第14話
ハンナはある日突然、事故のようにマルテという男に惚れた。毎日のように会って声を聞き、顔を合わせるたびに加速度的に夢中になっていき、最終的にはマルテ以外のものが見えなくなった。長い金髪も黒に染め直して、恰好もキレイめで保守的なものに変えた。我ながらアホっぽいギャルの印象からちょっとしっとりした気色良い姉ちゃんになった感じがした。
きっかけは、とある居酒屋に会社の仲間数名と飲んでいる時のことであった。
マルテに「ハンナちゃんって時々バカだよね」といきなり言われたのである。母の血を継いでいる自分は結構頭が悪い方なのではと自認していたのでつい激昂し、自分はこれこれこういう理由でバカではない、というエピソードを交えた悲しい反論をしたところ、そのマルテとハンナの言い合いによって宴席がふたりを中心に盛り上がり、ハンナが稚拙な反論をすればマルテが鮮やかなカウンターで切って落とし、爆発のような笑いが巻き起こった。皆鯨飲馬食大いにもりあがり、その高揚感がハンナにとって得も言われぬ体験であった。あまり親しくないGoodDesign賞とか受賞していそうな職人気質のデザイナーのおじさんにも、ハンナちゃんって喋ると面白い子だね、と言われた。外見以外の最も褒めて欲しいところ、いわば感性を褒められたので、しびれるほどにうれしかった。いわゆるバラエティ番組を盛り上げる方法論として、対立軸をつくり喧嘩させる、というエンタメの基本があるが、マルテはそれを採用し、それ以降、飲み会ではかならずハンナと滑稽な論戦を酒席で繰り広げたのである。目玉焼きにかけるとうまいのは塩コショウか、しょうゆか、なんて下らぬ話を、むきになって討論した。皆面白おかしく拝聴し、おおいに笑った。二人は外見も美しかったので、宴席での魅力的な見世物となったのである。それはいわばマルテとの即興の漫才で、集団の一体感も相まってハンナはこれほどに楽しい時間は無い、と酒では無く集団に酔った。今までのハンナの飲酒は憂さ晴らしの陰鬱なそれであったが、今回はコミュニケーションの快楽に満ちた明るくたのしい飲酒なのである。これだよこれ。いままでの飲酒は間違ってた。ハンナもおおいに笑い、多幸感にひたった。「ちょっとひどいじゃないですかー」なんて言うけど、実際は全然ひどいとおもっていない、むしろおいしい、とおもいつつハンナは無双状態を続けた。マルテのリードに乗って場を盛り上げるのみに集中した。皆が笑っている。盛り上がっている。会話とは双方向のエンターテイメントなのだ。今気づいた。めっちゃいい。ハンナにとって集団に帰属する快楽はすごかった。抗えぬものがあった。この歳ぐらいの若者は自分が所属する集団の力学のみに心血を注ぐことが多い。ハンナが夢中になったこの集団に少しずつ己を溶かしていくような快楽は、エーコのギターがもたらす痺れるような生理的快楽とは性質が真逆のものであった。
また頻繁に飲み会をやる集団と言うのは、構成する個人が少しずつだが確実に同質化していく。特に同じ事象で全員が心から笑うというのは非常に重要で、いびつでバラバラな価値観を同じ形に少しずつ揃えていくような意味を持つ。日本の集団における必須作業である。飲みニケーションという恥ずかしい造語があるが、結束を固めて利益を追求する団体にとっては、最重要のイニシエーションだったりする。
飲み会において「これがおもしろいんですか?」とか、「わたしはそういうノリが嫌いですマジで」とか、「この話前の飲み会でもやりましたよね」とかを新入社員が言うのは均質性を是とする日本社会ではなかなかに厳しい。同性の場合は男だけなら下ネタ、女性なら悪口、とある意味鉄板の話題があるが、男女混合の集団だとそれも厳しい。今回の場合では、日本ではコミニュケーションにおける暗黙の教科書である、テレビのバラエティ番組の構造が採用された。
