第15話
仕事なんてきらいよ、ずっと家で絵を描いてギター弾いてたいの。
そう言ったエーコのギターはしっちゃかめっちゃかだけど、時々笑えたり綺麗だったりした。全然特別じゃないけど、ハンナは好きだった。
ユーアーノットスペシャル。
お前は特別じゃない。
映画「ファイトクラブ」にでてくる愛すべきアナーキスト、タイラー・ダーデンのことば。
どんなに美人でも代わりはいるし衰える。
ハンナはそれがいやだった。なにかしらハンナでなければならない、みたいなことが欲しくて、できればそれが他の人に認めてもらいたかったし、ネットとかで称賛されたりしたかった。だが現在、カレシができてそういうの全然悩まなくなりましたぁ。やったー。いまたぶん東証一部上場の三百倍くらいうれしい。
初恋実り浮かれきったハンナは、マルテとたびたび逢瀬しては幸せをかみしめた。そんなハンナをエーコは苦々しくおもっていた。そんなエーコが苦々しさ丸出しにしているのをなんとなく感じていたハンナは、ちょっとフォローが必要かしら、なんて小憎らしい気遣いをすることとなった。友達に彼氏ができたとしても、ふたりの友情は永遠だよ、って言える乙女でありたいあたしは、と考えていた。
ハンナは学校ちかくの茅ヶ崎の海にエーコと来た。ふたりして夕涼みでもしよう、とハンナが誘ったのである。さっきエーコにプレゼントした矢絣の浴衣は良く似合っていた。
空は曇っていた。海風はただでさえ湿っぽい肌をさらに湿らせた。
海風が容赦なくハンナの過去を浮かび上がらせ、「おかあさんをよろしくね」という実父の言葉が胸を衝いた。
エーコはそんなセンチメンタル過剰なハンナの横顔をチラチラ眺めながら、美しい、とかビューティフル、とか在庫に乏しい言語野をぐるぐるさせて詩情に浸り、自足するのであった。その歓喜たるや茫漠たる大河のごとく、ごんぶとで豊かでまったりとした愛情をエーコはハンナをみつめることで得られるのであった。
一方ハンナとは言うと、父親への想いは無意識の彼方へと飛んでいき、直近の課題であるマルテとあれこれしたい、という娘らしい悩みへと脳内のリソースを向けていた。なんとかしてもっとマルテの愛情を得たい。まだ足りない。どうすればよいのだろうか。と至極健全な欲求を理性的に考えたのは一瞬で、理性的に考えるのが苦手なハンナは自身がマルテと愛たっぷりに戯れる少女漫画のつぎはぎのような妄想を展開、波の音はハンナを限りなく原始人へと戻し、表情は極めて危なっかしいラリッたものへと変貌していった。
そんな表情のハンナに対して、想い人を見つめる事がこの上ない至福だとエーコは感じていた。
エーコは自失気味のハンナに、
「ハンナちゃん、だいじょうぶ、よだれたれてるよ」
その言葉に我を取り戻したハンナは、
「大丈夫よ、ウミネコが鳴いているわね」
「ウミネコなんてどこにもいないよハンナちゃん、頭へいきなの」
「……けっこうへいきよ、どっかこの辺で座りましょう」
「……」
「……」
ふたりは波をみながらなんとなく無心でいた。
そして長い間波打ち際に棒立ちで居るのは人間としてどうなのか、という当然の思考にようやくたどり着いたふたりは、すこし波から離れた場所に座り込んだ。砂の感触がお尻に気持ち悪く、ふくらはぎに大量の砂がくっついた。湿っているので二人ともシンプルに不快であったが、せっかく座ったのにすぐ立つのもなんかあれなので我慢した。
「でもうみ、きれいだね」
ハンナは別にきれいだと特段おもっていないのだが、あくまで会話の濫觴として発語した。「でも」と接続後をあえて冠したのは理由があった。
ハンナは海について複雑な感情を抱いていたからである。
実父との一件もあるが、ハンナはもっと深い部分で海が苦手であった。表層的に波の音とか空と海とのあいだの部分とかはキレイで好きなのだが、なんというか根源的な恐怖を感じていたのである。よくハンナが幼いころに考えたのは、海水が無限に透明であったらどういう光景が見えるのだろうか、という思考実験であった。海には大量の生き物がいて、視界いっぱいに遠近の生物が大量に拡がる、という状態を想像し、気味が悪くなるのだった。今は海水が透明じゃないからキレイな風景だけども。個人の認知の限界を超えるのほど大量の生物がこの中に居る。人類が認知していない未知の巨大生物だっていないとはわからない。想像してみると蓋し不気味である。なので海の外側だけを見て、心からきれいだな、とは思えなかった。
