第16話

 ハンナははじめて殺人をするにあたって、様々な方法を検討した。なにかに対して一生懸命になるということはこういう事なのだ。人は誰かのためなら頑張れる。そんな感じのメッセージのアニメとかマンガとか多いな、と日ごろ感じていたけどマジだった。すばらしい。生きてる感じ。人はひとりじゃ頑張れない。美しい人生。素晴らしい日々。理屈や法律を超えた愛。初夏の青空が爽やか少女漫画のアニメーションみたいできれいだ。早くあの人に会いたい。ふたり溶けあったあの状態がハンナにとって正常であって、別々の今は異常である。異常なのはダメなので、一刻も早くあたしはマルテの下へ戻らなければならない。

 殺人の詳細などあまり考えたくないので、ちょっと疲れたら河合マルテとの結婚生活を詳細に妄想するという逃避を行った。いつまでもあの教室に住んでいる訳では無いので、あのマルテの部屋に転がり込むのが当然の展開だろう。エーコとも非常に気まずい状態にある。だがまず、そこに至るには、義父を殺さなければいけない。

 直接的にナイフなどで刺し殺す、あるいは鈍器的なもので頭をしばく、などというのはNGかな、とハンナは考えた。血がきらいなので。あと捕まりたくない。だってあたしは旅行に行きたいから。毒殺っていうのもなぁ。どこで毒を買えばいいのかわかんないし、なんか陰湿な感じで好きじゃない。そんな感じでハンナは無い知恵を絞って考えた。オシャレな喫茶店とかで。だが考えれば考えるほど、具体的な方法はすべて残酷で、自分がするとなるとちょっと腰が引ける。単純にヘタレなのだ。ただ何かしない訳にはいかない、マルテに褒められたいハンナは、非常に消極的な方法を思いついた。

 義父に空の眼を毎晩見せ続けたらどうだろうか。

 見せ続けたら頭が狂って死ぬのではないか。

 ハンナはそう考えた。あれだけ怖がっていたのだ。確実性には乏しいが、直接ぶっ殺すというわけでもない。なかなかいい思い付きではないか、とおもった。

 ハンナはなかなかイカすアイディアである、と自賛していたが、無意識的に直接殺人を犯すことへの拒否反応とマルテへの激烈な恋愛感情がぶつかり合った結果の腰砕け妥協案である。


 茅ヶ崎から蒔岡邸に久しぶりに帰ると、玄関で母親が熱烈な歓迎をしてくれた。

「久しぶりだね、元気だった? わたしは相変わらずだよ」「茅ヶ崎っていいところ?めっちゃ平塚と近いじゃん、こんど遊びに行っちゃだめ?」

 ハンナは急にべたべたしてくる母を「あーひさしぶり、あとでね」と適当にあしらい、応接間で義父とエリクに挨拶をした。

「突然出て行ってしまってすみませんでした」

「……」エリクは黙っていた。どないやねん。かわいい妹が帰って来たんだからちょっとはうれしい顔しろや。こちとらべつに兄が冷たくてもかまいやしない。今はマルテと言うかっこいい恋人がいるのだから。はやく肌と肌が触れ合いまくっているあの状態へ戻りたい。またマルテとあの感じになりたい。

 義父はエリクとは対照的に、笑顔でもってハンナを迎えた。車いすに乗っていた。

「久しぶりだね」

「ご心配をおかけしました……」

「いいんだよ、君の好きに生きなさい。いつ帰ってきてもいいんだよ」 

 義父はハンナに対して優しかった。その優しさは興味がないと言ってるのと同義だ、とハンナはおもった。義父はまたさらに老いたようにみえ、頭の方も衰えてきている、と感じた。この様子だと歩くのも厳しいだろう。この老人を殺す。この国の為に殺す。マルテのために殺す。自分のために殺す。理由はどうあれ殺す。うーん、やっぱやだなぁ。ふつうにかんがえて無理でしょ。どうしよ。どうしよ。どうしよ。ストレスなのか体調くっそわるい。便秘だし身体だるいわあ。


