

 開かない。

 今度は体当たりをした。

 扉が少し開いた。

 隙間から外を覗いた水野は落胆のため息をついた。

「くそぉ! 何かが倒れ込んできて、扉を塞いでる」

「開かないんですか?」

 前田は訊いた。

「あれじゃ開かない」

「どうすればいいですか?」

「店の入口を開けて出るしかない」

「でも開けるのに手間取りますよね。窓を割って出るのは?」

「あの窓は強化ガラスなんだ。そう簡単には割れない」

「数ヶ月前年寄りがバック駐車で突っ込んできてから、窓ガラスを全部替えたんだ」

 山口が説明した。

「もういい。ここにいよう。助けが来るだろ」

「何言ってるんです! ここにいたらいつ襲われるかわからないんですよ!!」

「ここにはトイレットペーパーはないんだ。やつらが入ってきそうな隙間だってない。それともなにか!? あいつらはドアノブを回して侵入してくるのか!!? 所詮はトイレットペーパーだ。大したことない」

「この人は『ミスト』を見てないのか」

 水野はため息をついた。

 山口はスマホを取り出した。ネットではトイレットペーパーが人を襲うなんて情報は出てない。

「どうやら外の世界は無事みたいだ」

 山口は安堵して背もたれに寄り掛かった。

「外が無事なら話ははやい。警察に電話しよう」

 山口は警察に電話をかけた。

「もしもし。ええ。ええ。緊急事態なんです。実はトイレットペーパーに襲われまして。ええ。え? いや、いたずらとかじゃなくて。いや、ちょっと、ねぇ!!?」

 電話が切れた。

「信じてくれない」

「そりゃそうでしょ」

 店内から女性の叫び声が聞こえた。

「岩隈さんだ」

「あんなのほっとけ。まずは自分の安全が最優先だ」

 水野は前田の方を向いた。

「私は岩隈さんを助けに行ってくる。店内にはまだ大須賀さんもいるはずだ。前田さんはここで待機しててくれ」

 前田は山口を見た。

 こんな変態と一緒にいるのは嫌だ。

「私も行きます」

「おいおい!」

 山口が話に割り込んできた。

「ここに留まってればいれば大丈夫だ」

 前田は山口を横目で見た。

「なんだ、その目は!!」

 睨んだつもりはないが、自然と前田の目つきも悪くなっていたのだろう。

 山口は前田の顔つきが気に入らなかったらしく、大声で怒鳴ってきた。

「ついて行きます。大丈夫です」

 水野はうなずいた。

「わかった。まずは武器を確保しよう」

「おい、あんまり店の中を荒らすなよ。片付けが大変だ」

 山口がなにか言っていたが、前田も水野も無視した。

 前田と水野は山口を置いて店内に戻った。

 水野は水鉄砲を二つ持ってきた。夏休み期間中だけの特別商品だ。水鉄砲のタンクにミネラルウォーターを装填した。

「ツクダオリジナルのエアーウォーターガンの模造品だな」

 水野はタンクにミネラルウォーターを注ぎながらつぶやいた。

 装填し終わると、水野は使い方の説明を始めた。

「ここでポンプアクションをすることで圧力が上がって水の飛距離が伸びる。ポンプアクションをしながら引き金を引き続けると威力のある水が出続ける。でも、タンク内の水がなくなるのもはやいから気をつけて」

「はい」

 前田は水鉄砲を受け取り、ハンドグリップを前後に往復させた。

「使い方はバッチリだね。子どものときやってたの?」

「説明書を見たんです」

「『コマンドー』だね」

「?」

 水野はチャッカマンに火をつけてそれに殺虫剤を噴射した。殺虫剤の噴霧に引火して炎が勢いよく床を焦がした。

「即席の火炎放射器。やつらは紙だから、これでも倒せるはずだ」

「こんな物の作り方、よく知ってますね」

「昔『アラクノフォビア』って映画で学んだんだ」

 水野と前田は武器を構えた。

「よし、行くぞ」

 二人は岩隈さんの声がした方へ向かった。

 店内を歩き回ったがなかなか岩隈さんは見つからなかった。

 棚があちこちで倒れて迷路のようになった店内を移動するのは危険だった。最初は集中力があったが、心労も重なり前田の注意も散漫になってきた。床に転がっている商品に何回もつまずいた。