ハンナはその旨を伝えると、エーコは、
「見えないから別にいいじゃない。海はきれいだよ」と言った。
「そうおもえないんだよね、昔から。やっぱちょっと海って怖いんだよ」
「アメリア・イアハートは海に落っこちたのかな」
「そうなの?」
「わかんない。謎なのよ。でも私は海に落ちたんだと思う」
「どうして?」
「残骸も何も見つからないなんておかしいじゃない。きっと赤いロッキード・ベガも海の底よ。アメリアの死体も」
ハンナは訳の分からぬ南洋の魚に自分の死骸がつつかれているのを想像して気分が悪くなった。海の一部になるのがいやだった。
「まあ海はきれいだよね。外面だけはきれいだわ。中は知らんけど」とハンナは言った。
エーコの頭の中では、「あなたのほうがきれいよ」というあちこちでこすられている陳腐なセリフが浮かび、顔に血が上るのが感覚で分かった。なにをしょうもない。死にたい。
自分はもうすでに、どうしようもなくこのナイーヴな年下の同性を好きになってしまったのだ、とエーコはおもった。だが彼女はあのうさんくさい河合マルテを慕っており、いたって正常な女の子である。エーコは正直マルテがずっと気に食わなかった。バンドでも、ボーカルとしての資質は顔面のみであり、鼻にかかったような高い声も音楽の知識の付け焼刃振りもきらいであった。特に音楽に関しては、堂々と良く知らぬといえばいいものの、感覚的な芸術であることをいいことに理論派と感覚派の顔を都合よく架け替えて、その場をいい感じにすることのみに精通した立ち振る舞いに、エーコは殺意とまではいかないが、ハードめな拷問にかけたいくらいの嫌悪感を抱いていた。あと音楽好きでも詳しくもないくせに、未知の音源を探すことをやたら「ディグる」って言うのも腹立つ。たいして深く掘ってないのに得意気なのも腹立つ。
エーコはハンナの海を眺めるアンニュイな横顔を見ていた。
ハンナはマルテのことを考えていた。それを察したエーコは嫉妬した。
ハンナの興味を少しでも自分に向けるため、エーコは自分の過去について語った。自分のバックボーンを他人に語るのは初めてだったので、話はヘタクソだったが、ハンナのタイミングのいい相槌や、掘り下げる質問がいい感じだったのでエーコは気持ちよく話すことができた。
エーコと姉であるフーコは、両親のいない姉妹だった。
ずっとエーコは社交的な姉フーコに経済的に依存していたのだが、ギターや絵に興味を持った妹をフーコは溺愛し、見知らぬ客への手コキやフェラチオが主な業務内容のピンクサロンでの勤務で部屋から出ることのできない彼女を支えた。偶然客として訪れたフィルは、フーコのトークにほかの嬢にはない知性を感じたのと、パイズリの技術が若いみそらで円熟の域に達していた為、自身の愛妾兼社員としてエーコごと遠江に引っぱって来たのだという。
そしてフーコはエーコの絵やギターの為にフィルの愛人兼部下として身を粉にして働き、二人分の生活費を稼いでくれているのである。
これはまったくの余談であるが、パイズリとは女性の左右の乳房の間に男性の陰茎を挟み、そのまま乳房を上下に揺さぶって擦るという本番禁止の各種店舗型性風俗店では定番の行為である。柔らかい女性の胸で包み込むことで擬似的な膣を作り出し、摩擦によって生み出される刺激を楽しむ。客観的に見ると女性の胸に陰茎を突っ込んで上下させているのはおそろしくばかばかしいビジュアルであるし、女性の方は一体自分は何をしているのかと途方に暮れることになる。なにより陰茎への刺激は大したことない。男性側の視覚的刺激がメインのほんとうに情けない行為であるため、男性から女性にパイズリしてくれ、と言うのは、軽蔑されるリスクを伴う非常に勇気の必要な行為である。以上、余談。
エーコは自分とフーコの人生を語り続けた。
「フーコはわたしが自立するために一緒に住んでくれなくなったの。だからわたしも絵を描いてなんとかお金を稼げるようになりたいの。でも描けない。じぶんでもようわからないのよ」
「ほんとは自立したくないんじゃないの」