 家族の再会に立ち会ったジョルジはある事実に気付いていたが、誰にも言わなかった。

 ハンナが蒔岡邸の楼門をくぐった瞬間、各種センサーは体温や発汗、各種電磁波などでハンナの身体を調べた結果、彼女が妊娠二ヶ月であることが分かった。恐らく本人は気付いていない。そりゃめでたい、とジョルジは祝うことをせずに、沈黙した。こういうナイーヴなことは人に言われるのではなく、自分で気づいた方がいい、と判断した。

 

 そんな身重な自身の状態にまったく気付いていないハンナは、蒔岡に何週間か滞在することに決めた。体調悪いが絶対に殺さなければならない。義父を。ぶっころす。ああ。身体がしんどい。生理不順もえげつない。なんでだろ。ストレスかしら。

 義父に空の眼をみせるために、母とエリクが寝ている間に、父の寝所に侵入、毎晩夜の散歩と称して、一緒に蒔岡の庭を散歩した。義父はハンナの誘いを不思議と断らず、深夜の散歩はふたりの秘密の習慣となった。最初は曇りの日が続き、空の眼が見えなかった。時折雲間からのぞく空の眼はハンナの予想通り、確実に義父の精神を蝕んでいった。義父の体調はみるみる内に悪化していった。

 ハンナと義父はいろいろな会話をしたが、すこしずつ脳が壊れていく義父の容体悪化をハンナは栄光へのカウントダウンとして感じていた。


 いつに増して夜空が明るい夏至の日。今日も今日とてハンナと義父は、十五日連続で深夜の散歩に出ていた。

「やりがいを感じるものが理論的な達成でしかなく、国家の利益と結びつくことが無い場合も考えられる。僕は社会がサステナブルでなくなるのは良くないので、サステナブルになるようにソーシャル・デザインしたいという立場です。生き方としてはアリだけど、ソーシャル・デザインとしてはマズいということなら、ある種のエリーティズムを持ち込むことが論理的必然になります。 エリーティズムの行きつく果ては、一人の天才と、集約された情報、それを処理する大量のAIだ。世間が甘ったれた状態に向かうのはしょうがないが、なんとかしなければ、と考える優秀な人間が必要なのです」

 義父との会話はいつも脈絡が無かった。ハンナはてきとうに相槌を打っていた。

「それにしても今の日本人は頭が悪くなった。昔はそうではなかった」

「そうなんですね」

「今の日本人に民主主義は高級すぎるのです」

「民主主義のほうがいいかも、とかちょっともおもわないんすか?」

「その場合ももちろんあります。ただ諸条件を鑑みるに最適なのは今の政体です。民主主義という魔術によって生じたすべての人間を平等化する下品な権利の群れは、彼らの無意識に深く根差し、住み着いて離れなくなりました。今民主化するのは悪手です。民主主義は『情報処理の一つのスタイル』であり、その最大の価値の一つが『処理スピードの遅さ』なのです。ただ、情報量が認知できる何億倍にも膨れ上がった今の時代には合わない。ただそれだけです」

 ハンナはふむふむ、とうなずいていたが本音は九割なにいってるかもちろんわかっていなかった。エリクならわかるのだろうな。ハンナはそうおもった。

「分かりやすく言うと、情報密度が濃いこの世は予想外の事態が起こりうる、n次系のカオスとなっているわけです。何が起きるのかわからない。大事なのはとっさに最適行動をとれるものが必要となるのです。民主主義では何もかもが遅い。手前味噌だけれども、大衆は構造が限りなく完璧に近く最適化されているシステムというのを目の前にしても理解できないのです。その計算根拠はすべて公開されている。それを一般大衆が見ても理解できないのはしょうがないし、理解できないから一部の人が怒るのもしょうがない。怒ると攻撃する。それもしょうがない。一部のみを取り上げて指摘しても無意味なのです。全体最適を理解していないのだから。すべては全体最適のもとに調整されているのだから」