コミニュケーションに難を抱えるハンナにとっては宝石のような出来事であったが、それは宴席でのよくあることであった。ハンナは今までお嬢としてプライドを持ってきたわけで、そもそも人にからかわれるということは対峙的なコミニュケーションのなかで一番ライトなものであって、けしてハードな悪口ではなく、ハンナがおいしい感じでいじられることで、ちょっと変な子だよね、みたいないじりはいい感じに許容できたし、コミュニケーションの快楽と言う点ではハンナの人生において最高点をたたき出した。それをプロデュースしたマルテという異性に対して、熱病のような想いを抱えるようになったのである。大学生のサークルでよくあることだが、思春期に男性と距離を置いて勉学に励んでいた女性に限り、サークルで年上の男子あたりから雑な扱い、いわゆる「いじり」を受けたりするとその新鮮さから相手の男性を特別におもうことがある。今まで蝶よ花よと丁寧に育てられてきた良家のお嬢が、サークルで年上の男に雑な仕打ちを受けると、コチコチにこわばっていた自尊心が崩れ去り、そのショックで恋に落ちたと勘違いしてしまうのである。マゾヒスト気質の女性に顕著である。たいていその先輩はサークルの狭い人間関係の中心人物で、多少弁が立つだけでも妙に慕われていたりする。そんなわけのわからぬ男に簡単に股を開いてしまう集団心理の虜たる乙女のなんと単純なことか。マルテはそれを半ば意識的にやることに優れていた。相手が怒らない程度の悪口、それのフォロー、悪口、それのフォローを繰り返し、リズムに乗せて感情を意のままに転がす。それを二時間ほど続けると女性側の精神的な壁が破壊され、密な関係へと至る。ぶっちゃけ、やれる。あくまでそれは十代から二十代前半までの話である。
つまりハンナがマルテになにゆえに惚れたのかというと、端的に言えば彼にからかわれて変に意識し始めたからである。ZEN ZEN気にしないフリしても、恋してるのは明白。その後ハンナは、ネットで「男性 いじる 心理」みたいなワードで検索し、それは脈ありのサイン、なんて書いてあったら飛び跳ねんばかりに喜んだり、女性をからかっているだけ、と書いてあったら落ち込んだりした。このハンナの行為はただの精神的自慰行為であり、「小説家の卵」なんて自称して日々鼻息を荒くしているただの無職の若者が、眠れぬ夜メンタルがバッドに入ってしまった時にgoogleで「無職 大丈夫」とか検索するのに近い。結果は非常に無責任な「無職でも大丈夫な理由ランキング100」とか確実にアホが手遊びに書いた記事がでてくるのだが、読んじゃう。今日もgoogleは各種の悩みで不安な若者を慰めたり慰めなかったりしているのである。因果なものだ。
本格的に惚れたので、ハンナは都合のよい思考を巡らせた。マルテはあたしに対してだけ好意的に挨拶をしているような気がする。表情の明るさや声の高さなど、同じ職場の女性であるフーコに対するそれと比べると格段に違う。元気よく、ちょっと機嫌が良い感じをだしてくるということは、それすなわちフーコよりあたしの方を気に入っている、ということではないだろうか。自画自賛になるが、自分は結構健気に頑張っている。男性から見ても可愛いに違いない。そんなことを考えてハンナは身を激しくくねらせて歓喜を表現したいところだったが、人の眼があるので少々の身のくねりで我慢した。下腹のあたりに気持ちのよい喜びの塊があり、頬は上気してなにかしらの草でも食ったかのように爆発的に機嫌がよくなった。