「そうかもしれない。だって、いま、結構幸せだもの。フーコとハンナちゃんのおかげでね。罰当たりなくらい」
そういってエーコは身の上話を終えた。ハンナはそれに対してうまい言葉を持たなかったので、ファイトだよ、みたいな薄っぺらなことばを吐いたのち押し黙った。波の音が沈黙をうまく埋めてくれた。
「のどがかわいた」ハンナがいうと、
「コーラならあるよ、ぬるいけど」
とエーコがZARDの歌詞みたいなことを言いつつビニール袋からおもむろにビンのコーラを取り出す。
「飲ませて」とハンナが甘えた。人に甘えるのは初めてかもしれなかった。母は頼りないので、もの心ついた時から自分のほうがしっかりしていた為甘えた記憶がない。
「いいよ」
承諾を得たハンナは、砂で汚れるのも構わずに、エーコの太ももの上に後頭部を乗せ、膝枕の姿勢を取った。エーコの腿にほっぺたをつけて寝ていると彼女の頬紅の香りが薄化粧を流す汗と一緒にほのかに感じられた。いつもおくれ毛がぴんぴん跳ねているひっつめにした髪は、潮のおかげで今日はしっとりと水分を含んで首元にはりついていた。この女クソエロいなあ、と直接的な批評をしつつハンナはエーコの腿の上にほっぺたをのっけて安らぎを感じていた。ハンナから見るとし下から見上げたエーコの乳はかなりのボリューム感だったし、太ももの感触は他の接地面が砂で気持ち悪いのとは別格で甘美なまでに心地良く、ああ、気持ちいい感じな感じだわ、とつぶやく。
なにそれ、と言って微笑するエーコの小規模な顎を見上げ、ハンナはエーコにコーラを飲ませてもらうのだった。まあまあ炭酸がしんどい。
エーコはハンナの服にこぼさぬよう、慎重にハンナの口元めがけコーラを注ぐ。美しく不安定なこの娘に無限の愛情を抱いた。ハンナとならば、きっと何年たっても変わらぬ気持ちですごせるだろう、なんてドリカムみたいなことを心からおもった。
ハンナは波の音を聴きながら、満たされている自分に気付いた。もう、これで終わっていいかな、とエーコの豊かな乳房を下方から眺めながらおもった。世界が秩序を取り戻したような気がしていた。ずっとこのようにして母に甘えたかったのかもしれない、と感じていた。
はやくこの芸術家気質の娘の頭上に、真っ赤なロッキード・ベガを飛ばしてあげたいな、とおもった。ロッキード・ベガは海の底になんかいない。空を飛ぶのだ。これでエーコの絵が完成すれば、もう最高だ。
エーコはいま、ハンナにkissしちゃおうかな、と考えた。自分がここまでアクティブなレズビアンだとは自覚していなかったので、秘めていた自分の劣情におどろいた。日がな一緒にいるわけで、ハンナを慕う心は身体的接触がトリガーとなりエーコを行動へと駆り立てた。ただ、いまkissした場合関係悪化が予想される。彼女はマルテに夢中である。近年のLGBTに対する社会の寛容さからしていけるんじゃないか、なんて冷静な意見もある。そんな冷静な意見以上に、エーコのハンナに対する愛しみは爆上がりで、もうやってしまおう、ということに理性と感情がおちついた。
で、kissした。
顔を近づけるほどにハンナの顔にとまどいの色が増すのがおもしろかった。美しい顔。愛しい。
唇が触れ合うかどうかという瞬間、ハンナはエーコを突き飛ばした。
「ちょっと!」
エーコが最も懸念していた事態が起きた。
「え? マジ?」とハンナは訊いた。
「……マジだよ」エーコはめちゃめちゃ残念そうに言った。突き飛ばされてかなしかった。
終わった、とおもった。
「……えぇ~と、えー、うそ? ごめん。どうしよっかな。はは。あーそう。ははは」
ハンナは笑ってごまかそうとするも、エーコはマジでマジな顔をしているのですぐやめた。えーどういうこと。エーコはあたしに対して性欲を抱いたという事かしら。女子同士でそういうことってあるの? ……あるか。あるにはあるか。レディコミとか。全然あるよ。いざ目の当たりにすると引くなぁ。マジびっくりだよ。ハンナはひどく侮辱されたように感じていた。背が高く美形な彼女は、小さなころから男性からでなく女性からも好意を寄せられることがままあった。しかし、人生がせっかくうまくいっていて、エーコにはなんというかいままでにない友情や信頼をかんじていたのに、なぜそれに水を差すようなことをするのか。なぜいきなり接吻なのか。まずはカミングアウトとか告白とかそういうのを経て接吻などを試みるべきではないのか。もっと段階を踏んで来れば拒否するにしてももっと理性的な態度がとれたのに。がばっとくるからびっくりしてつきとばしてしまった。なぜそんな強引に迫るのか。なぜめっちゃ距離あるのに直接フリーキック狙うみたいなことをしてしまうのか。せっかくロッキード・ベガを作って、一緒に飛ぶところを見たかったのに。