 義父は説明しても理解されない苦しみを味わい尽くし、大衆への諦めに満ちた表情をしていた。

「自分に政治が理解できる知能がある、政治参加する権利がある、と考える事がそもそも傲慢なのです。今の僕の脳はヘイフリック限界寸前です。やりきったのです」

 義父は金メダリストのインタビュー時のような爽やかな口調で言った。自己満足と矜持を隠さない、ある意味文句がつけようがないので傲慢な態度。ハンナは腹が立った。自分はそんな気持ちになったことが無いからである。飛行機を作ったのだって、自分が頑張った訳では無く、遠江のリソースを使っただけで実際はエーコとだらだら過ごしていただけである。努力したことある人、というのはおしなべてハンナの敵であった。

「未来は明るい。エリクは本物だ。それが自分の息子でよかった。間に合った。よかった」

 ハンナはそんな息子を褒める父親など見たくなかった。自分が両親に褒められたことが無かったことに気付いたからである。むかつく。

 ハンナは彼の言葉を理解できていなかった。なので彼の声を音楽として認知していた。彼の声は彼女の感情に対してなんら効果を持っていなかった。ニュートラルである。マルテの声が彼女の心をざわざわさせるのとは大違いであった。早くマルテのもとに帰りたかった。きっと褒めてくれるとおもうので、マルテの声や顔と相まって幸福を得られる期待値がやばかった。

「だったらさっさとくたばれやクソジジイ」と耳元で囁いた。わたしはあなたを殺したいんですよ、というのをちゃんと示さないとずるい気がしたのである。

「ヒトは他人の行動が気に食わない時、自分が不快感と感じただけと認識できないでルール違反だと感じがちだ。そしてなぜルール違反なのか理論武装を始める。個人的感情とその国家における社会規範は個人の中では知性が無いと即応的に判断不可能だ。システムが合理的になるにつれ、人間という生き物は自然科学に関してはべらぼうに強い。いわゆるテクノロジーだ。しかし、政治や社会にかんしては能力の限界を二〇世紀の時点で迎えた。官僚制度を突き詰めていくと、機械で置き換え可能であるというのは明らかだ。整然として優秀なシステムというのは、必ずエネルギー源と廃棄物の問題に突き当たる。そこを考えるのが人間であって、システムに対するルサンチマンは無駄でしかないんだよ。だいたい君たちは俺たちを何だとおもっているんだ。知能がまるで違うじゃないか。その差が理解できないほどの白痴がなぜ意見を持っていいと勘違いしているんだ、恥を知れ、大衆は恥を知るべきだ……」

「大衆は廃棄物ですか」

「たいていの場合はそうだと言っていい。システムにおいて人間的であるという事は必要ではない。でもハンナちゃんは正しい。それは正しいですよ。僕は空の眼に狂って死ぬ。システムアップデートの時だ。今まではマイナーアップデートだったけど、今回はリビジョンが僕からエリクに変わるメジャーアップデートなだけだ」

「あいかわらず何言っているかはわからないけど、ほら、みてくださいよ」

 そう言ってハンナは義父を既に中天にある空の眼の真正面に来るよう車いすを向けた。今夜の空の眼は月で言う満月、真円の状態だった。日ごと空の眼の光は増していき、照明の一切皆無な庭園内を青白く照らした。こんなことは今までの世界ではかんがえられなかった。空の眼がもたらしたあたらしい世界だった。

「空の眼! おそろしい虚数域からの刃。宇宙的規模の疑問符。……なんと理不尽なことだ……」

 なにをニーチェみたいな文体で言ってんだ、とハンナはむかついた。

「〇と一の実数世界とは関係ない。我々には絶対的に認識できないはずの世界だ。人は有限の経験の中から無限を知らなければならない。だがこれはあまりにもあけすけだ。下品だ」

 義父はうめきながら手を顔の前にもっていって見る事を拒否していた。

「ほら、しっかり見てくださいお義父さん。おっきくてめっちゃきれいですよ。まんまる」とハンナはにやにやしながら義父の車いすを空の眼へ向けた。

 開けた美しい庭園の上空のほとんどを、青白い巨大な眼が覆っていた。池にも青白い光が反射して、庭園を別の惑星のようにした。

「でかい……」

 だが、日常的に非現実的な世界に慣れているハンナはこんなのへっちゃらであった。

 目をそらせばいいものを、こわいの苦手なのにホラー映画好きな人みたいな感じで義父は怖がりながらも空の眼を凝視していた。涙が目じりのしわあたりに溜まっている。ハンナは、このじじい泣くほど怖がってやがる。小便もらすなよ、ははは。とおもった。日本で最も優秀で貴重な人間をいじめているのが非常に愉快であった。そして、彼が苦しみ精神が病むほどに一歩一歩マルテとの旅行に近づいていることが快感であった。どこ連れってってくれるのかなー。楽しみー。