 姿勢を低くしたままの移動も堪えた。前田はつい背筋を伸ばしてしまった。

 そのとたんどこかで物音がした。

 水野は振り向いて、ハンドサインで前田に姿勢を低くするよう伝えた。

「前田さん。君はここから出よう」

「え、でも」

「私がシャッターを開けるから、外に出るんだ。外に出たら助けを呼んできてほしい」

 前田はうなずいた。

 二人は早足で店の入口に向かった。

 すると、店内の電気が全て消えて、真っ暗になった。

「いゃぁああああっ…」

 叫び声を上げた前田の口を水野が手で覆った。

「ブレーカーか何かが落ちたんだ。目が慣れたら見えるようになるから落ち着いて」

 前田は顔を上下に振って答えた。

 もう少しで入り口にたどり着く、そう思った時誰かが勢いよく走ってきて、二人を通り過ぎ入り口に向かった。

「くそっ! 開け!!」

 大須賀の声だった。

 彼も外に出ようとしていた。

 水野は大須賀に駆け寄り、落ち着かせた。

「大須賀さん。私だよ。落ち着いて。物音を立てたらやつらに見つかる」

 水野の説得で大須賀の呼吸は整ってきた。

 背後で音がした。

 なにかが、床に散らばっている商品をどかしながら近づいて来る音だった。

 三人とも音がする方向を見つめた。

「岩隈さん…?」

 水野が暗闇に向かって声をかけた。

 暗闇から現れたのは白いトイレットペーパーだった。

 水野と前田は水鉄砲を構えた。

 トイレットペーパーは暗闇の中に消えた。

 気は抜けなかった。近づいてくる音が聞こえる。

 しかもトイレットペーパーのフローラルの香りも漂ってきた。

 大量のトイレットペーパーが近づいてきている。

「暗くて見えない。近づいて来てるのは確かなのに」

 水野はつぶやきながら水鉄砲の銃口を左右に動かした。

 水野のポケットからチャッカマンが落ちた。

 大須賀はすかさずチャッカマンを拾って火をつけた。

 わずかだが、周囲がうす赤く照らされた。

 三人は凍りついた。たくさんのトイレットペーパーがまるでサメの群れのように近づいてきていた。

「撃ちまくれーーーーーーー!!!!!!」

 水野はポンプアクションをしながら水鉄砲を撃ちまくった。

 前田も引き金を引きながらポンプアクションを続けた。

 銃口から発射された水はレーザー光線のようにまっすぐ伸びてトイレットペーパーの群れに着弾した。

 トイレットペーパーは地面の上を右往左往転がりまくった。逃げているようで確実に三人を追い詰めようと近づいて来ていた。

 前田の水鉄砲が空になった。

 すかさずミネラルウォーターを装填しようとするが、間に合わない。

 前田はペットボトルの蓋を開けてトイレットペーパーの大群に向かって投げ込んだ。

 水が放物線を描いて地面に拡散した。

 トイレットペーパーの大群の中に隙間が生まれた。

「あそこから逃げましょう」

 前田は隙間を走り抜けた。

 水野も大須賀も後に続こうとしたが、大須賀の足にトイレットペーパーが巻き付いた。

 水野は大須賀の足に向かって水鉄砲を放った。

 前田が作った隙間は再び埋まった。

「行けーーー!」

 水野が叫んだ。

 前田は水野が言ったとおり走った。

 前田の後ろからトイレットペーパーの大群が追いかけてきた。

 後ろだけではない。

 棚を飛び越えて、横からも襲いかかってきた。

 前田は泣きそうになりながら走った。

「前田さん! こっち!」

 岩隈だった。岩隈は粉ミルクの缶の蓋を振り回して、辺りに白い粉を撒いた。煙幕の中、岩隈は前田の腕を掴んで、走った。

 助かった、と思ったが甘くなかった。

 トイレットペーパーは岩隈と前田の進路を予想して先回りしていた。

 退路を断たれた二人。

 前田は水鉄砲を構えたが、タンクに水が入ってないことを思い出した。

 と、そこに水野が走ってやってきた。

 水野は殺虫剤とチャッカマンで作った火炎放射器でトイレットペーパーの大群に炎を浴びせかけた。

 トイレットペーパーはあっという間に燃えた。地面を転がるトイレットペーパーは苦し悶ているみたいだった。

「これで終わったか」

 水野はそうつぶやいた。

 燃焼が進んだトイレットペーパーは真っ黒に焦げて、焦げの表面には炎の赤い線が血管のように走った。燃焼するトイレットペーパーのロールは最後の力を振り絞って水野の顔面に飛びかかってきた。