ハンナがそうおもうのも無理はないが、エーコはもともと重度のひきこもりである。他人との距離感などは廃校の図書室に放置してあった少女漫画くらいでしか学ぶことができていなかった。この場合、ハンナがフォローとかを入れたりするべきであった。
ただ、ハンナは黙って立ち上がり、ひとりで海岸を去った。彼女の逃げ癖はここにきて直っていなかった。
エーコは初めての友人をなくして途方に暮れた。
ものの見事にフラれた。
拒否された。
無限とも思える後悔が波とリンクして永遠に続いていくようであった。
ハンナはその足でもうすでに何度も泊まっているマルテの住むマンションに向かった。もはやあの教室には居れぬ。気まずい。誰よりも相談したいのはマルテだった。今の気持ちはネットにもあげられない。マルテはハンナの人生において最上位の他者であった。ベストオブ男性フォーミー。
マルテは「来ちゃった」とベタなことを言うハンナを優しく迎えた。
「友達を失ったのよ」
「エーコと喧嘩しちゃったのか」
「喧嘩っていうかねぇ。よく考えたらあたしが悪いのかなぁ。でもなぁ。いきなりでびっくりしちゃったんだよなぁ」
説明がめんどい。とりあえずこの気持ちをなんとかしてほしい。
マルテはそんなハンナの気持ちを察したのか、何も言わずハンナを抱きしめた。自分より巨大なものに包まれる感覚。ルララ。宇宙の風に乗る。それは冷たい海の不気味さとは違ったものだった。お互いの体温が反射しあう心地よさ。肌が溶け合うような感覚。肉体と精神は恥知らずなほどにマルテを受け入れている。頭の中からエーコのことなどふっとんでしまった。脳からオキシトシンがびっしゃびしゃに出てる気がする。
マルテはハンナの頭をなでながら恐ろしく魅力的な低音でささやいた。
「ハンナちゃん、なにを考えているの」
「何も考えていないです」
「ほんと?」
「ほんと。ただ見ていたんです」
「何を」
「あなたを」
「ハンナちゃん」
「なんですか」
「……お義父さんを殺してくれる?」
マルテはハンナの頭を撫でながら言った。
潮風で髪がパサパサになっているのが悔やまれる。
夢見心地のハンナは「ん、なんで?」と言った。
冗談だと思っている。
「俺のために」
「うん」
「お義父さんがね」
「うん」
「邪魔なんだ」
「……」
「老害は消えないといけないでしょ? ろくなことしないしさ。君なら蒔岡の家に堂々と入れるはずだ」
そう言ってマルテは少しく険しい顔をした。ハンナは彼に笑顔に戻ってほしかった。険しい顔はいやであった。
「……わかったー」
「ほんと?」
「うん。マルテさんのために頑張るよ」
「うれしいよ。ほんとうにハンナちゃんは東京でいっちゃんイイ女だよ」
ハンナはうれしくてわなないた。ああああ。ああああ。東京でいっちゃんなんて。ああああ。いっちゃんなんて。たまらん。ああああ。ここ神奈川だけど。ああああ。
マルテは言った。
「これが終わったら、ふたりで旅行にいこう」
ハンナはうれしいので、
「うれしいです」と言った。
「どこへいこうか?」
「どこへでも」
マルテは微笑んで「それはちょっとこまるな」と言った。
「地元と渋谷以外は知らないんだもの。きれいなところに連れて行ってくださいね」
マルテは頷いて、優しくハンナを抱きしめた。マジやばい。ふたりでやわらかなものに沈み込むような幸せ。ハンナはおもった。自分かマルテか判らなくなるほどにべったべたのぐずぐずになった。その後のふたりはなにもせず、時折見つめあってはふざけあった。ひっそりとささやきようにまたまぐわって、その繰り返しでただ時間が流れた。
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