 不思議と義父はやめてくれとは言わなかった。ハンナはやめろ、といわれてもやるつもりだった。恐怖に顔をゆがめながら、たびたび目をそらしながらも、克服しようと見つめ続けたのである。冷や汗を垂らし息も荒い。

 もう一息だな、とハンナはおもった。

 ハンナは車いすの前に回り込み、父に顔を近づけて言った。

「おかあさんもあたしもあんたのことがだいきらいだよ。お金が目当てです。完全に」

「死んでください。もうあなたは必要ありません」

「きもちわるい老人。臭いし」

「傲慢で孤独な独裁者。弱者の気持ちの分からないクズ。悪魔」

「これはあたしだけじゃない、日本国民の全体の民意なんです」

「痴呆。ぼっちジジイ。超ダサい」

「死ねば?」

「政治のこと偉そうに語っちゃうのキモい。理屈っぽい」

 ハンナは言っててなんだか義父がかわいそうになってきた。想像していた何倍もの不快感と罪悪感がハンナを襲った。そもそも人を傷つけたりするのに向いていないのだ。蚊も殺せない、って訳では無くまあ蚊だったら殺すけど、カブトムシとかカマキリくらいのサイズ感だと殺すのを躊躇するほどやさしい子なのだ。あたしは。よろしくね。

 暴言だけに関していえばむしろ喜んでいるような気がして不気味であったが、確実に空の眼に対する恐怖は蒔岡リュウゾウの精神を日々蝕んでいった。不思議なことに二人の決定的な瞬間は同時であった。

 何が理解可能な理論かはその分野・時代の科学者が共有しているスキルによって決まる。理解とはあらゆる状況で何をすべきか分かっているということだ。

「国民国家はすでに最終段階にある。よかったよ」

 義父はそうかすかな声でつぶやいた。義父はハンナの頬に初めて触れた。

「やっと本物に触れた……」そう言って目を閉じた。

 空の眼は月でいうところの満月となり、夜空を覆う巨大な真円となった。

 ハンナは振り返りそれを見た。かなり不気味であった。デカくてキモい。今にも落ちてきそうだ。

 空の眼と目が合った瞬間、ハンナの「あれ」が始まった。実に久しぶりであった。

 恐怖に苦しむ義父。

 青白い庭園。

 空に浮かぶ巨大な眼。

 辛うじてあった現実感が全て吹き飛んで、ハンナはかつてないほど巨大な恐怖の扉がひらくのを感じた。クッソ怖い。不安感が彼女を襲った。「あれ」が久しぶりに始まった。

 まずい。

 マルテとの恋愛で治ったとおもったのに。

 立てなくなるほどにエネルギーやモチベーションが流れ出ていく感覚。今までで最も大規模なものだ。

 ハンナは自分の股のあたりに何か熱いものがつたい流れているのを感じた。

 あっ、とおもった時には遅かった。

 それが何かは、なんとなくわかっていた。

 腿を伝い地面へハンナの黒い血が流れ、ハンナと義父の車いすが通った道を赤黒く染めた。

 義父はこと切れていた。

 脳梗塞であった。

 空の眼はこの日、蒔岡邸から二つの命を吸い取った。

 

 あくる日、ハンナは自分が落ち込み切っていることに気付いた。気づかないまま赤ちゃんが流れたこと、義父を間接的に殺したこと、やっぱりきつい。耐えられない。

 三日間、病院に居たが母が見舞いにやってくるのもキツイ。夫を亡くした母は目に見えてやつれ、よくハンナの前で泣くようになった。

「もううるさい。おかあさんこそ、蒔岡にこのまま居たら爆弾でころされるよ。エリクのお母さんも殺されちゃったんだから。ここに居たら死ぬよ。みんな嫌いなんだよ蒔岡が。民主主義がなんだかんだ正しいんだよ。まちがってるよ」