ハンナの興味はマルテの歓心をかうことに集中しつつあった。仕事上でも頼りになるし、顔面はいけてるし、背も高いし、味噌山にあんなことを言った手前二度と顔向けできないが、とりあえず惚れに惚れ抜いた。自分でさえ制御不能である。マジで何なんだ、好きで好きでたまらん。そんな自分がハンナはいやだったがしょうがない。惚れてしまった日から、ハンナは苦しい日々を送った。想いを告白をすることについて考えると、胸が成型炸薬弾で発破されたように痛む。そんな告白なんて無理よハンナ、と脳内で誰かが言っている。だってあんたはプライドがクソ高いナルシストじゃない、振られたらほぼ自殺確定というか、えげつないショックを受けてしまうのでせっかく構築したいい人間関係も崩壊してしまうんよ、だからダメなんよ、とその脳内の誰がが言う。ハンナの理性の擬人化と言うかその類の人である。うんうんうん。わかってるよ。でも切ないのよ。あふれだすのよ。とハンナも反論する。若干狂気的になりつつあるが、なんであれ抑えきれぬほどの恋情であった。義兄エリクやベル瀬に無意識的に抱いていた憧れや親しみとはけた違いの感情であった。ハンナは、ああああ苦しい、とおもった。愛しみと切なみがえぐい。
時にマルテは頭をオールバックのように髪を無造作に後ろに流してきれいなおでこを丸出しにする。横顔はおでこから鼻にかけてハンナにとって理想的な曲線だった。ほっぺたは花びらでも傷ができそうなほどに薄く白かった。それはただ事ではない美しさだった。恰好のよろしい事この上無かった。
「どうしてそんなにきれいな顔をしているのですか」とハンナはおもわず問うた。問うた後、顔を真っ赤にした。こんなのもう告白したも同然ではないか。恥ずかしいけどもなんだか一歩進んだような気がしてうれしい。
「よく寝てるからだよ。起きているのがきらいなのかもな」とマルテは答えた。
なんだかよくわからない返答だったが、そのよくわからないところがとても良い。神秘的に感ずる。一般の二十代男性ではこの尖った回答は出ない。マルテは特別で個性的でかっこいい。マルテが動くたびに甘美な香りが鼻腔を突き、ハンナはたまらぬ、たまらぬ、と過呼吸気味になりながら高揚した。
教室に帰り、隣にエーコが居るのを気にしつつ、今頃マルテは何をしているのかしら、と考え続け、そんなことを考えているだけで夜が明けた際にはさすがの情けなさにベッドの上で悶え、ちょびっと泣いたりちょっとだけ自慰したりした。妄想だけでは足りず、なんとかして写真を入手しなければ、などと作戦を立てて、マルテを隠し撮りしようと職場の体育館の隅でこそこそカメラ付き端末をかまえている様は、蒔岡のお嬢として学校で奉られていた頃とはまったく逆の惨めさで、いままでのダウナーな自分とは比べようにもならぬ錯乱ぶりであった。ある眠れない夜には、マルテ、マルテ、河合マルテ、とオリジナルの拙劣なラブソングを作り、熱のみの陳腐な歌詞などをしたためている時があり、あっ、と正気に戻ると途端に死にたくなるほどの羞恥心にさいなまれ、こんなの狂気の沙汰だ、ぐあああああ、とまた悶える夜もあった。壊れるほど愛しても三分の一も伝わらない、とうたったのはシャムシェイドだったか、ハンナ的には三分の一でもいいからこの想い伝わっておくれ、と願うほどであった。そう願いつつもナルシストであるハンナはこんなにも思っているのに、みたいな自分がまた苦しくもイケてるとおもっていた。半ば錯乱気味の自己陶酔と自己嫌悪のあわいでうろうろしていた。そんなマルテに関するよしなしを考える以外の時間は、自らの容姿に関してもっと改善の余地がないか検討した。いままで自分をかなりの美人だと自認してきたが、はたして眉の形はこれがベストなのか。もっともっと私の顔面は高みへ近づく道があるはずだ、と鏡をみながら禅宗の僧さながらに自問を繰り返す日々であった。内向的な女の恋愛は基本的にしんどい。
エーコにはこの初恋の妄執への対処について相談していなかったが、一緒に住んでいるうえ、マルテの画像データをみながら床に突っ伏してうめいているハンナを何度か見かけたので、もろにばれていた。エーコはそんな、ああああ、ってなってるハンナを健気におもい、マルテに嫉妬している自分に無意識的に気付いていたが、それを外に出さぬよう努めねばならなかった。