「ぐあぁぁぁぁあああああああついぃぃぃぃぃぃぃ!!!!」

 水野は床に倒れ込んだ。

 大須賀は水野が落とした水鉄砲を拾い水野の顔面に水をかけた。

 顔に貼り付いていたトイレットペーパーは洗い流されたが、水野の顔面は火傷して、髪も燃えて頭皮も焼けただれていた。なにより瞼が熱で溶けて目が半目しか開いてなかった。

 大須賀は水野に駆け寄ろうとしたが、突然体のバランスが崩れて地面に倒れた。

 大須賀は自分に何が起こっているのか理解できてなかった。倒れた衝撃で水鉄砲も手放してしまった。

 大須賀は自分の右脚を見た。右脚がすっかりなくなっていた。

「ぅあぁ…。ぁぁああ…」

 なにが起こったのか理解できなくて、大須賀はどんな叫び声をあげたらいいのかもわからなかった。

 次の瞬間、大須賀の思考がぷっつり途切れた。

 前田は大須賀に起きた出来事を目撃していた。

 大須賀の脚は食べられたのだ。

 12ロール入りの袋に襲われたのだ。袋のちょうど真中辺りに横一直線の切れ目が走り、それがサメのような歯の生えた大きな口になり、大須賀の脚を一口で食べてしまった。錯乱する大須賀の気持ちなどよそに、12ロール入りの袋は大須賀の頭部も飲み込んでしまった。