「でも……そういうむずかしいの、おかあさん、わかんないから……ハンナちゃん、ひどいよ。おとうさんがまたいなくなっちゃったんだよ。おねがいだから、おかあさんをおいていかないで」

「だからもうこの家を出ようって言ってるじゃん」

「でも……」

 ハンナの母は悲しかった。せっかく親しんだこの家を出るのはいやだったし、エリクを実の息子同然にかわいがっていたからである。ハンナはいやがる夫に空の眼を見せ続け、間接的に殺害した。それはほんとうにひどいことだ。娘はなんでこんなおっかない感じの人になってしまったのか。まったくわからなかった。ハンナは母が人と口論しているのを見たことが無かった。おっとりした性格ということもあるが、なによりハンナをはじめとした他人の言うことの方がバカな自分より正しい、といつもおもっていたからである。自分一人だけでは外出するのがおっかないほどに、自分の頭を信頼していなかった。

「お義父さんにかわいそうなことして、ひどいわ」と小声で言った。

 あっ、とハンナはおもった。この女、あたしが殺したとおもってんな。まあそうなんだけども。実の娘を疑うなんてひどい。ハンナは激烈に腹が立った。そもそもあんたは若いエリクと仲良くしてあの親父はほったらかしだったじゃないか。あたしもほったらかし。自分ばっかりみんなに好かれていい気になって。

「お義父さんは初めからあんたみたいなバカは好きじゃないよ!」とハンナは言い捨てた。

 母はちょっと信じられない、というような顔をした。

 ハンナはちょっと酷いことを言い過ぎた、と後悔したが、その後悔とは別のところに貯蔵されていた積年の母への不満が爆発した。流産の衝撃と殺人への後悔が彼女を混乱させており、感情の出所として近くに居た母を標的にした。

「昔からずっと言いたかったんだけどさぁ、おかあさんって自分の意思とかないの? 他人に反応してるだけでなんか見ていてむかつくんだよね。たまたまかわいく生まれてきたからよかったけど、もしブスだったら最低最悪な人間だよ? なんも役に立たないじゃん。だからあなたとはもう関わらないって決めたの。ほっといてよ」

 ハンナはまくしたてた後ちょっと黙った。それがそのまま自分にも当てはまっていることにすぐに気付き、うっ、となった。かわいいだけであとは能無しなのは自分やんけ。自分の言葉で傷ついていた。アホである。

 母はあなたが何を考えているのかわからない、と言ってぐすぐすしていた。その哀れっぽい感じで自分の無能をいろんな男を騙してごまかしてきたのだ。少なくともあたしは仕事頑張ってる。おかあさんは姑息だ。卑怯だ。あたしはもっと前向きで爽やかだ。

「もういいよ、ばか」そういってハンナは部屋を出た。多分もうすぐ母は声を上げて泣くだろう、という直感があって、その声をききたくなかった。事実母はそのあと泣いた。さめざめと何時間も泣いた。


 その後すぐにジョルジがハンナの部屋までやってきて、お菓子などを渡してくれた。

 ジョルジが一言、「河合マルテという男を知っていますか」と言った。

 びびった。

 ハンナはあたしのカレシですけど? と言いたい気持ちを抑えて「知らない、だれそれ?」ととぼけた。義父を殺してくれ、と頼まれている手前あまり情報を出したくなかった。

 ジョルジが差し出したのは、アメリカのとある整形外科のカルテであった。ほとんど英語かドイツ語でハンナには読めないが、河合マルテの名が多分書いてある。ジョルジ曰く顔と声帯を変える手術だそうである。マルテってアメリカで手術したことあるんだ。しらなかった。

「なんでこんなのをあたしにみせるの?」

「まだ、わかりませんか」

「ぜんぜんわかんない。このマルテって人は何なの?」

「五年前、蒔岡の下人だった男です。怠惰で使えない男でした」

「え」

「すぐに気づかずにすいませんでしたハンナさん。昔からコイツにデータ採られてました」

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