それからハンナの恋愛における努力は基本的に空回りであった。
例えばマルテとの身長差が現在十二センチであることを正確に割り出したハンナは、向かい合って立って並んだ際に、おもわずマルテがハンナにkissをしてしまうというハプニングの可能性を少しでも上げなければならない、というかなり遠回りの思考を経て、十二センチのヒールを購めた。つまり彼と身長を揃えるという暴挙に出たのである。これは偶然kissしてしまう、みたいな少女漫画における描写の影響である。ハプニングkissなどそもそもあるはずがないのだが、常に熱を持ったハンナの頭ではそういう理屈などは気にもしなかった。ハンナはもともと百七十センチの長身で今までぺたんこのパンプスを履いていたのだが、十二センチのヒールを常用としたため一気にマルテと同じ百八十二センチに変わり、なんというか威圧感が増した。エーコは素直にキモい、と伝えたが馬耳東風。結果、高いヒールに慣れていないせいか廃墟と化していた校舎の階段で五回転び、うち三回足をねん挫してしまい三回とも泣く、という悲しい出来事が起きたため、そのヒールはめったに外出しないエーコにむりやり譲渡された。
ある時は、乳房の巨大なエーコにブラジャーを借り、中にヌーブラを三枚入れて即席の巨乳を作り出した。男性は結局巨乳に弱いのだよ、という内容の中原ますよという一般大学生のブログの情報を真に受けた結果である。明らかに偽物だとばれているうえにヌーブラがずれて腹まで落ちてる状態をマルテにみられる、なんてことが何回かあったため、結局この試みも失敗。ハンナは母譲りの貧しい乳を恨めしくおもった。
そんな丸出しなハンナの恋心は、いくら隠そうとハンナが努めても、タンカーから漏れた重油のごとくゆっくりとだが確実に態度に表面化しており、こと若い娘との恋愛における各パターンに関して老獪なマルテには完全に伝わっていた。シャムシェイドどころではない。
ハンナはそんなにもマルテを想っていたのだが、ひとつ非常に悩ましいことがあった。
週末にフーコとマルテが連れ立って飲みに行くことが多いのである。
それを見ているハンナは気が気では無い。
フーコはハンナの直属の上司である。付き合ってんすか? とは聞きづらいものがある。
その点においてハンナはなにも行動できずにいた。そのやりきれぬ想いがヌーブラを三枚入れるなどのおかしな方向に変換されたのであった。
ハンナは教室に帰って、エーコの弾くアンプ直刺しの荒っぽいギターを伴に「クラシック」というお気に入りの曲を歌った。まぎれもなく憂さ晴らしである。ハンナの歌は父親譲りなのかそこそこうまく、エーコもジュディマリのギタリストであるTAKUYA氏のプレイをなんとなーく真似して跳ねるようなカッティングでハンナのボーカルを彩った。
今アツイキセキがこの胸に吹いたら
時の流れも水の流れも止まるから
いとしい人 震える想いをのせて
いつまでも夢の中にいて
酒も入り、気分は最高潮である。
「エーコちゃん、アタイの歌どうよ。案外うまいでしょ」
「うまいよ。ってか似てる。笑える」
ハンナはライブ動画などを見て、YUKIの声真似、形態模写にみがきをかけ、YUKIのガーリィでコケティッシュな身振りをむちゃくちゃに誇張して披露した。テンションが上がったハンナはアイシャドーとチークを己が顔面にめちゃくちゃに濃く塗って、劇団四季さながらの厚化粧で踊り狂った。エーコがギターを弾けなくなって、喉飛び出んじゃねぇの、ってほど笑うので、調子に乗って過剰な身振り手振りを交えてベットの上をステージにして歌った。
気持ちがよかった。エーコの手を取りふざけたおもろいダンスをふたりで踊った。たのしーい。
たのしーいのだが、マルテへの想いとフーコへの嫉妬、不安がつのる夜などは、ハンナの精神は千々に乱れ、歌詞に自己を投影し、最中にいきなり嗚咽しながら涙ぐんだりするなどして、楽しく笑って踊っていたエーコをぎょっとさせた。アイシャドーが流れ血涙のようになり、非常に不気味なYUKIになった。しかもそのまま発狂したように踊るのでキモいことこの上ない。どうにも情緒が不安定な娘である。