「おおすかぁあああああ!!!!」

 水野は大須賀が落とした水鉄砲を拾い、半目で狙いを定めて12ロール入りの袋目掛けて引き金を引いた。だが、ビニール製の袋は水を受けてもビクともしていなかった。

 別のところから現れたもう一体の12ロール入りの袋が水野の左腕を噛みちぎった。

「だぁぁあああああああ!!!!」

 噛みちぎられた断面からは骨が見え、血管が木の根っこのようにぶちぶちと垂れ下がっていた。

 水野は水鉄砲のバットを床に固定し、右腕だけでポンプアクションをした。ポンプアクションを終えたらその手でグリップを握り、引き金に指を伸ばした。

 前田は大須賀の遺体の胸ポケットの中身に気づいた。タバコが入っていた。

 前田は床に落ちていたチャッカマンを拾い、走って大須賀の遺体に向かった。12ロール入りの袋は前田に気づいて口をガバっと開けた。

 水野はその口の中に向かって水鉄砲を発射した。

 口の中に水をくらった12ロール入りの袋は慌てて口を閉じた。だが、時すでに遅し。袋の中でトイレットペーパーはふやけてしまった。

 前田はタバコの箱を開けて、チャッカマンで全てのタバコに火をつけた。前田は松明のようにタバコを掲げた。なるべく天井に向けて。はやく煙が届くように。

 もう一体の12ロール入りの袋が水野の胴体に噛み付いた。

 岩隈が叫んだ。

 トイレットペーパーの群れが近づいてきていた。

 前田は天井を見つめた。

 天井にあるセンサーが反応した。

 スプリンクラーから大量の水が吹き出した。

 店内中、いたるところ床の隅々にまで水が降り注いだ。

 床には水が溜まった。水位は数センチはあった。ちょっとした洪水だった。

 前田の顔にも水が降り注いだ。髪も服も下着も靴もびしょ濡れになった。

 前田は笑った。

 トイレットペーパーたちが一斉に溶けてしまっていたからだ。

 袋に入っているトイレットペーパーもぐずぐずに溶けていた。袋の隙間から水が浸透したのだ。

 スプリンクラーの水が止まった。

 手に持っていたタバコはびしょびしょだった。

 前田は岩隈に近寄った。

 岩隈は辺りを見て「すごい」とつぶやいた。

「さぁ、ここを出ましょ。娘さんを迎えに行くんでしょ」

 岩隈は微笑んだ。

 前田は座り込んだ岩隈を抱き起こした。

 ちょうどその時、後頭部に衝撃を受けて前田の意識は飛んだ。



 暗闇の中、鼻歌が聞こえていた。

 前田は瞼を開けた。

 辺りを見回してみる。相変わらず店内の照明は落ちているが、うっすらと明るい。

 上半身を起こすと、周りには防災グッズのランプがいくつか置いてあった。

 前田は自分がレジのカウンターに寝かせられていることに気づいた。

 さらに自分の手が後ろに縛られていることと足も縛られていることに気がついた。解こうともがいたが、結束バンドでしっかり固定されていた。

「お、藍ちゃん目が覚めたかい?」

 山口が立っていた。

「店長、助けてください。縛られてるんです」

 山口はニコッと笑った。

 前田は気づいた。これは山口がやったのだと。

 山口は鼻歌を歌いながら岩隈の両足を縛っている最中だった。

「まったく。ばばあは体重が重いんだよ」

「店長。なにやってるんですか?」

「藍ちゃん…」

 山口は真剣な顔をした。

「助けを呼ぶんだ」

「はぁ?」

「警察を呼ぶためにはトイレットペーパーが襲ってくるなんて荒唐無稽な説明じゃダメなんだ。ちゃんと現実的な犯人が必要なんだ」

 山口は前田に近づいてきて、スマホを取り出した。

 スマホにはニュース記事が映っていた。記事にはこう書かれていた。

『トイレットペーパーの高騰により低所得家庭に大打撃。各地で盗難・ひったくりなど相次ぐ』

「わかるかい? 世間の混乱に乗じて低所得者は犯罪に走っている。やつらはまともに物が買えないから、自分より金持ちを襲って物を手に入れてるんだ」

 山口は岩隈を指差した。

「ここにいるこいつは、低所得者のクズなんだ!」

 山口の大声で岩隈も目を覚ました。

 目を覚ました岩隈がカウンターから飛び降りた。岩隈はまだ両手を縛られてなかったようだ。だが、両足を結束バンドで固定された岩隈はすぐにコケて床に倒れた。

「ぎゃははははははは。おばさん、無理すんな」

 山口は前田に向き直った。

「藍ちゃん。君が知らない真実があるんだ。俺と副店長しか知らなかった真実だ。実はね、岩隈は国から借金をしているんだ。母子かふなんとか貸付っていう施しを受けてるんだ」

 山口は岩隈に近づいた。

「こういう貧乏人はきちんと育てられるお金も計画性もないくせにセックスばかりするから簡単に子どもを作るんだ」

 山口は岩隈の顔面を蹴った。

「他人に頼るしかないクズだ。」

 山口はなんども蹴った。岩隈の唇は切れて、血が滴った。

「こいつの子どももまともに教育を受けられない子だから、どうせ将来は風俗嬢かなんかになるんだ。で、どっかの男とセックスしてまた貧乏人の子どもが生まれる。施しを受けるやつがまた増える。こういうやつらを養うために俺達は高い税金を取られてるんだ」

 山口は岩隈のお腹を蹴った。岩隈は血を吐いて床にうずくまった。内臓をやられたのかもしれない。

「お前みたいな底辺の人間に権利はねぇんだよ。お前ここで死ね。お前の娘はロリコンの里親にでも引き取られろ」

 山口は前田のところに戻ってきた。

「わかったかい? 岩隈ってやつは弱肉強食の世界でいうところの弱者なんだ」

 前田は山口を睨んだ。

「だからなに?」

 山口は頭に血が上って前田の頬を叩いた。

「だからこいつを犯人にするんだよ! こんなクズなんていてもいなくてもどっちでもいいんだから、こいつを犯人に仕立て上げて警察に助けに来てもらうんだ」

「そんなまどろっこしいことしなくても、そこのシャッターを開けたら外に出られるのよ!」

「藍ちゃん」

 山口は前田の顎を掴んで、キスしてきた。息が臭い。

 前田は山口を引き離し、カウンターから飛び降りた。

「君はわかってないね。俺はね、この店の店長なんだよ。この店で起きたことの責任を取らされるんだ。一体どこの誰がトイレットペーパーに襲われたなんて話信じると思うんだい! そんな説明して、俺が頭おかしいと思われて解雇されたらどうするんだ!!」

 前田は力説する山口を他所に床を這って移動した。ランプの明かりに照らされるあるものを見つけたからだ。カッターナイフだ。あれがあればなんとか切り抜けられる。

「君達バイトはいいよ? だけど俺みたいに責任ある人間は店を再開させないといけないんだ。それなのに君達は店の中をぐちゃぐちゃにしてくれた」

 前田はカッターナイフに近づいた。縛られてる手でカッターナイフを掴んだその時、襟を掴まれた。

「藍ちゃん。年上の人の話は最後まで聞かなきゃ」

 山口は前田の胸を凝視した。今は濡れて服が肌に貼り付いているから、前田の体のラインが顕になっていた。

 山口は前田の胸に顔を押し付けた。

「ああ、いい。未成年の胸。若い子の体」

 山口は鼻息を荒くした。

「下にね、Tシャツなんて着ちゃだめだよ」

 山口は前田の首筋に鼻を押し当ててきた。

「若い子は新陳代謝がいいからすぐ汗臭くなっちゃうね」

 山口は前田のポロシャツとTシャツをめくった。

 ブラの中に指が伸びてきた。

 