ここにきてハンナの恋の病はいよいよ重篤化、眠れぬ夜などザラで、あまりにもぐるぐるマルテのことを考えるものだがら、それによるストレスと不眠で自律神経がぐちゃぐちゃになった。結果頭痛、便秘、耳鳴り、動悸、息切れなどが慢性的にハンナを襲い、天候不順などが重なって容体が酷いときなどはエーコにあたしは死んじゃうのかなぁ、なんてあほらしいことを言う始末であった。エーコはそんなハンナを鼻白みながらも看病し、マルテへの嫉妬と恋愛というもののやっかいさを感じていた。
フーコに勇気を出して言うことにした。
黒髪のきれいなロングヘアを神経質に触りながら白シャツにニッセンとかで七〇〇〇円で売ってそうなフレアスカート、それにいつも裸足、冬でもストッキングなど履かずに生足。口が開きッぱなしで目つきがわるい。全体的に雰囲気がやけくそというか、乱れたいやらしさが全身からただよっていた。
ハンナは意を決してフーコの席の近くにいき、小声ではなしかけた。
「あの」
「なに」
「今時間ありますか」
「うん」
ハンナはもじもじしながらも言った。
「もうマルテさんと会うのやめていただけないでしょうか。あたし、マルテさんとのことは本気なんです」
フーコは表情を変えなかった。感情が読めない。疲れているのか死体のような顔色であった。
「ああもう、やだ。こういうやりとり一番嫌い。しょうもないしめんどうくさいなぁ。つまんない日本のドラマって感じ。脚本家の才能の無さを感じるよね。日本の脚本家は拷問の果てに死に絶えるべきだよね。とにかく私がマルテさんから誘われてるんだよ。私からじゃないから。マルテさんに言ってよ」
ハンナはいやな気持ちになった。ハンナは日本の恋愛脳クソドラマにもそれはそれで魅力を感じていたし。それはどうでもよい。肉体関係があるということで、両親のこともありなんだか不潔な予感がしたからである。
「そのー、あのう、フーコさんは、マルテさんが、そのう、好き、な、んでしょうか?」
気弱なハンナは消え入るような声で訊いた。
「ああだる。クソが。だるすぎて眠い。なんでそんなこと知りたいの?」
「だから本気なんですってば。あたしはマルテさんがすごい好きなんです」
「うん。だから?」
「もう誘われてもいかないでほしいです。お願いです。なんでもします」
ハンナも自分が支離滅裂なことを言っていることに気付いていた。マルテと恋仲なのであれば、マルテにフーコを誘うなと直接言えばいいではないか。これはある意味ハンナにとって恋敵への宣戦布告であり、かなり踏み込んだ先制パンチであった。だが意外にも事態はハンナに都合の良い方へうごいた。
「じゃあハンナちゃん。わかりました。提案があります。はやく一人前になってくれる? 私の仕事が全部できるようになったら、マルテさんと会うのやめてあげるよ。交換条件です。約束する」
「今やめてください。お願いです。おねがい。辛いんです。仕事はやります。すげぇがんばります」
「それはそうしたいけど、正直今すぐは無理だよね。仕事ぶり次第かな。あなたの仕事が出来ないうちは、マルテさんに誘われたら断りません。正直な話、めちゃめちゃエロいことやられます。でもあたしは拒めません。それに、マルテさんは仕事が出来る女が好きなんだよ。だから出来るようになればおのずからハンナちゃんの方が誘われる感じになるよ」
ハンナはそのイヤミな感じに腹立ちつつ、奮起した。今までの無気力な人生の中で、奮起したのはこの時が初めてであった。
ハンナはフーコのぶんも仕事をやることになった。徐々にであるが、フーコはハンナの限界を少し超えるくらいの負荷をかけ、業務に支障が出ない程度に自らの負担を軽減し始めた。
それからのハンナの仕事への集中といった神域に入ったかとおもわれるほどであった。
南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光権現、宇都宮、那須のゆぜんの大明神、願わくはこの恋の真ん中射させてたばせ給え。これを射損ずるものならば、手首切り折り自害して、人に二たび面を向かうべからず。今一度本国へ向かえんと思し召さば、この想い外させ給うな。ってかんじだった。二徹三徹も一顧だにせず。社畜と呼びたくば呼ぶがいい。我こそが恋の虜。
いくら遅くなってもエーコは適当な食事を作って待ってくれていたし、なんなら体育館までカレーうどんとか持ってきてくれることもあった。やさしい娘である。その出来は最初は拙劣であったのだが、次第に腕を上げていった。ハンナはよく、「エーコはいい嫁になるね」と嫌われている親戚のおじさんみたいなことを言ったが、エーコとしては「それ言うのやめて」といやがった。エーコは誰かの嫁になぞなるつもりはなかった。
正社員、契約社員、系列会社の社員、得意先の事務処理担当など、連絡先のデータをフーコから受け取ったハンナは、おずおずと処理を始めた。請求書処理、発注処理、ほとんどの仕事をハンナが回している状態となった。
トイレに数分の間席を立って戻ってきたら新たな仕事依頼が何件もたまっているというていたらくで、AIに処理をさせたほうがいいのでは、とおもったが、これは自分がやっていることが重要なのだ、という事が理解しかけてきた。
明らかに自称クリエイティブおじさんたちはハンナ目当てでskypeをかけてきたし、雑談やプライベートなことやセクハラが増えてきた。
データアナリストとかいうよくわからない肩書のおじいちゃんである。すでにシステムについていくのを諦めていて、すべて若者にまかせている、みたいな老害だ。
「ぼくアナリストだからアナル大好き。だからハンナちゃんアナル見ーして。なんつってね」
「やだーもうなにいってんのー。セクハラですよー。もう発注しませんよー」
「うそうそ、ごめんね。この件処理よろしくね」
「すいません、ちょっとここ金額記入されてないですよ。これじゃ発注できないんですけど」
「これはしたり、吾輩としたことが。失礼しました。記入して送るね」
「はーい。わかりました。がんばってくらさいね。にっこり」
ハンナは本気でその爺いをぶっ殺したくなった。でもこんな低俗なやつが、あの渋谷スクランブル交差点の広告とかに関わっていたりするのでこの世は不思議である。イライラするのでおもわずして「高齢者 死にやがれ」で検索。検索結果は高齢者への恨みを持つ同士たちの暴言であふれていた。ハンナはそれを読むことによって、共感し、ちょっとだけ溜飲を下げた。
ハンナの中でマルテ以外の男性の評価がぐんぐん下がり、その分マルテは神格化されていった。マジ尊い。毎日忙しくしているわ。新しい人生をわたしなりに歩いてる。なんつってね。しかし脳が液体になっているのではと疑われるくらい疲れた。おじさんはセクハラによってエネルギーを回復するが、あたしはエネルギーを奪われていく。でも目標があるのだ。フーコからマルテをひっぺがす。そのためにがんばる。しんどい。でも頑張る。でもしんどい。でもがんばる。これしんどすぎない? わらってしまうわ。仕事ってこんな辛いの? でも頑張る。自分のペースで生きてる時間が少ない。ずっとまわりに人がいて辛い。辛い。辛い。辛い。でも頑張る。なぜならマルテが好きだから。辛い。つかれた。ハンナはこんなにも辛いのは、もしかして自分だけが特別能力が低いのではないか、と内心疑っていたが、普通の人でありたいという切実な思いがそれをかきけした。「あれ」も仕事中しょっちゅうだったが、ハンナはマルテのために身を粉にしてがんばった。