 ずるっ。


 床を這う音が聞こえた。

 前田は横目で確認した。

 スプリンクラーの水で融解したトイレットペーパーの残骸がナメクジのように這って一箇所に集まっていた。

 トイレットペーパーは水につけても繊維同士が解れただけで溶けたわけじゃないと理科の授業で習ったことがある。

 前田は山口の下腹部を蹴った。

「はなせ!」

 山口は激昂した。

「ふざけんなお前! 俺はな、ずーーーっとお前への気持ちを抑えてたんだよ。世間じゃ盗撮するやつやレイプするやつ酷いやつがたくさんいるんだ! だけど俺はずーーーーーーーーとお前に手を出すわけでもなく我慢してきたんだ。え!? その気になりゃロッカーのお前の私物だって触れたんだ! だけど俺は誠実だっただろ」

 山口は前田のズボンに手をかけて、いっきにパンツごとずり下げた。

「俺がな、頭の中でお前にどんなことしてたか教えてやるよ!!!」

 山口はズボンを脱いだ。

 前田はすばやくカッターナイフの刃を出し、山口の勃起した性器を切り裂いた。

「ぬぅおおおおおおおおおおおおおああああああああああああ」

 山口の股間から血が滴った。

 前田はすばやく足と手の結束バンドを切断した。

「前田ぁああああ!!! てめぇ死ねぇええええ!!!!」

 山口が近づいてきて、前田は押し倒された。山口は馬乗りになって首を締めてきた。

 前田は山口を見た。いや、山口の後ろの人物を見た。

 山口はハッとして振り返った。

 岩隈が立っていた。

 岩隈はチャッカマンターボに火をつけて、炎口を山口の耳の穴に思い切り突き刺した。皮膚が焼ける音がして、チャッカマンの先端が鼓膜を突き破った。

「ぁーーーーーーーーーーーーーーーー」

 あまりの激痛に山口は自分でも聞き取れない甲高い悲鳴をあげた。山口は前田の上から飛び退き、耳を押さえながら後ずさっていった。

 すると闇の中からブロブのようなトイレットペーパーの塊が現れて山口を飲み込んだ。

 山口の鼻や口の中に湿ったトイレットペーパーが流れ込んだ。

 呼吸器官を塞がれた山口は咳き込み、やがて声が出なくなった。もがきながら、顔色が紫色に変化していった。じたばたしていた手脚だが、それも動かなくなり。やがて動かなくなった。

 トイレットペーパーのブロブは前田に近づいてきた。

「岩隈さんは隠れてて」

 前田は岩隈をカウンターに隠した後、ランプを振り回しながらブロブを誘った。

 走りながら前田はダイエットコーラを拾い、お菓子コーナーの棚でメントスを手にした。

 ブロブは前田に近づいてきた。

 前田はダイエットコーラのボトルの蓋を開けて、メントスを放り込んだ。すばやく蓋を閉めてブロブにボトルを突き刺した。

 ボトルの中で泡が大量に発生し始める。

 ブロブは前田に襲いかかってきた。

 ボトルが膨らみ、軋み、蓋が弾け飛んだ。中から大量の泡が吹き出した。

 ブロブの体内で泡が爆発した。

 ブロブは形状を維持できずに、前田の目の前で崩れ落ちてしまった。

 泡が繊維と繊維の間の結合を崩壊させてしまったのだ。

 前田は急いで入り口に向かった。シャッターを思い切り上げた。岩隈を背負って外に出た。

 岩隈の意識は薄くなっていた。

「さあ、外に出ましたよ。娘さんを迎えに行くんでしょ」

「そう。はやく迎えに行かないと」

「保育園はここから遠いんですか?」

「大丈夫。いつも歩いて迎えに行ってるから。ちょっと遠いけど。三号線の途中にあるの。花の絵が描かれた門が目印…」

 岩隈の体が氷像のように重たくなった。前田は足を止めた。

 岩隈の声が聞こえない。呼吸音もない。

 前田はそっと岩隈の体を下ろした。

 死んでいた。

 開いてる瞼を優しく閉じてあげた。

 悲鳴が聞こえた。

 前田は顔を上げた。

 人々が走り回って逃げていた。

 町中の建物にはトイレットペーパーが巻き付いていた。

 12ロール入りの袋に襲われている車もいた。

 町のどこかで火災が発生して、夜空が赤く染まっていた。

 町中、いや、世界中がトイレットペーパーに攻撃されていた。

 前田は水鉄砲を拾い、水を補充した。

 上空を陸上自衛隊のアパッチが飛んでいった。

 どこに逃げても安全ではないが、ひとまず向かうべき所がある。三号線沿いの保育園。

 前田はポンプアクションをして、歩き始めた。

(了)

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Killer Paper あやねあすか @ayaneasuka

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