ハンナは仕事に熱中しながらも、ある考えがあたまをもたげていた。自分の仕事は正直AIで代用できる。しかしなぜ生身の女を非効率なのに置くのか。
それは結局、男性向けの慰安の機能を持たせるためである。ハンナくらいかわいい女の子が事務的なバックアップをすることで男性社員のメンタルケア、モチベーションアップ、セクハラしてストレス解消、などの効能がある。仕事上の能率よりも、社員の内面のケアってわけ。さすが大企業。受付だってAIじゃなくて生身の美人がいいもんね。なっとく。なんてハンナはおもっていたが、それって水商売とどこが違うのか、という新たな疑問が浮上した。そしてそんなことをぐるぐる考えるのも、仕事が既にいやになっていたからで、最終的にはフェミニズムとかジェンダー論とか、アホのくせに難しいことをググったりして不毛な時をすごした。
朝からへろへろなのにも関わらず、レッドブル三本開けて仕事をこなしていたハンナに、すっかり肌ツヤが良くなったフーコが声をかけた。
「ハンナちゃん、あんたすごいね。もうマルテさんの誘いは断るよ。約束する」そういってフーコはあだっぽくわらった。
へろへろになって目も虚ろなハンナは狂喜した。ほんとですか、とつめよって、ほんとだよ、と確認もとった。
ようやっと、なにかを頑張ることができたのである。逃げなかった。おっかないフーコにも大量の仕事にも毅然と立ち向かった。そして打ち負かしたのだ。しゃかりき社畜ライフに身をやつした甲斐があったというものだ。というかフーコは話の分かるいい人だった。意地悪ではない、一本筋の通ったイイ女じゃあないか。
「フーコさん、あたし、あなたのこと誤解してました」とハンナはつまんないテレビドラマみたいなセリフをまた吐いた。やっぱりどこかイタい女である。
フーコはなんじゃそりゃ朝ドラかよ、と言って盛大に笑いたかったが、彼女はおくびにも出さず、「そう」と言ってあしらった。日本の風俗嬢、元風俗経験者というのは、ちょっと頭のおかしい人間に対するコミニュケーション能力が世界でも有数に高いとおもわれる。フーコもそうであった。
「こちらこそ、あなたを変なバカ女だと誤解してたかも。冷たくしてごめんね。いつもエーコと仲良くしてくれてありがとう」とめちゃいい笑顔で答えた。
「いやぁ、変なバカ女で合ってますよ。はは。エーコさんにはいつもお世話になってます」
ハンナはフーコを全面的に信頼した。マルテへの嫉妬とエロい肉体への羨望のせいでこの人の人間的な所をあたしは無視していた。
「エーコは昔からなんか表現したくてうずうずしてた感じだったのね。言葉以外でコミニュケーションしたいんだとおもう。自分と感性を共有できる人が周りに居なかったから……あの子の作るものってあまり理解されないから、かわいそうなのよね。インダストリアルミュージックっていうらしいけど、私にも理解できなくて。あの子めちゃくちゃなものが好きだから。ぜったい認められないの」
「わかります」
「やさしくしてあげてね」
「はい」
「あと、マルテさんとうまくいくといいね」
「いやあ、はい。あざっす」
フーコとの多少ぎこちない関係はあるけども、大体の人間関係が良好で、ハンナは生まれて初めて幸せだな、と感じていた。ちょっとびっくりするくらい順調。集団になじんでいる。体はへとへとだけども仕事も恋も友情も絶好調、なんて平塚や渋谷できゅうきゅうしていたときとは大違い。めんどくさい母がいないからだろうか。とにかく地元から相模川を挟んだ向こう側の茅ヶ崎でハンナは幸せだった。自分でもよく笑うようになったように感ずる。顔面の方も絶好調で、いつにもまして美人な気がする。正直鏡なら一日中見ていられる。こころなしかオードリー・ヘップバーンに顔面が寄ってきた気がする。ハリウッドとかでも成功する気がする。マジ人生好調。勝ち組確定。セレブ。
次の日、ハンナにマルテからメッセージが来た。
うれしいお誘いだった。。
「ハンナちゃん、今一人で飲んでるんだけど、いまからうち来ない?」
ついに来た。
この時が。
無駄な改行をするほどにハンナの精神は高揚した。現状の下着の柄や、口臭、体毛の処理具合などを確認した。
悪くない。というか我が容姿はかなりいい状態にある。若干歯が黄色いかもしれんが止むを得ん、吶喊する。いける、行ってしまえ。と高速で判断した。
「行きます! おつまみとお酒買ってきますねー♡」と何回か推敲したのち送信し、今できる最速の身だしなみを整えたうえで覚悟をきめた。
マルテのマンションへ向かう道中、ハンナの脳内はこの上ないほど混乱の極致にあった。だが確実なのはマルテに対する愛情が自身の中でそれを上回る程に育っているというのを自覚していた。それは理性とは別のところに存在していて、自分の肉体を完全に支配していた。呼ばれてのこのこ家まで行くなど、抱かれに行くようなものだ、とハンナは恥ずかしくおもった。マルテの生まれついての王子様みたいな上からのものいいがハンナにとっては心地よく、承諾してしまった。しかし、男性一人暮らしの部屋まで行っといて性交渉を拒むなんて女は、サイコホラー映画のレビューに「暴力的なシーンが多かったので★ひとつです」って書く人みたいなもので、なにがしたいの? とおもわれてもしょうがないらしい。ってネットの人が言ってた。初体験だの破瓜だの言葉にするから憂鬱になるのだ。このタイミングでいいよね。ベストだよね。そうおもってハンナはエーコに教えてもらったベイビーシャンブルズを聴き始めた。自らを鼓舞する為であった。ファックフォーエバー、イフユードンマイン。へなへなのヘタクソなギターが心地よい。あたしはこの恋に命を懸けているのだ。身体なんてどうだっていい。今、ここが大事。
初めてのマルテの部屋はこぎれいな部屋だった。適度な広さ、家具、照明、遊び心。資本主義一辺倒じゃないのも洋書や楽器などでアピールしつつ、多少の生活感も忘れない感じがいい。
ハンナは部屋に入り、調度品や家具などの感想を簡単に述べ、エーコの面白かったはなしや最近見た映画の話に移行、部屋を若干暗くしてオシャレ映画の最高峰である「ナイトオンプラネット」などを無駄に豪華なオーディオシステムで視聴、実に自然な形でソファの上でことが始まった。
指先が偶然のようにちょこんと触れた。神経が露出しているみたいにビリビリと相手を感ずる。触れたか触れなかったような瞬間をもう一度、もう一度。指を絡めたくなる。で、実際におずおずと絡めてみる。力をいれてぎゅっとにぎる。不安が幸福に相転移する。
ハンナは頭脳と関係ないところでほぼ無意識的に、口走った。
「あの、ごめんなさい、好きです、大好きです」
ハンナはついに言ってしまった、とおもった。
不安で泣きそうだ。
マルテは笑って、「もう、部屋に呼んじゃってるわけなんだから、そういうのはもう、ねえ?」と言った。
ハンナは、あ、そういう感じでいいの? と自身が教科書にしている少女漫画とは若干違う展開にどぎまぎしたのだが、とりあえずこれはお互い好きあっている、と認識で正しいのでございましょうか、たぶん、って判断した。
そのあとはベッドに誘われ、人類が何万年とあたりまえのように繰り返してきた男女の情交ってやつをしますか、ってムードになった。いざ、というときにハンナは若干尻込みし、「ちょっと汗かいちゃったからアレかもな」とか「最近急に太ったんですよね、肌の調子も悪いし。忙しかったからかなぁー」とかいろいろと自身の肉体について言い訳をぐだぐだ言っているうちに、マルテの白く細長い指がハンナの着物の裾を割って入ってきた。その巧みさにびっくりする。
「はじめて、だよね?」とハンナの秘所をまさぐりながらマルテは訊いた。
「はじめてのはずですよ」とハンナは真っ赤になりながら答えた。
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